小説「死ぬことは文化である」
二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてし
まつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪
で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然と
する。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうに
かなつてゐたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。この
まま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を
日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、
からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或
る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つ
てゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」
* * *
三島由紀夫はこの国のいったい何に希望をつなごうとしていたの
かは知らないが、とは言え、その後の彼の言動を辿れば凡そのこと
は想像がつくが、それにしてもなぜ「天皇」なのかが凡そ理解でき
ない。ただ、彼が残した「日本はなくなつて、その代はりに、無機
的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がな
い、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。」というおよ
そ50年前の的確な予言にこころを奪われたが、おそらくそれは敗
戦後に堰を切って流れ込んできたアメリカ文化の自由と民主主義に
対する批判に違いないが、だからと言って再び天皇主義に戻ること
など多くの日本人は望んでいない。堅苦しい日本の伝統文化と「無
機的でからっぽな」アメリカ文化のどちらを選択するかと言われれ
ば迷わず「ニュートラルで、富裕な」アメリカ文化を選ぶに違いな
い。何故なら天皇制「原理主義」とは儒教道徳に縛られたリゴリス
ティックなヒエラルキー(厳格な序列)社会だから。つまり、私は「
それでもいいと思つてゐる人たち」の一人で、もしも三島由紀夫が
生きていたら決して口をきいて貰えない男に違いない。たとえば、
われわれ日本人は厳格な教義に縛られたイスラム教の原理主義社会
を憧憬の目で見たりするだろうか?三島由紀夫がやったことは原理
主義への回帰を訴えるイスラム教過激派のテロ行為とそれほど違わ
ないのではないだろうか?しかし、いまさら原理主義、つまりパン
ドラの函に戻ることなどできないのだ。私は、あえて言えば、社会
はむしろ「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色」でい
いとさえ思っている。もしも〈存在〉が〈持続可能な〉(sustainable)
「からっぽ」の世界で、その上に社会が築かれるのであれば、私は
むしろ余計な色に染まらない社会を望む、そしてそれぞれが自分が
望む色に染まればいい。多様な社会とはそういうことではないか。