「(菅)話放題」⑩
政権交代以後、今の閉塞した状況をよく幕末の時代転換になぞらえ
て語られるが、維新へと続く幕末には近代文明への明るい展望が広が
っていた。さらには国土が焦土と化した敗戦後でさえ厭戦が叶い自由
社会への解放感があった。ところが、経済大国として世界が羨むほど
の国に成長したにもかかわらず、我々はその豊かさを享受する中で、
現在はと言うと将来の進むべき道が見つからない焦りと不安ばかりが
広がっている。つまり、幕末や終戦後の時代転換と今我々が直面して
いる時代転換の様子は全く逆なのだ。幕末であれ終戦であれ混迷の
中にまだ進むべき道が残されていた。暗闇の中にあっても遠くから一
縷の光が差し込んでいたのだ。しかし、近代文明の恩恵に与って光溢
れる時代を享受した我々は、経済のグローバル化に異を唱えるように
環境問題が顕在化して、世界経済は歩調を揃える様に停滞を余儀なく
された。我々は近代という高速道路をエンジンを噴かしてぶっ飛ばし
てきたが、今や高速道路は自然破壊が原因で断裂し、眩しく光る道路
は暗黒の奈落へ垂れ下がっている。これまではたとえ大きな転換があ
ったにしても近代という道を進むことが出来た。ところが、今や我々
の前には道そのものが無いのだ。断崖の下は暗黒が口を開けて待って
いる。道が途絶えたなら引き返すしかないのだが、如何なる文明と雖
も文明を棄てて文明以前に後戻りしたことは無かった。核兵器さえ廃
絶できない我々に近代文明を棄てることなど出来るだろうか?やがて
「成長」や「発展」といった近代化が持て囃した言葉は、「縮小」や
「撤退」と言った言葉に取って代わられるだろう。そんな「収縮」時
代にあって、なおも「経済成長」や「景気拡大」などといった経済政
策に期待することは恐らく大きな破綻を招くことだろう。我々は一旦
は「撤退」せねばならない。経済成長が実感できる時代のリーダーは
「黙っておれについて来い!」でよかったが、「撤退」しなければな
らない時代のリーダーは後に続く者にどれほど煩雑な説明をしなけれ
ばならないだろうか。「黙って引き返せ!」では誰も納得させること
はできないだろう。つまり、今こそ我々の民主主義が試される。
民主党への政権交代は、そういった時代転換の流れの中で生まれた。
これまでの「ぶっ飛ばす」政治を見直して道を確かめながら、時には
後戻りしながら転落せぬよう「撤退」せねばならない。それには成長
体験しか持たないアンシャンレジーム(旧体制)世代ではなく、新しい
世代の新しいビジョンが求められるのではないだろうか。今回の代表
者選挙は世代間の主導権争いでもある。幕末の若き志士たちは新しい
時代を拓くために身分を越えて闘った。維新後の身分制度の廃止、そ
して戦後の新憲法と我々の時代転換の歴史はまさに民主主義を実現す
る為の歴史でもあった。ただ遅々として進まず、その度に多くの犠牲
を生んできた。丸山眞男は著書「日本の思想」(岩波新書C39)の中
で民主主義をこう言っている。
「民主主義とはもともと政治を特定身分の独占から広く市民にまで開
放する運動として発達したものなのです。そして、民主主義をになう
市民の大部分は日常生活では政治以外の職業に従事しているわけです。
とすれば、民主主義はやや逆説的な表現になりますが、非政治的な市
民の政治的関心によって、また「政界」以外の領域からの政治的発言
と行動によってはじめて支えられるといっても過言ではないのです。」
(Ⅳ「である」ことと「する」こと―P172、傍点省略)
政治を自分とは関わりのない特定身分の先生が行うものとして、政
治の事は政治家に任せておけと言うのでは主権の放棄である。それば
かりか丸山氏はこの章の冒頭に日本国憲法の第12条「この憲法が国
民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持
しなければならない」との記述を引用して、そこから「主権者である
ことに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目覚めてみ
ると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起るぞ」という
警告だと言い、民主主義は「お上」から与えられた「ある」制度では
なく不断に行使「する」のでなければ、「権利の上にねむる者」はや
がて主権者の権利を奪われると警告している。議員を身分と思い込ん
で世襲に異議を抱かない旧い世代の「ある」政治を、新しい世代の市
民が「する」政治に変えなければ、それは衆愚政治になるというなら
数多の世襲首相がどれほど国民の期待に応えてきたというのか、ある
朝目覚めると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起るか
もしれない。
(菅)⑩
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政権交代以後、今の閉塞した状況をよく幕末の時代転換になぞらえ
