「なでしこ、対アメリカ決勝戦」

2012-09-01 09:15:51 | インポート



       「なでしこ、対アメリカ決勝戦」


 ったく、女子サッカーの歴史の流れを後戻りさせてしまったじゃ

んか。監督の責任って大きいと思った。実は、選手は相当疲れてる

と思った。例えば、中盤からの縦パスが繋がらずにゴールラインを

割ることが4、5回あったが、互いをよく知る者同士がそんなイー

ジーミスを繰り返すはずがない。つまり、追えないほど疲れていた

のではないだろうか。実際、途中であきらめるシーンさえあった。

パスを貰う選手がどういう状態かというのはパスを出す選手は一瞬

で判断する。足が止まっている選手にはどうしても緩いパスを出す。

それは見方だけでなく相手選手にも見破られてしまいカットされて

しまう。そういうケースが何度かあった。解説者は横パスばかりで

前へのパスが出ないと言っていたが動かないから出せないのだ。ア

メリカの一点目は、ゴール横のライン際のボールにモーガンだっけ

追い着いてゴール前に流し込んだが、ディフェンダーはマークを外

してしまった。恐らく、ラインを割ると思ったに違いない。そんな

ところにも動きの悪さが目に付いた。二点目のゴールはフランス戦

でPKを与えてしまった坂口選手が、多分ファールを恐れて当たら

ずにズルズル下がって抜かれてしまいロングシュートを決められた。

つまり、ナデシコはすでに今まで通りのサッカーが出来なかったに

もかかわらず選手を変えなかった。一方、アメリカは二列目の選手

が飛び出して2ゴールを決めるなど、フォワードが厳しいマークを

受けることを予測して対応していた。坂口、鮫島両選手の交代は同

意できるが2点ビハインドの後ではあまりにも遅すぎた。アメリカ

の女子サッカーは人気がなくリーグが休止しているという。復活させ

るために選手たちはどうしても勝たなければならかった。すでに、

CM等で億の金を手にしたナデシコの選手とはモチベーションが

違っていた。

 この後、男子の日韓戦が行われますが、全く興味ありません。

恐らく激しい試合になるでしょうが、香川の例もあるし、W杯予選に

呼ばれる主力選手をケガさせないために引っ込めた方がいいので

はないか。もう、銅メダルなんか試合放棄して呉れてやったらいい。

どうせ彼らは純粋にサッカーの戦いだけを挑んでくるわけではない

のだから。




「なでしこ、金メダルを賭けた最終戦」

2012-09-01 09:14:58 | 「閑話放題」



   「なでしこ、金メダルを賭けた最終戦」


 いよいよ決勝戦を迎えたナデシコですが、もう、不安は口にしま

せん。実際、よくぞここまで勝ち抜いてきたなという思いです。W

杯決勝戦と同じアメリカが相手ですが、これまで、リーグ予選から

ナデシコを観てきて、カナダ、スエーデン、南ア、ブラジル、フラ

ンスと、何れのチームもアメリカチームのようなパワーサッカーの

チームでした。つまり、テクニカルな連係を重んじるサッカーでは

ありませんでした。例えば、素人にサッカーの試合をさせると、ま

ず選手はボールに集まって蹴り合うばかりでチームプレーは生まれ

ません。つまり、パスを繋いで攻め上がるということは高度な技術

とそれに伴う連係が求められます。アメリカ対カナダ戦を観ていて、

繰り返されるワンパターンの攻撃に、確かに個人個人はパワーがあ

ってもパスを繋いで守りを崩すということはなかった。強力なシュ

ートや高さを生かしたヘディングシュートばかりでした。一言で言えば

大雑把なサッカーです。そして、ナデシコはこれまでにそんなチーム

を尽く破ってきたのです。この戦いは、個人のパワーに頼るチームが

勝のか、それとも、個人のパワーは劣ってもチームプレーによってそ

れを補うチームが勝つのか、大袈裟なこと言えば、世界を制するのは

力なのか協調なのか。もしも、女子サッカーがロンドンオリンピックから

世界に認められるようになったとすれば、それはナデシコのテクニカル

サッカーが女子サッカーの新しい時代を切り拓いたからに違いありませ

ん。つまり、ナデシコが勝つのは歴史の必然なのです。


「誤りは覆される」

2012-09-01 09:13:02 | 「パラダイムシフト」



                「誤りは覆される」


 オリンピック競技には判定によって勝敗が決せられる種目が少な

くない。国内で最も優れた選手たちが世界の舞台で覇を争うのであ

るから1秒の千分の一を巡って、アウトセーフを巡って、或いは技

の有効性を巡って審判の判定が試合の勝敗を左右する。選手たちは

四年間をその日のため、勝利のために鍛え上げた成果がその一瞬の

判定に委ねられる。今が酣(たけなわ) のロンドンオリンピックで

は、不利な判定を下されたチームから抗議を受けて、これまでなら

決して覆されることのなかった判定が何度か覆されて思わず「うそ

