「継続か撤退か」③

2012-09-01 09:07:17 | 「パラダイムシフト」



         「継続か撤退か」③


 思うに、政治家や官僚、或いは経営者たちは、与えられた職分か

ら常に現実をどうするかに迫られている。彼らが社会的身分を預け

て一個の人間に戻って原発の是非について本音を吐く時と、職分を

背負って建前を語る時では恐らくその意見に多少の違いがあるので

はないだろうか。社会的職責を負った彼らは、原発停止によって社

会生活が混乱する責任を忽ち求められる。電力供給が不足してブラ

ックアウトになればその責任を問われるのだ。結果が求められる経

営者は業績の悪化を電力不足の所為にしても失われた生産は保障さ

れない。再び原発事故による放射能汚染の被害はどうしても避けな

ければならないが、それを補う方法がすぐには見つからないなら、

已むを得ず現状を継続するしか仕方ないではないか。果たして、原

発の再稼働反対を訴える人々は社会インフラやライフラインに支障

がきたしても耐え忍ぶ覚悟があるのか?彼らが求める原発停止によ

って社会機能が混乱し、それはそのまま彼らの生活に撥ね返ってく

ることを認識しているのだろうか?

 と、まあ、現状の継続を決断した社会的職責を負わされた立場の

人々は、已むを得ない選択であると言うかもしれない。それならば、

ドイツ政府の様に何時いつまでに原発を廃止する為にオルタナティ

ブエネルギーにシフトすると明言すれば、国民も已むを得ない執行

のための猶予期間であると容認せざるを得ないが、脱原発を訴える

人々が政府に不信を抱いているのは、福島原発事故が起こって菅前

総理が脱原発を宣言したにもかかわらず、野田現政権は国民の声を

まったく無視して根拠のない安全宣言を元に大飯原発の再稼働を認

めただけでなく、原発依存からの撤退を一言たりとも表明していないか

らだ。人々は未来に亘って生命を脅かす原発に依存したエネルギー

政策の転換を求めているのに、社会的職責を負わされた彼らは現実

ばかりを追い求めて将来のあるべき姿を語らない。そして、「責任を

負う」などとその場限りのいい加減な言い逃れをするのも、唯々今を

遣り過ごすための無責任な出任せにすぎない。もし責任を負うことが

できると言うなら、まずはその責任能力を直ちに福島県を放射能物質

に汚染されていない元通りの姿にすることで示してもらいたい。

 原発問題は、それぞれがひとりの人間として考えた時と、文明社

会の中で生きる社会人として考えた時とで多少のズレが生じる。そ

れはあたかも戦争に於いて国家に兵士として徴された者が、自身は

いくら戦争を厭っても与えられた名分を果たさなければならないと

覚悟を決めるように、社会的な職分を与えられた者が社会生活の継

続性を維持するために仕方なく再稼働を決断するのは決して責めら

れることではないけれど、ところが、戦線を限定せずにその後も破

壊的な力を頼りにして自滅するまで撤退しないというのであれば、

再び我々はいつか来た道に戻ることにならないだろうか。それにし

ても我ら大和単一民族の遺伝子には何故「撤退」の二字が刻まれて

いないのか。

                       (つづく)かも


