「あほリズム」(896)

2022-04-04 23:12:02 | アフォリズム(箴言)ではありません

        「あほリズム」

 

         (896)

 

 かつて三島由紀夫は全共闘の学生との討論の場でこう言った、

 「ぼくらは戦争中に生れた人間でね、こういうところに陛下が坐っ

ておられて、三時間全然微動もしない姿を見ている。とにかく三時間

、全然木像のごとく微動もしない。卒業式で。そういう天皇から私は

時計をもらった。そういう個人的な恩顧があるんだな。こんなこと言

いたくないよ、おれは。(笑)言いたくないけれどね、人間の個人的

な歴史の中でそんなことがあるんだ。そして、それがどうしてもおれ

の中で否定できないのだ。それはとてもご立派だった、そのときの天

皇は。― 三島由紀夫「討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘」(1969年5月

13東京大学900番教室壇上において)[ウィキペディア「三島由

紀夫」より]

 私は未だに「三時間全然微動もしない姿」の何が立派なのかがさ

ぱり分らない。


仮題「心なき身にもあわれは知られけり」

2022-04-04 03:57:36 | 「死ぬことは文化である」

    仮題「心なき身にもあわれは知られけり」

 

         (6)のつづき


 王位を巡る権力争いは卑弥呼が統治した邪馬台国の時代から幾度

も繰り返されてきた。やがて中国より文字が伝来して編纂された「

日本書紀」(720年) が伝えるところによると、聖徳太子の皇子山

背大兄王(やましろおうえのおう)は皇位継承を巡る争いから蘇我入

鹿に攻められて一族もろとも自害して上宮王家(聖徳太子の一族)は

滅んだ(643年)。そして、皇子を討った蘇我入鹿は中大兄皇子と

中臣鎌足によって宮中で殺害される「乙巳の変(いっしのへん)」が

起こり、また、実権を握る中大兄皇子に謀反を企てたとして孝徳天

皇の皇子有馬皇子が絞首刑に処された。やがて中大兄皇子が天智天

皇として即位して僅か四年足らずで死ぬと皇位継承を巡って皇太子

大友皇子と弟の大海人皇子が争う「壬申の乱」が起こり、敗れた大

友皇子は二十五歳で自ら頸を縊って死んだ。大海人皇子は即位して

天武天皇と号し、のちに皇后のほかに九人の妃が生んだ十人の皇子

と七人の皇女があり皇位継承問題を複雑にした。天武天皇の後継者

は皇后の皇子草壁皇子と既に母(天智天皇の娘大田皇女)を失った大

津皇子に絞られたが、天武天皇が心を許す皇后鸕野讚良(うののさら

ら)の皇子草壁皇子が皇太子に決まった。しかし、天武天皇の死とと

もに大津皇子の悲劇が始まる。天皇の死後わずか一ヶ月後に大津皇

子の謀反が発覚し、もちろんそれは皇后が謀った罠だが、間もなく

皇子は死刑に処された。こうして現人神たちによる皇位継承を巡る

権力争いは讒言(ざんげん)と陰謀が渦巻く魑魅魍魎(私欲のために悪

だくみをする者のたとえ [三省堂新解明四字熟語辞典より])の世界で

あった。


                        (つづく)