っ!」と叫んでしまった。まったく信じがたいことだが、落ち着い

て考えてみると、誤った判定が正しく訂正されることは何も間違っ

たことではないはずだ。果たして、我々は権威が下す判定をおかし

いと思ってもおかしいと言えないと思っていないだろうか。もちろ

ん、誤りのない判定が求められることは当然だが、一瞬の微妙な結

果を瞬時に見分けるのは、如何にその競技に精通した審判と言えど

も人間である限り必ず誤りは起こる。では、その誤審を巡って大会

関係者はどういう態度で臨むべきかが問われる。現実の世界から過

ちはなくならないのだから、それを模したゲームの世界でも判定を

覆すという「誤り」は認めるべきではないと考えるのか、それとも、

模した世界であるからこそ正すべきなのか。私もこれまでに何度も

スポーツ観戦をしてきたが、まず、その場でアウトセーフの判定を

巡って審判の決定が覆されることなどあまり見たことがなかった。

一度下された判定は誤審であれ絶対だった。ところが、このロンド

ンオリンピックではそれが覆される場面をニュースは何度か伝えた。

それは、もちろん判定に使われる録画機器の精度が向上したことも

あってのことだろうが、立ち会う審判から絶対性が奪われた。これ

は大きな変化であり、実は、スゴイことではないだろうか。私は、

近代デモクラシーの発祥の国イギリスの都ロンドンならではの大会

だと思って、改めてイギリス人の正義に対する頑固な姿勢に感動し

てしまったほどだ。そもそも、我々は誤謬の中にあって僅かばかり

の正しそうなことしか見出せないのだ。先進化した国家に於いて、

誤りを正さないことや不正を見逃すことは取り返しのつかない大参

事を用意することになる。そのいい例が、何度もその危険性が指摘

されていたにもかかわらず、「絶対安全」をお題目のように唱える

ばかりで何も対応せずに、原発事故が起こって大災害に発展しても、

誤りを一切認めようとしない当局や原子力ムラの対応と比して見て

も、どちらが真実に真摯であるかは明白ではないか。あの原発事故

を「想定外」の仕方のなかったことだと言ってしまえばあまりにも酷い

誤審と言わざるを得ない。誤りを誤りと認めることからしか誤りを如

何に無くすかを語ることはできないのだ。私は、誤審を覆したロンドン

オリンピック審判団の勇気を支持する。かつて孔子はこう言いました、

「過ちて改めざる、これを過ちと言う」


「継続か撤退か」

2012-09-01 09:09:29 | 「パラダイムシフト」



           「継続か撤退か」


 「ひとつの容器には600ミリリットル、もう一つには400ミ

リリットルの水が入った二つの容器があります。どちらの容器の水

も同じ量になるように移し替えなさい。但し、量の多い方の水を減

らしてはいけません。」

 かつて、非正規雇用の問題や格差社会の問題が頻繁にマス・メデ

ィアに取り上げられて、格差の是正を如何に取り組むべきかがよく

テレビでも議論されていたが、何を専門にされている方かは知らな

いがある女性が、「是正するにしても、上を下げずに下を上げなく

てはならない」とおっしゃった。居並んだ他の専門家たちは黙って

聞いていたが、その時に上記した問題が頭に浮かんだ。そんなこと

が出来るなら何も格差問題は起きないはずだが、議論の場に於いて

この手のまやかしは、述べてる本人も気付かずに言っているのかも

しれないが、矛盾に気付かず見過ごされることが多い。嘘が堂々と

正論として語られ誰もすぐにはそれに気づかない。つまり、格差問

題が経済問題にすり替えられている。かの女性なら他から水を持っ

てきて少ない方に注ぐのかもしれないが、すると今度は注がれなか

った容器の方が不公平だと文句を言って同じ量を求め、結局、格差

問題はなくならない。そもそもそんな水は何処からもってくるのか

というと国債を発行して充てるしかない。つまり、格差を生む根本

的な構造を改めないで、「但し、量の多い方の水を減らしてはいけ

ません」を守らんがために借金ばかりが増え続ける。

 野田総理を代表とする民主党をはじめ自民党などの政界、さらに

は財界や官吏などといった既得権益にしがみつく指導者の下で、い

くら改革のスローガンの旗を掲げても、掛け声ばかりで旗倒れに終

わるのをこれまで我々国民は何百回見てきたことだろうか。しかし、

有史以来、社会改革とは「上を下げる」こと以外にないのだ。とこ

ろが、彼等もまた「上を下げずに下を」どうするかばかり語ってい

る。彼等が社会福祉などの下の問題を取り上げる時は自分たちの既

得権益から眼を逸らさせるためなのだ。消費税増税は「上を著しく

下げない」ために執られた政策以外の何ものでもない。水の量が決

まっていて同じように減っていき遂には下は底が見えようとしてい

るのに、それでも上を頑として下げようとしないすれば、もうこれ

