ワニなつノート

相互行為

久しぶりに、トム・キッドウッドのこと。

この間、ほとんど本を読む時間もなかったのですが、なんとなく二つの言葉が浮かび上がってきました。

《人はそれぞれ意味を作り出し、行動の源泉である。》

《個々人が他人の行動の意味を解釈するとき相互行為が起こる。》


         


《人はそれぞれ意味を作り出し、行動の源泉である。》
この言葉は、とてもしっくりきます。
子どもの問題行動といわれる中身を、「適応行動」だと思えるようになって、あらためてこの言葉の意味が分かります。

「この子は、どうして、こんな行動をするのだろう?」と考えることと、「認知症の老人が、どうしてこんな行動をするのだろう?」と考えることが、同じ言葉に行きつくのは自然なことなのでしょう。

《人はそれぞれ意味を作り出し、行動の源泉である。》


その次に、私が考えるのは、《「相互行為」が起こらないこと》についてでした。

「差別」には、意識的なものと、無意識なものがあります。

人が人を意識的に嫌い、排除しようとすること。

もう一つが、そもそも(無意識に)「相互行為」が起こらないこと。

意識的な差別であるなら、「なくしましょう」「やめましょう」と教えることもできます。
でも、そもそも「障害」のある人と出会ったときに、「何も起こらない」人に、何かを伝えることはできません。

私が、子どものころから身に着けてきた差別は、意識的なものよりも、「相互行為が起こらない」という差別の方こそが膨大なものだったと思います。

私が子どものころから身に着けてきた差別。
それは、主に、地域社会や学校で教えられたことです。

特別、言葉で教えられなくても、教科書に書かれていなくても、そこに「いない」ことで、私たちは、「相互行為」が起こらない、という差別を身につけます。

相互行為が起こらない、こと。
それは、透明な宇宙人と出会ったときのような状態かな。
太平洋の真ん中で、クジラと二人きりになったときのようかな。

どんな例えがいいのか、思い浮かばないけれど、特別支援教育とは、子どもたちの「相互行為」を阻害しているんじゃないかな、と思います。
少なくとも、そうした影響が、子ども時代に、そして将来大人になってから、どんな影響があるのかを、考えてはいないように思います。
(つづく)


         


今日は、hideと一緒に、県庁に行って、先日の虐待事件に関する「情報公開」の手続きに行ってきます。
保護者が行っても、「個人情報」だからと、事件に関する一切の情報を見ることができませんでした。
では、どうすれば、hideの虐待事件に関して、県がどんな調査をし、どんな指導をしたのかを知ることができるのか。
「本人でなければ申請できません」ということなので、hideと行ってきます。
「本人じゃなきゃ」っていうんだから、本人が行ったら、ちゃんと対応できるんだろうな~と、hideを置いてこようかな(@_@;)
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