「インターネットと国家」

2010-12-08 13:25:26 | 「パラダイムシフト」
  

  

           「インターネットと国家」


 インターネットが広く社会に普及して所謂「ネット社会」が生ま

れ、単に情報だけでなく商品の流通や人々の交流をも変えようとし

ている。言われていた様に我々の生活はより便利に拡がった。スー

パーへ買い物に行かなくてもお気に入りの商品が届き、本屋に行か

なくても新刊書が読むことが出来る。更には気の合わない隣人と仕

方なく付き合わなくてもチャットで知り合った他人との交流が退屈

を紛らわしてくれる。

 しかし、生活がいくら変わったとしても、所詮「ネット社会」に

持ち込まれる情報はこれまでの情報でしかなかった。独り善がりのブ

ログ小説(これは自分の書いた物です)や親ばか子育てブログ、独善

的なネット右翼のブログ、更には猫可愛がり動画など、「あっ!」

エロ動画サイトを忘れとった、何れもこれまでの社会が抱えていた

「閉塞」がただ「ネット社会」に引っ越して来ただけのことではな

かったか。もちろん、共感によって慰められることが無意味だとは

言わないが、果たして「IT革命」とはこの程度のことを言うのか、

と落胆していたら、内部告発者による国家機密の暴露を掲載するサ

イト「ウィキリーク」が現れた。創設者のジュリアン・アサンジ氏

は「世界の全ての地域で政府や企業によって行われている非倫理的

な行為を暴露したいと考えている人たちを支援していきたい」(ウィ

キペディア「ウィキリーク」より一部抜粋)と語り、権力者が隠さな

ければならない情報を次々と暴露した。そもそも民主主義社会の主

権者とは国民であって一部の政治家ではない。主権者たる国民は政

治家が如何なる公の情報を隠蔽しているかを知る権利がある。「国

家」という組織が一部の実行者の情報機密によって保られていると

すれば、やがて「国家」は「ネット社会」によって崩壊させられる

だろう。彼が主張する「市民社会」とは国家主義からの決別なのだ。

「ネット社会」は一方で世界のグローバル化を推し進め、他方では

市民の自立を目覚めさせ人々は世界市民であると同時に自己を主張

し始めた。そして最早そこには「国家」の影が存在しない。「国家」

というものが権力によって営まれるとすれば、何れ世界は中心とな

る権力のない多様な市民社会がインターネットによって繋がりなが

らそれぞれの地域に根ざした民主政治が営まれるかもしれない。

 かつて、グーテンベルグによる印刷技術の発達が情報社会を変革

し、その結果、一部の聖職者だけが独占していた聖書が一般に広ま

り、聖職者たちが神の名を騙って行った不正を暴いたマルティン・

ルターの「宗教改革」のように、ジュリアン・アサンジ氏はインタ

ーネットによって国家の隠蔽を暴く、謂わば現代のマルチン・ルタ

ーではないだろうか。そしていつの日かそれを「国家革命」と呼ぶ

日が来るかもしれない。


                                 (おわり)


      




          「あほリズム」(再掲載)



          (100)



 ポスト近代とは、「脱」国家主義である。





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