戦争映画を、あるいはTVドラマを観ている時、戦場での戦闘場面が出てくるたびに、ついつい思ってしまう事がある。
例え、その映像が現実以上にリアルなCGを駆使した臨場感あふれる物であろうと、それとも、いかにも安っぽいハリボテのセットで撮影された物であろうと、ついつい思ってしまう事がある。
「自分は、決して、こんな所で死にたくない!」と。
まずワタクシの父親の兄弟の構成を説明しておく。
長男A伯父・・・・・・・・・・大正4年生まれ
次男B(ワタクシの父親)・・・・大正8年生まれ
三男C叔父・・・・・・・・・・大正11年生まれ
長女D叔母・・・・・・・・・・大正12年生まれ
このうち、
長男A伯父、次男であるワタクシの父親、三男のC叔父は既にこの世を去り、今や昔の記憶をしっかりと語れるのは末っ子のD叔母一人である。
この話の発端は2005年だった。
その年7月に神戸市に住むA伯父が亡くなった。
ワタクシの父親である次男Bは随分前に亡くなっていたが、その時点ではC叔父は健在だった。
仕事の段取りがつかず、通夜、告別式から10日ほど遅れて8月初旬のお参りとなった。
その日も、A伯父の娘さん(つまりワタクシの従姉妹)が、待ち合わせ場所の三ノ宮駅からA叔父宅まで案内してくれた。
A伯父の連れ合いである伯母は、その当時はまだ元気に一人暮らしをしていた。
A叔父宅で、従姉妹が、祭壇に供えられていた何枚かの写真を見せてくれた。
ほとんどの写真は、近年入院がちだったA伯父の病院やホスピスで見舞いの孫達に囲まれたスナップ写真だったが、その中から1枚だけ古いモノクロ写真が出てきた。
その写真では、A伯父が、幅の広い白いたすきをかけていた。
たすきには、A伯父の名前が大きく書かれていた。
戦争を扱った新聞記事や映画やTVドラマなどで、よく似たシーンを見た事がある。
A伯父が出征する時の写真だった。
写っているのは5人。
A伯父の隣に日本髪で着物姿の伯母が、そしてA伯父の弟妹。
だから、若かりし頃のワタクシの父親も写っていた。
という事は、前列でセーラー服を着た女学生は末っ子のD叔母だろう。
全員の表情が硬い。
特に、D叔母の表情は、あきらかに不機嫌に見えた。
従姉妹は、この写真をこの時初めて見たらしく、そばにいた伯母(A叔父の妻)に
「どこにあった写真なのか?」
と訊ねたが、記憶力が衰えてきたようでよくわからないようだった。
ワタクシは、デジカメを持っていた事をすっかり忘れていた。
A伯父宅を辞した後、この出征写真をデジカメで撮っておけば、父親の弟妹達に見せる事ができたかも、、、、、と少し後悔した。
ところが、その後、同じ年の10月の事だ。
翌月に母親の三回忌をひかえていたため、散らかっている拙宅の中を少しでも片付けておこうかとボンヤリ考えている時、居間の箪笥の上に置かれた古いアルバムが何冊か、埃をかぶっているのが目に留まった。
いつからそこにあったアルバムなのか?
たぶん随分と長い間その場所に置かれていたために、居間の風景の一部になってしまっていたのだ。
過去に何度か中身を見た事があるが、さほど大事な写真があったようには記憶していない。
ただ古いだけ、なんという事もない父親のアルバムだが、こんな所に放り出しておかないで、本箱の引き出しの中にでもしまっておこう、、、、、、
掃除機で軽く埃を吸い取って、引き出しの中にしまうためにアルバムを持ち上げた時、、、、、、アルバムの中から、ハラハラと3枚の写真が、剥がれてしまったのか、畳の上に落ちた。
そのうちの2枚は、どこで撮ったのかよくわからない古い風景写真だった。
だが、あとの1枚には、A伯父が大きく自分の名前が書かれた幅広の白いたすきをかけて、一人で写っていた。
間違いなく、8月にA伯父宅で見せてもらった写真と同じ時に撮られた物だ。
アルバムを開いてみた。
剥がれた写真があったページには、何と、8月に神戸のA伯父の祭壇の前で見せてもらったのと同じ写真が、、、、、、、
A伯父夫妻とその弟妹達が写っている出征時の写真があった。
そのページの台紙には、見慣れた父親の筆跡による、こういう書き込みがあった。
昭和15年 兄A 大君に召され鹿児島へ
他にも、同じ時に撮られただろう写真が何枚か貼られていた。
A伯父の弟妹ではない人物が、一緒に隣に写っている写真も何枚かあった。
ワタクシの知らない親戚か、それともA伯父の友人だろうか?