 「継続か撤退か」④

2012-09-01 09:06:35 | 「パラダイムシフト」



              「継続か撤退か」④


 社会的な立場にある者だけが社会的な自己と個人的な自己の背反

を抱えているのではない。原発に反対する人々も脱原発によって社

会生活が低下することに何らかの不安を感じながら、しかし、その

許容する程度はさまざまで、実は、賛成反対の単純な二項対立では

ないのだ。それこそ原始社会への回帰を求める者から何もかもが決

められた管理社会を望む者まで万別あって、その思いさえも流動的

である。A点と反A点に引かれた直線のどこに社会の支点を置くべ

きかは誰にも答えられない。ただ、少なくとも然るべきところに支

点を仮置きすることはできる。それからバランスを図りながら重心

を探るほかないのだが、ところが、この国では仮置きのはずの支点

に早速既得権が生れ、制度は常に社会の変化と共に改善されなくて

はならないが、その利権にしがみつく者たちに邪魔されて見直しが

できなくなる。つまり、原発再稼働が既成事実として認められれば

再び絶対安全のスローガンが蘇えって全国一斉にそれに同調し自滅

するまで突き進む。この自立性を欠いた集団的な思考停止こそがこ

の国を破滅へと導く我ら大和単一民族の精神的欠陥ではないか。

 言いたかったことから逸れてしまいました。話しを戻しますと、

政治家や経営者だけでなく、国民の誰もが社会的自我と個人的自我

の間にズレを感じている。原発を廃止するべきだというのは福島原

発事故の恐怖を経験した人間の本能的な反応である。ところが、そ

の一方で我々の理性は文明社会そのものからの逃避までは考えてい

ない。それでは、原発に依存せずに電力消費を減らした生活に後戻

りすることに、脱原発を訴える人々は肯(がえ)んずることができるの

だろうか?恐らくそれにもさまざまな意見があるに違いない。もち

ろん、原発の是非の判断は重大なことではあるが、原発を再稼働さ

せざるを得ないとする社会の継続を求める人々も、或いは原発から

撤退すべきだと訴える国民も、実は、立場の違いから対立している

だけで、それでは如何なる社会を望んでいるのかといえばどちらも

バラバラなのだ。仮に、原発廃止が認められて社会生活の低下が避

けられなくなり、コードから電気が流れなくなっても反原発を貫く

覚悟があるのかといえば、その時こそ一途な信念が求められるのだ

が、依存症の者が被依存から自立できないように、電気コードに絡

まれた生活をそう簡単に諦められなくてやがて原発反対の声が小さ

くなっていくのではないかと懼れる。思うに、脱原発を叫ぶだけでは

原発に依存した生活から抜け出せないのではないか。つまり、電気

コードに繋がれた暮らしからの撤退こそが求められているのではな

いだろうか。むしろ、消費電力を減らすことの方が原発依存からの脱

却を確実なものにするだろう。ただ、それには我々の意識改革なくし

ては為し得ない。こんなことを電気コードだらけのデスクトップパソコン

で述べている矛盾は感じていますが。

                                  (つづく)

