「継続か撤退か」③
思うに、政治家や官僚、或いは経営者たちは、与えられた職分か
ら常に現実をどうするかに迫られている。彼らが社会的身分を預け
て一個の人間に戻って原発の是非について本音を吐く時と、職分を
背負って建前を語る時では恐らくその意見に多少の違いがあるので
はないだろうか。社会的職責を負った彼らは、原発停止によって社
会生活が混乱する責任を忽ち求められる。電力供給が不足してブラ
ックアウトになればその責任を問われるのだ。結果が求められる経
営者は業績の悪化を電力不足の所為にしても失われた生産は保障さ
れない。再び原発事故による放射能汚染の被害はどうしても避けな
ければならないが、それを補う方法がすぐには見つからないなら、
已むを得ず現状を継続するしか仕方ないではないか。果たして、原
発の再稼働反対を訴える人々は社会インフラやライフラインに支障
がきたしても耐え忍ぶ覚悟があるのか?彼らが求める原発停止によ
って社会機能が混乱し、それはそのまま彼らの生活に撥ね返ってく
ることを認識しているのだろうか?
と、まあ、現状の継続を決断した社会的職責を負わされた立場の
人々は、已むを得ない選択であると言うかもしれない。それならば、
ドイツ政府の様に何時いつまでに原発を廃止する為にオルタナティ
ブエネルギーにシフトすると明言すれば、国民も已むを得ない執行
のための猶予期間であると容認せざるを得ないが、脱原発を訴える
人々が政府に不信を抱いているのは、福島原発事故が起こって菅前
総理が脱原発を宣言したにもかかわらず、野田現政権は国民の声を
まったく無視して根拠のない安全宣言を元に大飯原発の再稼働を認
めただけでなく、原発依存からの撤退を一言たりとも表明していないか
らだ。人々は未来に亘って生命を脅かす原発に依存したエネルギー
政策の転換を求めているのに、社会的職責を負わされた彼らは現実
ばかりを追い求めて将来のあるべき姿を語らない。そして、「責任を
負う」などとその場限りのいい加減な言い逃れをするのも、唯々今を
遣り過ごすための無責任な出任せにすぎない。もし責任を負うことが
できると言うなら、まずはその責任能力を直ちに福島県を放射能物質
に汚染されていない元通りの姿にすることで示してもらいたい。
原発問題は、それぞれがひとりの人間として考えた時と、文明社
会の中で生きる社会人として考えた時とで多少のズレが生じる。そ
れはあたかも戦争に於いて国家に兵士として徴された者が、自身は
いくら戦争を厭っても与えられた名分を果たさなければならないと
覚悟を決めるように、社会的な職分を与えられた者が社会生活の継
続性を維持するために仕方なく再稼働を決断するのは決して責めら
れることではないけれど、ところが、戦線を限定せずにその後も破
壊的な力を頼りにして自滅するまで撤退しないというのであれば、
再び我々はいつか来た道に戻ることにならないだろうか。それにし
ても我ら大和単一民族の遺伝子には何故「撤退」の二字が刻まれて
いないのか。
(つづく)かも