て語られるが、維新へと続く幕末には近代文明への明るい展望が広が
っていた。さらには国土が焦土と化した敗戦後でさえ厭戦が叶い自由
社会への解放感があった。ところが、経済大国として世界が羨むほど
の国に成長したにもかかわらず、我々はその豊かさを享受する中で、
現在はと言うと将来の進むべき道が見つからない焦りと不安ばかりが
広がっている。つまり、幕末や終戦後の時代転換と今我々が直面して
いる時代転換の様子は全く逆なのだ。幕末であれ終戦であれ混迷の
中にまだ進むべき道が残されていた。暗闇の中にあっても遠くから一
縷の光が差し込んでいたのだ。しかし、近代文明の恩恵に与って光溢
れる時代を享受した我々は、経済のグローバル化に異を唱えるように
環境問題が顕在化して、世界経済は歩調を揃える様に停滞を余儀なく
された。我々は近代という高速道路をエンジンを噴かしてぶっ飛ばし
てきたが、今や高速道路は自然破壊が原因で断裂し、眩しく光る道路
は暗黒の奈落へ垂れ下がっている。これまではたとえ大きな転換があ
ったにしても近代という道を進むことが出来た。ところが、今や我々
の前には道そのものが無いのだ。断崖の下は暗黒が口を開けて待って
いる。道が途絶えたなら引き返すしかないのだが、如何なる文明と雖
も文明を棄てて文明以前に後戻りしたことは無かった。核兵器さえ廃
絶できない我々に近代文明を棄てることなど出来るだろうか?やがて
「成長」や「発展」といった近代化が持て囃した言葉は、「縮小」や
「撤退」と言った言葉に取って代わられるだろう。そんな「収縮」時
代にあって、なおも「経済成長」や「景気拡大」などといった経済政
策に期待することは恐らく大きな破綻を招くことだろう。我々は一旦
は「撤退」せねばならない。経済成長が実感できる時代のリーダーは
「黙っておれについて来い!」でよかったが、「撤退」しなければな
らない時代のリーダーは後に続く者にどれほど煩雑な説明をしなけれ
ばならないだろうか。「黙って引き返せ!」では誰も納得させること
はできないだろう。つまり、今こそ我々の民主主義が試される。
民主党への政権交代は、そういった時代転換の流れの中で生まれた。
これまでの「ぶっ飛ばす」政治を見直して道を確かめながら、時には
後戻りしながら転落せぬよう「撤退」せねばならない。それには成長
体験しか持たないアンシャンレジーム(旧体制)世代ではなく、新しい
世代の新しいビジョンが求められるのではないだろうか。今回の代表
者選挙は世代間の主導権争いでもある。幕末の若き志士たちは新しい
時代を拓くために身分を越えて闘った。維新後の身分制度の廃止、そ
して戦後の新憲法と我々の時代転換の歴史はまさに民主主義を実現す
る為の歴史でもあった。ただ遅々として進まず、その度に多くの犠牲
を生んできた。丸山眞男は著書「日本の思想」(岩波新書C39)の中
で民主主義をこう言っている。
「民主主義とはもともと政治を特定身分の独占から広く市民にまで開
放する運動として発達したものなのです。そして、民主主義をになう
市民の大部分は日常生活では政治以外の職業に従事しているわけです。
とすれば、民主主義はやや逆説的な表現になりますが、非政治的な市
民の政治的関心によって、また「政界」以外の領域からの政治的発言
と行動によってはじめて支えられるといっても過言ではないのです。」
(Ⅳ「である」ことと「する」こと―P172、傍点省略)
政治を自分とは関わりのない特定身分の先生が行うものとして、政
治の事は政治家に任せておけと言うのでは主権の放棄である。それば
かりか丸山氏はこの章の冒頭に日本国憲法の第12条「この憲法が国
民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持
しなければならない」との記述を引用して、そこから「主権者である
ことに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目覚めてみ
ると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起るぞ」という
警告だと言い、民主主義は「お上」から与えられた「ある」制度では
なく不断に行使「する」のでなければ、「権利の上にねむる者」はや
がて主権者の権利を奪われると警告している。議員を身分と思い込ん
で世襲に異議を抱かない旧い世代の「ある」政治を、新しい世代の市
民が「する」政治に変えなければ、それは衆愚政治になるというなら
数多の世襲首相がどれほど国民の期待に応えてきたというのか、ある
朝目覚めると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起るか
もしれない。
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