「英雄と極悪人」

2012-09-01 09:28:26 | 「パラダイムシフト」



          「英雄と極悪人」


 戦争とは、敵の多くの人々を殺した者が味方の英雄として讃えら

れるのだが、自国で英雄として祀られる英霊が命を奪われた人々の

国では極悪人として子々孫々に伝えられる。司馬遼太郎が言うには、

朝鮮半島の人々が旧日本軍による辱めを口にしなくなるまでには恐

らく二千年は掛かるだろうとのことである。彼らは日本に対して事

あるごとに向う二千年は過去の謝罪を求めてくるのだ。ところが、

一方の我々日本人はといえば、極悪非道の鬼畜英米も僅か五分足ら

ずのラジオ放送で転向して忘れてしまい、今や日米同盟はわが国の

鬼畜じゃない基軸である。更に、つい一年前に起こった大災害やそ

れによって引き起こされた原発事故の記憶さえも既に忘れてしまい、

早々と原発の再稼働を認めてしまったように、忘れることにかけて

は世界一の国民なのだ。二千年にも亘って過去の忌まわしい記憶を

持ち続ける国民と、たかだか一年前の国家存亡の危機さえも忘れて

しまう国民がどうして認識を共有することができるだろうか。我々

が水に流そうとすることこそが彼らにとっては新たな辱めとして記

憶に留められるのだから。

 あのー、実は、私はまったく別のことを言いたくてキーボードに

向かったのですが、さて、何を言いたかったのかすっり忘れてしま

いました。いま一度思い出しますのしばらくお待ちください。

                                 (つづく)

「英雄と極悪人」のつづき

2012-09-01 09:27:12 | 「パラダイムシフト」



        「英雄と極悪人」のつづき



 今年は、イギリスとアルゼンチンの間で起こったフォークランド

紛争から30年目らしい。

[http://www.afpbb.com/article/economy/2868848/8716682 ]

アルゼンチン出身の作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスが、「2人のは

げ頭の男が、使うあてもないクシを奪い合っている」と皮肉った「

不毛」の争いはどうもそうではないらしい。確かにクシなら役には

立たなかったが、よく見るとそれは海底を掘削するための熊手だっ

た。周辺の海域に「莫大な埋蔵量が見込める油田が存在することか

ら、両国の間で再び緊張が高まっている。」更に、以前は採算が合

わなかった採掘も原油価格の高騰によって見込めるようになった。

つまり、辺境の不毛の島は今や海底資源をもたらす宝島へと変貌し

た。熊手を奪い取ったイギリスはさっそく採掘を行ない2016年

までには汲み上げを開始するという。一方のアルゼンチンはこのま

ま指を咥えて見ているだけとは思えない。事実、フェルナンデス・

アルゼンチン大統領はことある毎にイギリスへの非難を繰り返して

いて紛争が再燃しかねない。このことは、日本海に於ける竹島・尖

閣諸島の領有権争い、または北方領土の返還にも大きな影響を与え

ているに違いない。つまり、それぞれの国は、あるかもしれない海

底資源を日本に奪われないために目の色を変えて領有権を主張して

いるのだ。しかし、実のところは正確な埋蔵量や採掘による採算性

というのは実際に採掘して見なければわからない。「5企業がフォ

ークランド諸島周辺で試掘を実施しているが、これまでのところ大

量の石油埋蔵量が確認できたのは英国系開発企業ロックホッパーが

試掘した諸島北方のシーライオン油田のみだ。」それでも「推定埋

蔵量4億5000万バレル」、北海油田の原油推定埋蔵量130億

バレルと比べてみれば如何にショボイかが判る。例えば、皮算用を

して双方で多数の戦死者を出すような激しい戦争の末に、熊手を奪

った方がいざ試掘をしてみると、まったく採算に合わなくて、然も、

隣国との間に未来に亘って亀裂が生まれ、ではいったい何のために

多くの国民の命が犠牲になったのかということにもなりかねない。

やがて、我々の頭から毛が抜け落ちて、奪った熊手は使うあてのな

いクシだったということになるのだ。強欲に引き摺られて我々はそん

な愚かな争いに帰着するかもしれない対立に一歩踏み出そうとして

いる。

                                      (つづく)

「英雄と極悪人」のつづき ②

2012-09-01 09:26:25 | 「パラダイムシフト」



        「英雄と極悪人」のつづき ②



 「プロレタリアートに国家なし」と言われるように、国家に諂っ

て既得権益に与る者たちやそれに媚びるブルジョアは、俄かに領土

問題が表面化して頻りと国民に愛国心を訴えかけるが、将来が描け

ない非正規雇用者や、或いは、食うことも儘ならない年金生活者と

いった格差社会の底辺で不安を抱えながら暮らす者にとって、縦し

んば、経済成長著しい国が支配して、再び進駐軍が現れて「今日か

らあなたたちはわれわれの仲間だ」と言われ、「新しい国家の下で

共に生きよう」と、夢と生活を約束されたならば、不公平な自由主義

や報いのない愛国心よりはよっぽど障りなく耳に届くことだろう。

つまり、私が言いたいのは、格差社会の不公平を放置したままいく

ら国民に愛国心を訴えてもプロレタリアートの胸には響かないのだ。

かつて我が国の国民が左右に分かれて階級闘争を繰り広げた背景に

は不公平社会と貧困が大きな原因だったはずではなかったか。恐ら

く昨今の情勢を伺うに、やがて当たり前のことのように「自分たち

の国は自分たちで守ろう」と憲法改正が行われることだろう。そし

て、仕事に就けない若者たちは今よりましだとばかりに「戦災」一

隅の幸運を求めて挙って派遣先の会社のヘルメットを日の丸の付い

たヘルメットに替えるに違いない。しかし、繰り返すが、不公平な

格差社会を糾さずに、自らはヒエラルキーに守られて黙って従えと

ふんぞり返って命令を下す者は、銃を手に入れたプロレタリアート

が「敵は上官だ」とばかりに、初めて引く引き金が敵の兵士に向け

られずに、まず彼らの頭をぶち抜いて社会変革のクーデターを企て

ることだって起こるかもしれない。そんな時代が過去にはあったこと

を肝に銘じておかなくてはならない。

 もう、小説に戻ります。

                                          (おわり)


