「ふつう学級で大丈夫かな? この子はまだ何もできないから」
相談会でよく聞くことば。
「どんな障害があっても『人とのつながりに安全を感じる』ことはできる」
「人とつながり、調整しあうことはできる」
だけどふつう学級に安全を感じる人は少ない。
もしかしたら、障害があることが「危険」だと思っているんじゃないだろうか。
確かに、段差だらけの町や建物、ホームドアのない駅は危険にみえる。でもそれは「障害」のためじゃなく、障害者を「分けて作られてきた社会」だから。
子どもたちの関係性の安全も同じ。
障害のある子との「安全な人間関係」のつくり方を知らない大人ばかりだから、危険にみえる。
希望は、子どもたちのつながりの安全にある。
すべての子どもたちの安全な「今」が、社会の安全な「未来」につながる。
「絶望」とセットで語られる「親亡き後」という言葉を、「希望」とセットで使えるようにするには、これしかないと思うんだけどな。