(八)
お母さんによると、アンちゃんのアメリカ留学をお祖父さんには
知らせてなかった。長男であるアンちゃんが事業を継いでくれると
期待していたお祖父さんにそのことを言い出せなかった。アメリカ
へ行かせると言えば理由も聞かず反対するだろう。お祖父さんは「
異」邦人という邦人社会から見棄てられた厳しい環境の中で、同胞
と悔しさを慰め合いながら生きてきた。明るい話しは全て日本人の
もので、反して自分達は今日明日をどう凌ぐかが精一杯だった。し
かも「自由」を夢見た多くの同胞は無残に散った。「生きるとは不
自由なことである」そして「自由などというのは不自由の中でしか
生まれない」つまり「不自由を乗り越えない限り自由にはなれない
のだ」そのことをどうしても孫のアンちゃんに伝えたかった。
アンちゃんはアメリカ留学の手続きの為実家に帰ったのだ。二人
でどんな言い争いがあったのか解からないが、自由を主張するアン
ちゃんと一族の秩序を重んじ独断を押し付けてくるお祖父さんとの
確執は以前から高まっていたという。彼は祖先を敬う儒教思想を、
「猿を崇める」
と言った。
「だから俺たちは進化しないんや」
更に、アンちゃんはパチンコ屋という事業を嫌がっていたので汚く
罵ったかもしれない。
「イカサマ商売!」
お祖父さんは一族を支え今の暮らしをもたらした仕事を貶されたこ
とに耐えられなかっただろう。更に、自分達の置かれた環境も考え
ず、殊更「自由」を口にする孫を嗜(たしな)めたに違いない。そし
て、
「アメリカへは絶対行かせない!」
人を殺す者の心理は、優れた推理小説といえども正しく描写され
た例(ためし)が無いし、況(ま)しておれには察することさえ敵わず
、ただ、その結果だけが現在する。アンちゃんは少年時代のバット
を持ち出して、お祖父さんの頭部を数回殴った。お母さんと妹が戻
ってきた時、妹は居間に散らばった黄色いかしわ(鶏肉)の脂肪の
ようなものを何だか解からずに指で触った。そして奥の部屋で眠っ
ているお祖父さんの頭から大量の血が流れていることに気付き、
割れた頭部からはみ出した脳漿を見て、さっき指で触れたのはお
祖父さんの脳みそだと知って大声を上げた。お祖父さんの身体は
アンちゃんが布団まで運んだと思われる。それが結果だった。
「お祖父さんの脳みそ触っちゃった。まだ感触が残ってる」
妹は指を見ながらそう言った。
お母さんと妹の話しを聞いて、おれが推理した事件の顛末である。
アンちゃんの遺影に別れを告げた。
間もなくしてアンちゃんのお父さんは日本へ帰化された。
時代は明かに変わろうとしていた。しかし、この国は相変わらず
古い政治、古い道徳、古い価値を守る為に、古い人間が支配して
いる。新しい時代は古いシステムを破壊しなければ生まれない。
失敗を恐れて服従していては何も変わらない。明治維新は力のな
い下級武士の若者たちによって成し遂げられたのだ。我々は、今
一度この国を「せんたく」せねばならない。
おれは、アンちゃんの残した「反儒教革命」を実践することを彼
の遺影に誓った。それには学校が絶好の実験室だと思った。そうす
れば、退屈な授業にも少しは付き合ってられるかもしれない。恐ら
く学校の秩序を乱すことになると思うが、「革命」なんだから仕方
ない。そうは言っても、同士を募って徒党を組み圧力を行使して「
序列秩序」の糾弾をしようとは思っていない。それは納得のいかな
い譲歩は必ず反発を招き、結果断絶に至ることは安保闘争から明か
だ。これは「たった一人の反乱」である。その反乱を企てる根拠と
なる思想は、日本国憲法第三章第14条における「法の下の平等」
に沿って行われる。つまり第1項に謳う、「すべて国民は、法の下
に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、
政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」に依る。
未成年と雖(いえど)も国民の一人である。つまり、これは憲法に則
った順法闘争なのだ。挨拶や敬語を疎かにしたからといって憲法に
反さない。否、それどころかそういう言葉による階級差別こそ憲法
違反なのだ。弱年者のみに礼儀や敬語を強いるのは「法の下の平等」
に反する、謂わば不道徳な習慣なのだ。何だか気持ちが昂ぶってき
た。まず最初に決めたことは次の二点だ。
①敬語を使わない。但し丁寧語は用い、相手を蔑む言葉は
厳に慎しむ。
②礼儀は年功序列を慮(おもんぱか)らず、徒(いたずら)に謙(へ
りくだ)らず、常に平等を重んじる。
つまり飽くまでも「平等」に拘り、人が年功を理由に私(おれ)の上
に立つことを認めず、同じ理由によって私(おれ)が人の上に立つこ
とも認めない。それでも対等の関係が損なわれる時はその都度修正
することとする。
以上が私(おれ)自身に誓った私(おれ)の「反儒教革命」の宣誓文
である。
先行きを危ぶむかのように満開の桜を散らす妬み雨の中、新入生
を校門で見守る生活指導の北森「先生」に、あっ違う!北森「さん」
に、自転車を降りて、早速、
「お早う御座います」
と言ってしまい、更に深々と頭を下げてしまった!すると、
「遅いぞ!」
と上から頭ごなしに言われて、「わが闘争!」は改革の端緒から躓
(つまずい)いてしまった。
「くそっ!」
そこで早速アンちゃんの言葉を自分に言い聞かせた。
「自由をおそれるな!、勇気をおそれるな!」
桜花舞い散る自転車置き場に着くと意思を通せなかった無念の想
いが込み上げて来た。すぐに授業の始まりを告げる予鈴が鳴った。
「このままではアカン!」
そう思って、おれはもう一度北森「さん」がいる校門へ歩いて行き、
校門の柵を閉めようとしている彼の背後から、
「北森さん、おはよう!」
と意を決して叫んだ。すると彼は意外にも、
「おはよう」と、
背中を向けたままおれの挨拶に応えた。彼はおれを誰かと間違えた
のだ。それは彼が振り返っておれを見るなり、
「何じゃお前は!」と、
吐き棄てるように言ったことから推理できた。
「もう授業が始まっとるやろ!」
おれは、
「知ってますよ、北森さん」
「はあ?お前は『先生』と言えんのか」
「ははっ、自分から『先生』と呼べとは恥ずかしくないですか?」
「なっ何やとっ!」
北森さんは真っ赤になっていた。
「あっ!もう授業が始まるんで。ただちゃんと挨拶しようと思った
だけですから」
そう言ってから走って教室へ逃げ込んだ。
先に生まれた先生たちは只管(ひたすら)名分に拘り、後から生ま
れた後生たちに序列や身分の弁(わきまえ)えを押し付けて、自らは
その社会的優位な立場に安心するが、しかし時代は変わったんや。
身分や肩書きだけのヒエラルキー(階級制度)社会は自壊したんや。
(つづく)