「あほリズム」(101)~(108)

2010-12-26 04:16:52 | アフォリズム(箴言)ではありません
          「あほリズム」


           (101)


 さすがにユークリッドも「非」ユークリッド幾何学までは考え及

ばなかっただろう。しかし「非」ユークリッド幾何学はユークリッ

ドの定義なしには生まれなかった。つまり、「誤り」などと言うの

は実は存在しないのだ。ただ、その時代の「実情にそぐわない」

だけのことなのだ。



            (102)


 我々が追い求める「真理」というものは、我々の認識によって導

き出された因果律に過ぎない。つまり、我々の認識を超えた「真

理」は見逃され僅かばかりの認識できるものだけを「真理」として

認めてきた。だから、人間が人間の「真理」を語るように、サルに

はサルの、鳥には鳥の、それぞれの「真理」が存在する。



           (103)


 我々の認識が正しいかどうか確認する為に「誤謬」は存在する。

だから「真理」は「誤謬」を避けて得られない。つまり、「真理」は

「誤謬」を誤謬と認識することから生まれる。


           (104)


 我々は「誤謬」を怖れて「行為」を躊躇ってはならない。何故な

ら、「誤謬」のないところに「真理」は存在しないからだ。そして

「真理」であるか「誤謬」であるかは我々の「行為」から始まる。



           (105)


 ところで、我々は「改革」について語ることには熱心だが、自ら

「行為」することに何と冷心であるか。認識が齎されない議論ばか

りしていては「誤謬」も、従って「真理」も得られないだろう。我

々は誰もがこの国の現状を憂いて訴えて批判して絶望して語り尽く

すことで満足して、結果何一つ変えようとはせずに死んでいくのだ。

これを私は我々の「語る、死す」と呼ぶ。



           (106)

 
 「行動」そのものは「真理」も「誤謬」も確定し得ない。ただ、

我々の旧い認識だけが老婆心の先回りする。「行動」を怖れるな!

動く物達よ!何故なら「行動」することからでしか新しい認識は

生まれてこないのだから。




            (107)


 序列や名分といった形式を重んじる儒教道徳に縛られた減点主義

(リゴリズム)の社会で、若者はいったいどんな希望を持てばいいの

だろうか?空調の効いた広い檻の中で美食に満たされて出来る限り

動かずに生きていたいと願うのだろうか?果たしてそれが自由を手

に入れた「動く生き物」の相応しい姿なのだろうか?



             (108)



 我々は「自由」を思想として捉えているが、本来「自由」とは自

らの意思で「動く」ことが由来であるならば、我々の暮らしは様々

な自動機械に取り囲まれて、手段である筈の道具が我々の生活の目

的となって、思想の自由とは裏腹に自らの意思で動くことを失くし

た何と「反」自由な生活をしていることだろうか。そして、動くこ

とを厭う者が自らの自由意思に従って行動することが出来るだろう

か。つまり、我々は「行動できない自由」主義者なのだ。果たして

行動できない自由までも自由と言えるのだろうか。

 おおっ!それこそは家畜に与えられた自由ではないか!




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