「二元論」(17)をまとめるための試稿の改稿

2021-09-20 11:59:44 | 「二元論」

    「二元論」  


         (17)をまとめるための試稿の改稿

 

〈存在が現存在を規定する〉のか、或は〈現存在が存在を規定する〉

のか、つまり「人間とは〈世界=内=存在〉である」のか、それと

も「人間とは世界を超越する存在である」のか、という「二元論」

は、そもそも人間は世界がなければ生れなかったのだから人間とは

〈世界=内=存在〉であることは明白だが、それでも世界を俯瞰し

て認識(了解)することができる唯一の存在者である人間は、神の視

点に立って世界を作り変えようと企てる(人間が世界を規定する)。

初期のハイデガーも世界を了解する人間が世界を作り変えることは

許されると考えていた。ところが木田元によると、彼が変えようと

した世界とは、「明らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの

人間中心主義的文化をくつがえそうと企てていたのである。」(木田

元著『ハイデガーの思想』) そこで「人間を本来性に立ちかえらせ」

そして「もう一度自然を生きて生成するものと見るような自然観を

復権」させようとした。そして、この思想が彼を民族主義を掲げる

ナチスへの共感をもたらした。しかし「人間中心主義的文化(近代科

学文明社会)の転覆を人間が主導権を取って行なうというのは、明ら

かに自己撞着であろう。」と気付いて、「思索の転回」を余儀なく

されたが、彼自身は想い描いた世界観、つまり〈存在=生成=自然〉

という存在概念による世界の復権を決して諦めなかった。「この形

而上学の時代、存在忘却の時代に、われわれに何がなしうるのか。

失われた存在を追想しつつ待つことだけ、と後期のハイデガーは考

えていたようである。」ところで、〈現存在が存在を規定する〉、

つまり人間は世界を作り変えることが許るされるとすれば、人間中

心主義の科学文明社会が肯定されたと考えるのが普通だが、ところ

がハイデガーは科学主義を否定して人間中心主義的文化の転覆を主

張する。その理由はすでに上で述べたが、その中で「人間を本来性

に立ちかえらせ」とあるが、はて、人間の本来性とは何のことだろ

うか?文脈から読み取ると人間中心主義的文化は人間の本来性から

外れている、ということになる。そもそも人間とは時間が限られた

存在であり、もちろん人間自身もそのことをよく知っている。つま

り人間とは時間である。そこで、人間が「おのれ自身の死という、

もはやその先にはいかなる可能性も残されていない究極の可能性に

まで先駆けてそれに覚悟をさだめ、その上でおのれの過去を引き受

けなおし、現在の状況を生きるといったようなぐあいにおのれを時

間化するのが本来的時間性であり、それに対しておのれの死から眼

をそらし、不定の可能性と漠然と関わりあうようなあり方が非本来

的時間性だということになる。」(木田元) つまり、われわれが作り

変えた人間中心主義的科学文化とは、目の前の現実〈現前性〉にだ

けにこだわった非本来的時間性による存在概念であるというのだ。

そもそも人間が世界を作り変えるにあたって自然を単なる資料・材

料と見做すような存在概念は形而上学的思考によってもたらされた

。存在の〈真理〉を問う〈形而上学〉は存在を「事実存在」と「本

質存在」に二分して、「本質存在」こそが永遠不変の〈真理〉であ

り、いずれ変遷流転する「事実存在」は〈仮象〉の存在でしかない

と見做される。「科学」はこの二分化を繰り返す「分析」方法によ

って〈永遠不変の真理〉を追い求め、発見された物質は作り変えら

れて人間中心主義的文化に利用される。つまり近代科学文明社会は

形而上学的思考の上に成り立っている。哲学史家としてのハイデガ

ーもプラトン・アリストテレスより始まった形而上学的思考の影響

を受けたが、彼が「形而上学を克服」する契機を得たのはギリシャ

古典文献学者であり哲学者であるニーチェによってソクラテス以前

の思索家たち、彼らは「フォアゾクラティカー」と呼ばれているが

、そもそも木田元によると「ハイデガーは明らかにニーチェに教え

られて、フォアゾクラティカーに眼を向ける。」(木田元著『ハイデ

ガー』P198[岩波現代文庫 ]

                         (つづく)