小説「死ぬことは文化である」

2021-10-08 09:59:03 | 「死ぬことは文化である」

   小説「死ぬことは文化である」

 

 二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてし

まつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪

で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然と

する。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうに

かなつてゐたのではないか。

 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。この

まま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を

日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、

からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或

る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つ

てゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。

     三島由紀夫「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」       

       *       *      *

 

 三島由紀夫はこの国のいったい何に希望をつなごうとしていたの

は知らないが、とは言え、その後の彼の言動を辿れば凡そのこと

は想像がつくが、それにしてもなぜ「天皇」なのかが凡そ理解でき

い。ただ、彼が残した「日本はなくなつて、その代はりに、無機

的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がな

い、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。」というおよ

そ50年前の的確な予言にこころを奪われたが、おそらくそれは敗

戦後に堰を切って流れ込んできたアメリカ文化の自由と民主主義に

対する批判に違いないが、だからと言って再び天皇主義に戻ること

など多くの日本人は望んでいない。堅苦しい日本の伝統文化と「無

機的でからっぽな」アメリカ文化のどちらを選択するかと言われれ

ば迷わず「ニュートラルで、富裕な」アメリカ文化を選ぶに違いな

い。何故なら天皇制「原理主義」とは儒教道徳に縛られたリゴリス

ティックなヒエラルキー(厳格な序列)社会だから。つまり、私は「

それでもいいと思つてゐる人たち」の一人で、もしも三島由紀夫が

生きていたら決して口をきいて貰えない男に違いない。たとえば、

われわれ日本人は厳格な教義に縛られたイスラム教の原理主義社会

を憧憬の目で見たりするだろうか?三島由紀夫がやったことは原理

主義への回帰を訴えるイスラム教過激派のテロ行為とそれほど違わ

ないのではないだろうか?しかし、いまさら原理主義、つまりパン

ドラの函に戻ることなどできないのだ。私は、あえて言えば、社会

はむしろ「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色」でい

いとさえ思っている。もしも〈存在〉が〈持続可能な〉(sustainable)

「からっぽ」の世界で、その上に社会が築かれるのであれば、私は

むしろ余計な色に染まらない社会を望む、そしてそれぞれが自分が

望む色に染まればいい。多様な社会とはそういうことではないか。


「あほリズム」 (862)

2021-10-08 07:39:48 | アフォリズム(箴言)ではありません

     「あほリズム」

       

      (862)

 

 「右翼、めんどくせー」

 

 

       (863)

 

私にとって「国家」とは他人のことである。

そして他人とは、祝日には国旗を掲げる家の人のことであり、

権力を振るう政治家のことであり、

三角の眼で人を見る小市民のことであり、

陰で私を貶す知人のことであり、

自分以外に頼らなければ何もできない家畜のことであり、

孤独を怖れる者のことである。

考えてみるがいい、孤独を厭わぬ者が「国家=社会」に執着するわけ

がないではないか。つまり、国家主義者とは社会主義者であり社会主

義者とは「畜群」のことである。


「二元論」 (8)のつづきの続きの・・・

2021-10-08 07:30:29 | 「二元論」

    「二元論」


     (8)のつづきの続きの・・・


 「万物は一つである」という思想は、たとえば私という実存はやが

て命を終えれば亡骸となって土に帰り、いずれその粒子は草木となっ

てよみがえり花を咲かせて種を残し、ふたたび土に帰ることを永遠に

繰り返す「同じものの永遠なる回帰の思想」(ニーチェ)にほかならな

い。それは仏教用語の「身土不二」に近いかもしれないが、つまり時

間を無視すれば、私とは今はたまたま人間として存在するが、かつて

は、そしていずれは、土であり、草木であり、花であり、そしてそれ

らは同じ世界を永遠に回帰する「世界=内=存在」の一部である。つ

まり、この〈世界〉が人為によって汚染されて自然循環が変異すれば

、いずれわれわれの生存にも少なからぬ影響が及ぶ。これまでは〈規

模〉の「小ささ」から無視することができた環境負荷に対しても「我

々はつねに自分自身に問わなければならない。もしみんながそうした

ら、どんなことになるだろうと。」(J.P.サルトル)

 後期のハイデガーは、「この形而上学の時代、存在忘却の時代に、

我々に何がなしうるのか」(木田元『ハイデガーの思想』)と問われれ

ば、「失われた存在を追想しつつ待つことだけ、」(同書)と考えてい

たようである。ハイデガーは「人間中心主義的文化の転覆を人間が主

導権をとっておこなうという」自己撞着によって〈転回〉を余儀なく

されたが、それは「存在が人間を規定する」のか、或は「人間が存在

を規定する」のかという二元論だが、もちろん近代社会は「人間が存

在を規定する」という存在論の下に〈存在=現前性=被制作性〉とい

う存在概念によって自然を制作のための単なる資料・材料と見做して

科学技術によって世界を作り変えてきたが、しかし、人間中心主義的

文化がもたらした環境破壊によって「待つことだけ」(同書) しかでき

なかったハイデガーの思想が今まさに100年の時を経て甦ろうとし

ている。つまり、環境破壊によって、世界は「存在が人間を規定する」

という存在概念への〈転回〉を余儀なくされ、人間とは〈世界=内=

存在〉であり、そして「万物は一つである」という「反」形而上学的

世界観へと回帰せざるを得ない。

                            (つづく)