「二元論」 (18)のつづき

2021-10-03 11:21:48 | 「二元論」

     「二元論」


      (18)のつづき


 ソクラテス以前の思想家たち、いわゆる「フォアゾクラティカー」

(独:Vorsokratiker) はいったい〈存在〉をどのように考えていたのだ

ろうか。『ヘラクレイトスの言葉として伝えられる「ヘン・パンタ」

は、通常「万物は一つである」と訳されるが、ハイデガーはこれを「

一なるもの(存在)がすべてのものを存在者としてあらしめる」、つま

り〈存在〉という視点が設定されることによって、その視野のうちに

集め(レゲイン)られるすべてのものが〈存在者〉として、〈在るとされ

るあらゆるもの〉として見られることになる、という意味に解する。

〈存在〉とは〈一つに集める(レゲイン)働き〉であり、その意味で〈ロ

ゴス〉(レゲイン→ロゴス)だというのである。」(木田元『ハイデガーの

思想』) つまり、存在するあらゆるものはすべて〈存在〉という束にま

とめられて、それぞれが同じ一つのものから派生したと言うのだ。そし

て「万物は一つである」とすれば、〈存在〉を「本質存在」と「事実存

在」に二元化する〈形而上学〉は成り立たなくなる。それとは反対に宇

宙の始まりを説く「ビッグバン理論」はまさに「万物は一つである」を

科学的に証明してるように思える。私を構成する物質の一つが、はるか

彼方の宇宙の果ての星を構成する物質の一つとビッグバン以前には同じ

だったことに驚きを感じないわけにはいられない。そして、私と世界が

「同じ一つのもの」であるとすれば、世界と同じである私が、世界を別

の認識によって了解することなどできるはずはない。もしも、万物以外

に永遠不変の〈真理〉が存在するとすれば、「万物は一つである」の命

題は破たんすることになる。

                      とりあえず(つづく)