「無題」 (十七)

2013-10-12 08:33:17 | 小説「無題」 (十六) ― (二十)



          「無題」


          (十七)


 その温泉旅館は、古くから名湯として知られ一時は効能を求めて

遠くからも湯治客が絶えなかったらしいが、なにしろ不便な上に湯

に浸かること以外にこれと言って暇を潰す施設もなく周りにはおも

しろい景色があるわけでもなく、ただ「無為」を求める者には何も

かもが揃っていたが、次第に人気の温泉街に客を奪われて、今では

地元の者が一日の垢を落としに寄るくらいに寂びれ果てていた。代

を継いで源泉を守ってきた老いた当主も連添いに先立たれてからは

励みを失くし、子や孫たちには早々と後を継ぐことを拒まれ、せめ

て湯だけは残したいと誰ぞ想いを託すべき者がいないかと夢にまで

見るようになっているところへフラーッと一人の男がやってきた。

その男とはもちろん「ガカ」のことだが、ただ彼は、すでに自分の

中に在る絵を写し出すための言わば手段としての景色を求めていた

ので何もこの地へのこだわりはなかったが、首を伸ばした老人の目

に留まり、ただし暇には絵に専心することを条件にやむなく湯守を

引き受けた。とは言え、引き受けたからには何とか客を増やせる術

はないものかと思案を重ねた末に、長逗留してくれる湯治客を当て

込んで退屈しのぎに本でも読んでもらおうと考えていると、今や電

子書籍の時代で、「これだ!」と思って早速手続きをしてタブレッ

トを取り寄せ「読書温泉」と名付けてホームページを立ち上げると、

すぐに問い合わせがあって、あの原発事故が起こるまでは引退した

当主を再び呼び戻すほどに湯治客が逗留していたが、いまは被曝を

怖れたすべての客が早々に部屋を引き払って元の寂れた温泉旅館に

もどってしまった。

「これだけはどうすることもできませんから」

ガカは、自分の本分に専心できることからそんなに落ち込んではい

なかった。われわれは貸切状態の温泉に浸かってから、囲炉裏のあ

る板の間で呑み直した。

                                (つづく)