は階級闘争だと言っても過言ではない。つまり、下の者は上の者か

ら奪い取るしかないではないか。



「継続か撤退か」②

2012-09-01 09:08:22 | 「パラダイムシフト」



             「継続か撤退か」②


 福島原発の事故は、改めてこれからの国のあるべき姿を見直す契

機をもたらした。というのは、仮に、原発事故が起こらなかったと

したら、それでも震災の爪痕は将来に多大の影響を残すだろうが、

原発に頼ったエネルギー政策は決して見直されることはなかっただ

ろう。否、それどころか大きな地震にも耐えた技術力が評価されて、

更に原発推進に弾みがついたかもしれない。そうなればこれまでの

エネルギー政策も見直されることはなく、既得権益に与る政官業の

隠蔽体質や利権構造が暴かれることがなかったのかもしれない。そ

ういった意味でこの度の原発事故は、国民の合意なしになし崩しに

推し進められてきた原発政策を立ち止まらせ、稼働するにしろ廃止

するにしろ広く国民が議論する機会を得たことは、せめてもの救い

だったのかもしれない。原発の是非を巡る対立は、見えない汚染が

その時限りで終わらないが故に、如何なる決定もこの国の将来に対

する責任が生じ、極論すれば日本列島に永遠に人が住めなくなる可

能性さえ起こり得るわけで、その対立とはそれぞれの生き方の違い

によるものであるともいえる。今の生活を継続するべきなのか、そ

れとも原発に頼った生活から撤退すべきなのか。それは、原発賛成

派は科学技術による更なる近代化を望み、当然、原発反対派は再生

可能エネルギーによる自然環境に配慮した社会への回帰を訴える。

ただ、職分に立って語る者は、常に今どうするかが求められている

ので、将来の起こるであろう問題や未来の人々に対する配慮など等

閑になる。この科学技術による近代文明を継続するか撤退するかの

対立は、単純な二項対立ではなく、「程度」の違いによってそれぞ

れの意見が異なる。それこそ究極をいえば、何もかも管理された檻

の中でただ安楽だけを求めて生きることから、再び始原の自然に回

帰して自由に、しかし恐怖に怯えながらただ生き延びるためだけに

生きることまで様々である。仮に、「生きる」ということばを「死

ぬ」に置き換えた時、自分はどの様にして死にたいのかによって自

分の生き方が見えてくるのかもしれない。檻の中で安楽に?それと

も自然の中で自由に?

 これまでにも、文明か環境かの選択は何度も我々の社会を立ち止

まらせた。公害の問題からオイルショック、最近では地球温暖化問

題など、しかし、それらは何れも改善が可能な問題だった。公害問

題は人為を尽くすことによって克服できたし、それにしても、水俣

病被害者の裁判が50年以上たっても未だに続いていることが信じ

難いが、オイルショックはOECDの西側諸国への一時的な経済制

裁であり、地球温暖化問題にしても直ちに何かが起こるということ

ではなく、従って文明を棄てて自然に還ろうとはならなかった。と

ころが、原発問題は継続するにせよ撤退するにせよどちらにしても

忽ちリスクが伴う。リスクとはリスクと認識する者にしかリスクた

り得ない。「原発は絶対安全である」と言った時にそのリスクは消

滅する。現実の危機が起こった特は想定外の出来事になる。そのリ

スクとはどちらも国家の存亡をもたらすリスクである。日本列島と

いう大鯰の背の上に載せられた原発によって再び繰り返されるかも

しれない想定外のクライシスに怯えながら、間違いなく二度目のメ

ルトダウンは日本を滅亡させ、また国際社会からも見捨てられるこ

とだろう。また、廃止するにしても原発に代わる再生可能エネルギ

ーへのシフトは既得権益にしがみつく国賊たる政官業の企みによっ

て先送りされやっと重い腰を上げて端緒に就いたばかりである。原

発停止による電力供給不足は経済を停滞させ成長戦略を狂わせ不景

気が社会不安を増幅させるだろう。つまり、原発に賛成するにしろ

反対するにしろ、どちらを支持するにせよ、今や我々は目の前の原

発の是非を訴えるだけではなく、どっちの「リスク」を選ぶのかが

求められている。それは、どういう社会を望むのかということであ

り、この国が滅亡のリスクを受け入れても今ある経済の繁栄を継続

するのか、それとも大和民族を大和民族たらしめている「豊葦原の

千五百秋の瑞穂の国」を汚さないために、遠回りになっても原発か

ら撤退してエネルギーシフトのためのオルタナティブテクノロジー

の開発に再び技術力を結集して克服するのか、である。原発を稼働

させながら同時に再生可能エネルギーを普及させるなどという二兎

が追えないことは、これまでの原子力村の既得権益者らによって新

しい技術が悉く駆逐された経緯を見れば明らかではないか。

                                   (つづく)