「継続か、撤退か」
小説「無題」の中で、原発推進に賛成の人物を登場させて、対立
関係を演出し白熱させようと企んだが、そもそもは、私の話に登場
する人物はいずれも似たものばかりだと今頃になって気付いて多い
に焦ったことが始まりだったのだが、つまり対立が生まれない、そ
こで描写できない原発推進派の人々の考え方をネットで拝見すると、
どうも「フクシマ」の現実を避けているとしか思えなかった。たと
えば原発の経済性一つをとってみても、事故後の東電の経営は事故
を起こした原発の原子炉のように火の車で、ひとたび大事故が起こ
れば莫大な負担が発生することが全く計算に組み入れられてない経
済性であったり、それどころか、かくも絶望的な放射能汚染をもたらし
た後でも、いまだクリーンエネルギーだとする意見があることにも驚
かされる。つまり、原発推進を認める人々は福島原発事故後の現実
を見ようとせず、これまでの幻想神話から、安全性も経済性も環境
適合性も破綻したにもかかわらず、目を覚まそうとしていない。こ
のようにして、結局私が対論を構築できなかったのは、もちろん私
自身の能力にその大半の責任があるにせよ、原発の再稼働を認める
人々の意見に「フクシマ」以後も書き改められないまま思考停止した
ままで納得できるものが何一つなかった。彼らはいまだ事故は絶対
起こらない「想定」下で皮算用している。私は何となく安心してこの企
てを諦めることにした。仮に再稼働させてふたたび重大事故が起こっ
たことを想定すれば、彼らの主張が如何に行き当たりばったりの後
追い対策であるかが分る。私には原発推進の安全性が認められなか
っただけでなく、彼らの推進論は重大事故をまったく想定していない
「フクシマ」以前のユートピアに過ぎなかった。しかし、「フクシマ」以後
はその論理は破綻したのだ。
(おわり)