「継続か撤退か」⑤

2012-09-01 09:05:32 | 「パラダイムシフト」



         「継続か撤退か」⑤



 これまで享受してきた便利な生活が失われていくことは言い尽く

せない寂しさに苛(さいな)まれます。原発からの撤退は安定した電

源を失いこれまでのように無尽蔵に電気が供給されなくなるかもし

れない。しかし、そもそも無尽蔵の資源などというものが有限の地

球上にあるはずはないのだから何れ使い果たされ近代文明もその限

界を迎える日がくるに違いない、と思っていたら、何のことはない

資源を使い果たした結果ではなく、「使い果たされなかった」廃棄

物が原因で循環が損なわれその限界を迎えようとしている。それを

一個の人間に喩えるなら、食うものがなくなって飢え死にする前に、

自らが排泄した糞尿に塗(まみ)れて病原菌に感染して死んでいくよ

うなものだ。ま、資源の枯渇に因らないにしろ廃棄物による環境悪

化に因ってにしろ、どっちにしても同じようなものだが、生半可な

科学という手段を手に入れてから人類はそれによって生存環境を

悪化させ急速に破滅へと向かっていることだけはどうも確かなようだ。

もしも人類が地球上に留まって地球の最後を見届けるまで滅亡せ

ずに種を繋ぐことができるとすれば、循環性を欠いたその場限りの

科学主義に依存せずに地球に依存して生きるほかない。地球に依

存して生きるとは「自然に帰れ」ということである。科学技術とは自分

たちの望むように自然を「作り変える」技術である。決して生み出す技

術ではない。我々は科学が及ぼす自然への危険性についての認識

が追い着かない。かつて人々が信仰を棄てるくらいなら殉教を選んだ

ように、彼らにとってはたかが信仰ではなかった、また、近代人も自

然に帰るくらいなら、我々にとってはたかが科学ではないので、それ

によって滅びることさえ厭わないと思うに違いない。

 私はいつもこれらの二律背反、個人と社会、自然と科学、自由と

秩序などの二者択一に悩んでいる時、西行の歌を思い出します。平

安末期に生まれた西行という歌人は、ちょうど今NHKで放送され

ている「平清盛」が活躍した頃の人ですが、奸策蠢く権力争いが厭

になり武士という身分を捨てて仏門へ出家し次の様に読みました。


「身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ」


大意は、身を捨てたという人は本当にそうなのか、捨てずに執着す

る人こそ自分を捨てているのではないだろうか。

 これは以前にも引用したのですが、フランスの思想家ジャン・ジ

ャック・ルソーの次の言葉を思い出させます。

「社会に生きる人は常に自分の外にあり、他人の意見のなかでしか

生きられない。そしていわばただ他人の判断だけから、彼は自分の

存在の感情を引き出しているのである」(岩波文庫「人間不平等起

源論」本田喜代治・平岡昇訳)

 身を捨てるとは社会を捨てることにほかなりません。社会を捨て

た時に残されるのは自分自身だけです。つまり、「身を捨つる」こ

ととは自分自身に戻って再び自分を生き直すことではないか。それ

では、社会を「捨てぬ人」は自分を生きているのだろうか。「社会

に生きる人は常に自分の外にあり、他人の意見のなかでしか生きら

れない。」社会の中で生きるには自己喪失こそが求められるのだ。

つまり、社会を「捨てぬ人こそ」自分を「捨つるなりけれ」(捨て

ている)ではないか。

 原発依存からの撤退を訴える人々は、当然電力に依存した生活か

らの撤退を求められる。それは、更なる経済成長を求める資本主義

社会からの撤退である。何故なら、依然として原発に依存した海外

との経済競争に太刀打ちできなくなるからだ。原発依存からの撤退

は発電コストが上昇して生産コストに反映され製品価格が上昇して

消費が落ち込み経済を押し下げる。追い打ちをかけるように、海外

の原発に依存した低コストの電力で生産された商品が国内市場を席

巻し、競争力を失った国内産業は破綻することだろう。さらに、国

民の生活は電気料金の値上げによって可処分所得が減り消費を鈍ら

せる。それら脱原発によってもたらされる「脱原発不況」を、原発

に反対する人々は受け入れる覚悟はあるのだろうか?恐らく、我々

の脱原発の訴えは電気を「捨つる」覚悟までには到らず、やがて、

なし崩しに原発再稼働の既成事実を受け入れ、空調の管理された部

屋に戻って怒りも喉元を過ぎると忘れられることだろう。私は、こ

れまでにも何度も原発反対を述べてきたようにその主張を変えたわ

けではありません。ただ、たとえ原発だけを癌細胞のように切除し

ても、我々が繋いだ電気コードの向こう側から無尽蔵にデンキが送

られてくることを望んでいる限り、脱原発の熱(ほとぼ)りが冷めた

頃に、再び原発の「安全神話」が蘇えってくることだろう。癌治療

でまず求められるのはその原因をもたらす生活習慣の改善である。

原発推進を促したのは、我々が追い求める安楽な生活に応じたから

ではなかったか。その生活を改めようとはせずに原発だけをなくせ

というのは、原因を改めずに結果を変えろと言うに等しい。我々は、

まず原発を必要としない生活に、電気消費量を今よりも最低でも3

0%減らした生活に改めない限り原発依存からの撤退はできないだ

ろう。それには何よりも我々の意識転換、かつて信仰への依存から

撤退したように、いまや循環性の欠陥が明らかになった科学への依

存からの撤退、我々の生きる拠り所であった科学万能主義からの

意識転換こそが求められているのだが、厳しい競争社会の中で、

果たして身に着いた習性を捨つることができるだろうか。

 最後に、西行の社会へのアンビバレントな思いを詠んだ歌を、


「世の中を 捨てて捨てえぬ 心地して 都離なれぬ 我が身なりけり」   


                                 (おわり)