「無題」
(十六)―②
車が沿岸から遠ざかるほどに道路沿いの風景から震災の痛ましい
爪痕は徐々に薄れ、やがて、普段の暮らしを取り戻し始めた街の様
子を目にするようになると、次第に車の中にも緊張が解けて寛いだ
雰囲気が生まれ始めた。わたしは、彼らとも打ち解けてくると遠慮
を忘れてどうしても気になっていたことを訊ねた。
「でも、どうしてそんな山の中で暮らしてるの?」
バロックは、モミアゲから伸びた無精ひげが下顎全体を覆いつくし、
口ひげの下から白い歯を見せながら、
「どうして?」
と問い返したっきり黙ってしまった。わたしは、
「いやいや、これは失礼なことを言いました」
と取り繕いながら、
「それでも、君たちはまだ若いんだから賑やかな都会で暮らしたい
とは思わないの?」
「ああ、もちろんそう思ってましたよ、実際、東京にも住んでまし
たし、でも結局何も思いどおりにいかなかった」
すると、後部席に座っていたガカと呼ばれる男が口を挟んだ。
「俺たち、時代に取り残されたロスジェネ世代だから」
バロックはそれを無視して、
「それに、これから東京で何かおもしろいことが生まれるなんてと
ても思えないし」
東京で暮らすわたしが「世の中がツマラナイ」と思っていたことを
多分彼らも感じ取っていたに違いない。わたしは、
「だからと言って山の中だっておもしろいことはないでしょ」
「おもしろいかどうかは別にして、自分のやりたいようにはやれま
すから」
「何をやってるんですか?」
「農業です」
バロックは、きっぱりと答えた。わたしは、
「実は、わたしもこれまでスーパーで、ずーっと青果を扱ってきた
んですよ」
「あっ、そうなんですか。でも自分たちが作ったものは市場へは出
さないから」
「無農薬とか?」
「ええ」
わたしは、自分がいまオーガニック野菜の販売にも取り組んでいて
無農薬栽培に関心があることを打ち明けて、もしよかったら農場を
見学させてもらえないか、と言うと、バロックは、
「ええ、いいですよ」
とあっさり快諾してくれた。
車がわたしの実家に近付いた頃にはライトを灯すほど暮れていた
のでその日は実家まで送ってもらい、明日、自分の車で彼らの農場
を訪れることにした。ガカが農場までの地図を分り易く描いてくれ、
バロックが念のためにケイタイ番号を教えてくれた。そして、サッ
チャンが窓を開けて両手を振って見送ってくれながら、すぐに車は山
奥へ向って走り去った。わたしは、実家で母と最期の夜を過ごすと、
早朝から出掛けた。
もしもわたしが、財宝の在り処を印した地図を手に入れ、地図に
示された道を辿るだけで大金持ちになれるとしても、残念ながらわ
たしは地図に示された道を辿ることがどういうわけか不得手で、も
ちろん間違いにはまったく気付かずに、曲がるべき辻の一つ手前
を曲がって思わぬ場所に出たり、ひどい時には自分が居る場所さ
え地図の上に確かめられなくなって、ついには焦りからとんでもない
窮地に自ら迷い込んで二進も三進も行かなくなって引き返す破目に
なったことがこれまでに二度や三度のことではなく、いつも間違った
道を辿ってからでないと正しい道が見出せず、たぶん、苦労惨澹の
末に宝の在り処に辿り着いた時には、後を追ってきた知恵者に先回
りされて何もかも奪われ、大金持ちの夢は幻に終わるに違いない、
ほどの方向音痴だった。そこで、カーナビが出た時は真っ先に買い
求めて、これであとは宝の地図を手入れるだけだと安堵していたら、
あろうことかカーナビに従いながら道幅が徐々に狭まっていく私道に
導かれ、それでもカーナビよりも自分を信じるわけにはいかず、車幅
よりも狭い道幅を何とか抜けようとして何度も車体を凹ませた。
ガカが描いてくれた地図があまりにも分り易かったので安心した
のがいけなかった。車を走らせて二時間余り経っていたが、予定で
はとっくに彼らの農場に着いているはずだったが、頼りのカーナビ
はまったく役に立たず何処か分らない山の中を彷徨っていた。早速
バロックのケイタイにデンワしようとしたがそれも圏外で繋がらな
かった。山肌を削って造られた道は車一台が漸う通れる狭い道で一
方は崖になっていたので方向転換する場所がなく、引き返すために
更に山の奥へ進むほかなかった。もし、このまま行き止まりにでも
なれば車を乗り捨てて歩いて帰ろろうと思っていると、こういう時
の悪い予感は的中する、行き止まりだった。万事休す、と思って車
を降りて道の先を見れば、辛うじて切り返すことのできる平らなス
ペースがあるではないか。わたしは車に乗って前の草叢に強引に突
っ込ませて、ハンドルを切りながらバックして何とか方向転換する
ことができた。不安と緊張でへとへとになりながら何とかふりだし
に戻ることができると思ってアクセルを踏むと、今度は、車体がガ
タンと左前方に大きく傾いて動かなくなった。再び車を降りて確か
めると左前輪が地面の裂け目に落ちて浮いていた。たぶん地震で出
来た地割れだろう。何度かアクセルを吹かしてみたが車体が地面に
着くほど落ちていたので空回りするばかりだった。もう、わたしに
は辛いだとか悲しいだとかといった感情は使い果たして残っていな
かった。山々は遅い春を迎えてあちらこちらに山桜やモクレンの花
が咲き、山鳥たちが飛び立ちながら歓喜の声を響かせていた。たぶ
んこの世界で生き残った人間は私ひとりに違いない。わたしは、車
内に散らかった荷物をカバンに詰め込んで鍵を掛けて、車で来た道
を歩いて戻ろうと思っていると、前から一台のワゴン車が近付いて
来た。きっとこんな時は、誰もが救けを求めて大きな声を出して叫
ぶもんだが、わたしはこんな幸運な偶然にさえも何か忌まわしいこ
との前触れとしか思えなかった。ワゴン車はわたしの前で止まると、
ヘルメットを被った作業服姿の二人の男が降りて近づいてきた。わ
たしは、
「どうかしましたか?」
と言うと、年配の方の男が、
「それはこっちのセリフでしょ」
と言い、もう一人の若い男が、
「こんなところで何をしてるんですか?」
と言った。わたしは、
「まあ、そのお、ドライブみたいなもんですよ」
すると、年配者が、
「この辺りは地震で地割れが発生してますから、あまり近づかない
方がいいですよ」
わたしは、
「じゃあ、この次からそうします」
と答えると、若い男がわたしの車を指差して、
「何だ、あの車は!傾いているじゃないか」
彼らは電力会社の子会社の作業員で、近くの住民から地割れがあ
るとの通報を受けて調べに来たと言う。すぐ傍には送電線を支える
鉄塔が立っていると言うので、年配者の作業員が指差す方を振り返
って見上げると、なるほど、巨大な鉄塔が聳え立っていた。つまり、
この道はその鉄塔に近づくために造られたのだ。彼らはこれから下
草を刈って地割れを調べるのにわたしの車がジャマだと言って二人
で持ち上げて浮いた車輪を地面の上に動かしてくれた。わたしは、
人の親切に触れた途端に失っていた感情が甦ってきて、感謝の言葉
を安売りし何度も頭を下げてその場を走り去った。来た道を辿って
ふりだしに戻ると、バロックからケイタイにデンワがかかってきた。
「竹内さん、いまどの辺り?」
わたしは、
「ゴメン、寝過ごしてしまって、今から家を出るとこ」
(つづく)