「蛙とミサゴ」

2012-09-01 09:24:59 | 「パラダイムシフト」
 


            「蛙とミサゴ」


 米軍機「オスプレイ」の配備に抗議する岩国市では、かつて、在

日米軍再編計画が持ち上がった時に、厚木基地からの空母艦載機の

移転受け入れを強固に反対する井原前市長が、対立する自民党政権

によって市庁舎改築事業の補助金を凍結され、更に、政府に同調し

て米軍再編交付金の受け入れを迫る議員が過半数を占める市議会に

よって、市長が提案した補正予算を通算五度も否決されて、四面楚

歌の中で追い込まれた市長は予算成立と引き換えに辞職して、20

08年2月10日に、空母艦載機の岩国移転問題を争点にした市長

選が行われた。福田現岩国市長はその選挙に於いて移転容認を訴え

て反対する井原前市長を退けて岩国市民によって選ばれた。つまり、

在日米軍の岩国移転は岩国市民によって合意されたのだ。井原前市

長はこの様な事態を恐れていただけにさぞ口惜しい想いをしている

ことだろう。貴方にだけは、岩国市民に向かって「ほら、言わんこ

っちゃない」と言うことが許される。

 「オスプレイ」の岩国基地への配備計画はその後に突然持ち上が

った話しとはとても思えない。すでに、2005年の日米安全保障

協議委員会の「2+2」の時点で大枠は決まっていたに違いない。

今から思えば、普天間基地の移設計画も在日米軍移設計画もすべて、

オスプレイ配備による飛行の危険が伴うことから市街地を避けるた

めの計画だったとしか思えなくなる。それは、当時の自民党政権が

執った有無を言わせぬエゲツナイ嫌がらせがそれを物語っているで

はないか。更に、後を引き継いだ民主党政権も「オスプレイ」を陸

揚げしてからその安全性を確認するなどと本末転倒をいけしゃあし

ゃあと恥じもせずに述べている。いったいどこの国がその安全性に

疑いのある輸送機を、何もかもが計画され搬送陸揚げしてから調べ

始める国があるだろう。

 今、岩国基地で起こっていることは基地移転の受け入れを容認し

ていた現市長を2008年の市長選挙で岩国市民が選んだ時点で決

まっていたのだ。元自民党議員だった福田現岩国市長は、実は何も

かも知っていたとしか思えない。政府に抗議する姿さえも市民に向

けたポーズとしか思えなくて白々しく映る。地域振興を基地移転と

の引き換えの補助金に縋り、軍民共用のきれいな岩国錦帯橋空港

を作って貰って大喜びしていた岩国市民が哀れでならない。

 西洋の寓話にこういうのがある。 

 (本来は「鷺」(さぎ)ですが「ミサゴ」(オスプレイ)に変えてい

 ます。ケケロ脱走兵)


 幸せに暮らしていた蛙たちの前に神様が現れて、

「何か願い事を叶えてやろう。」

と云った。ところが蛙たちは、

「いいえ、私たちは今のままで十分幸せですから何もいりません。

ただ、もしお願いを聞いて頂けるなら、あの美しいミサゴ(オスプ

レイ)を下さい。何故なら、私たちはこんなにも醜い。あの美しい

ミサゴが、いつも私たちと一緒に居てその美しい姿を見ることがで

きるなら、こんな嬉しいことはありません。」

神様は早速願いを叶えてやりました。蛙たちは、美しいミサゴ(オ

スプレイ)を見てみんな大喜びでした。しかし、しばらくしてミサ

ゴは、その池の蛙を全部食べてしまいました。


 神様もミサゴが自分の周りを飛び回るのが怖かったんだろうね。


「キルケゴール著『死に至る病』から、私自身のための警句」

2012-09-01 09:23:10 | 従って、本来の「ブログ」


 「キルケゴール著『死に至る病』から、私自身のための警句」




 一般に、孤独への要求は、人間のうちに精神があるということの

しるしであり、またそこにある精神をはかる尺度である。「ただお

しゃべりだけをしている人でなしや世間人」は、孤独への要求を感

じるどころか、ほんの一瞬でも孤独でいなければならなくなると、

まるで群棲鳥のように、たちどころに死んでしまう。幼い子供が子

守歌をうたって寝かしつけられねばならないように、こういう人た

ちは、食ったり、飲んだり、眠ったり、祈ったり、惚れたりなどで

きるためには、騒々しい社交の子守歌で心をしずめてもらうことを

必要としているのである。しかし古代においても中世においても、

この孤独への欲求は気づかれていたし、その意味するところに尊敬

がはらわれてもいた。しかるに、社交に明け暮れる現代においては、

犯罪者に対する刑罰としてよりほかに用いるすべを知らないほど(

おお、なんとすばらしい警句であろう!)、それほどまでに、ひと

は孤独を恐れているのである。ほんとうに現代では、精神をもつと

いうことは犯罪を犯すことなのだ、してみれば、このような人々が

、孤独を愛する人びとが、犯罪者の部類にいれられるのも、当然の

ことではないか。(筑摩世界文學大系32キルケゴール「死にいた

る病」桝田啓三郎 訳)