その前後のページには、ワタクシの父親やA伯父の兄弟達の若い頃、いや、幼児を抱いた祖母と一緒の幼い頃の姿もあった。
さらに、A伯父と同じ時期ではないと思うが、末弟のC叔父が出征する時の写真も。
ちなみに、ワタクシの父親は、徴兵されなかったので兵士としての戦争経験は無い。
子供の時に聞かされた話では、父親はどこか体力的に劣っていたようで、徴兵検査に合格しなかったのだと言う。
そこで、この写真の件を電話でD叔母に話してみたところ、ぜひ見たいと言った。
D叔母が嫁ぐ以前に暮らしていた神戸の祖父の家は、昔、火災に遭ったため、自分の若い頃の写真はほとんど手元に残っていないのだと言う。
父親から聞いていた若い頃の話や、今回のD叔母の断片的な話を総合してみると、父方の祖父は、神戸で金物(鍋、薬缶、食器類の事か?)の卸問屋を営んでいたらしい。
祖父は、時に、商談のため北海道あたりにまで足を伸ばしていたそうで、なかなか手広い商売をしていた様子だ。
もしも、そのまんま継続して手広く商売を続けてくれていたらば、ワタクシももう少し贅沢に暮らしているのかもしれない。
(いや、そうなると、ワタクシはこの世に存在すらしていない可能性のほうが大きいのだが)だがある日、紙問屋を営む隣家から出火した火事で祖父宅も類焼したらしい。
その火事で、経済的なダメージを受けたのだろう。
それをきっかけに金物の卸問屋をやめて、同じく金物を扱うのだが小売業の方に専念する事にしたらしい。
それまでは、A伯父、ワタクシの父親、C叔父の男兄弟3人も祖父を手伝いながら卸問屋をしていたのが、小売業の方は祖父と長男のA伯父が引き受け、父親とC叔父は別の職業に就いたようだ。
この時の火事のせいで、D叔母の手元には若い頃の写真がほとんど残っていないのだと言う。
では、どうしてワタクシの父親の手元に昔の写真が残っていたのか?
おそらく、祖父宅が火事に遭う前に、父親は神戸の実家を出て独立して住んでいたのだろう。
火事に遭ったという事情であるならば、A伯父やC叔父達の手元にも、昔の写真はさほど残っていないはずだ。
父親が一人で写る物を除いて、その兄弟達が写っている写真を、写っている本人である伯父・伯母達の元に返すべきだと思った。
丁度、ワタクシの従兄弟であるD叔母の次男と会う機会があったので、この従兄弟にA伯父やC叔父やD叔母達が写っている写真を手渡しておいた。
とりあえずD叔母に写真を見てもらって、近いうちにいずれ機会を作ってA伯父宅とC叔父宅へ行くつもりだと言っていたので、その時に写真に写っている本人達に返してもらう事にした。
それで、この話は一区切りつくはずだった。
だが、さらにその後日、
同じ頃の、別の写真に遭遇した。
前述した、居間の箪笥の上に置いてあったアルバムは1冊だけではなく、全部で4冊あった。
A伯父出征の写真が貼られていた父親のアルバムには、最初のページから最後のページまでびっしりと写真が貼られてあった。
それに比して、残りのアルバムに貼られている写真の枚数は少なかった。
新しいアルバムを使い出したものの、その途中で、父親の手持ちの写真が尽きたのかもしれない。
それとも、写真を整理すると言う行為を放棄したのだろうか?
その気持ちはわかる、何事であろうと整理すると言う事は面倒くさい物だ。
さすが、血は争えない。
さらに、残りのアルバムにも目を通してみた。
1冊につき3~5ページくらいしか写真は貼られていなかったが、その中の1枚にA伯父の姿があった。
ここはいったい、どこなのだろうか?
雑草が繁った草地に、墓標が立っている。
墓石ではなく、墓標。
墓標に書かれた文字も、はっきり読み取れる。
その前に片膝をついている兵士が2人。
一人はA伯父。
A伯父は、墓前で尺八を演奏している。
上の写真が、それ。
縦68mm、横97mmの小さなモノクロ写真。
A伯父達の背景にボンヤリと、柱のような物がずらりと写っている。
鉄条網が張り巡らされた柵の杭なのか?
それとも、A伯父達の後方に立っているこれらもまた、墓標なのか?
この写真をアルバムから剥がしてみると、裏面には、A伯父の筆によるらしい文がある。
A伯父は、写真の裏にこう書いている。
○月○日 ○○に於いて
大陸に永遠に骨を埋める戦友よ
君の勲は俺たちが引き継いで逝くぞ
無駄にしないぞ
君が好きであった
慷月調のしらべを聴いてくれ
A伯父は、若い頃から尺八の演奏が趣味、いや、趣味の域を超えた実力を持っていたようで、和歌山県下津町にある、虚無僧寺として有名なお寺へも何度も訪れていたようだ。
自分の娘達や、弟妹達の子供達(A伯父にとっての甥、姪達)の結婚式には、必ず尺八の演奏で祝福したようだ。
「慷月調のしらべを聴いてくれ」とある慷月調とは、尺八で演奏される曲の名前のようだ。
慷月調の「慷」は、見慣れない文字だが「りっしんべん」に健康の「康」と書く。
だから、「慷月調」は「こうげつちょう」と読むのだろう。
この写真に一緒に写るA伯父達二人と、若くして命を落とし墓標に眠る戦友、、、、、、、、、、
親密な友人だったのだろう。
よほど気が合う永年の親友だったのか、もしかすると、A伯父と尺八の趣味も共有する友人同士だったのかもしれない。
「○月○日 ○○に於いて」と、年月日と場所を伏字にしているが、軍による検閲のため日時と場所は書けなかったのだろう。
いつだったか、第2次大戦時の明治神宮における学徒動員の出陣式の模様をラジオで実況した録音をTV放送で聞いた事があるが、その時も「○月○日、場所○○、天候○○、、、、、」とアナウンサーが実況していた。
天候まで伏字にするわけは、敵軍(アメリカ軍)にラジオ中継を傍受されると、現地の天候が知られてしまい、空爆のきっかけにつながりかねないからだという。
では、いつの写真なのかというと、この写真が貼られているアルバムの台紙に、父親の文字で昭和15年とある。前述した、A伯父の出征時に5人が写った写真の横にも、父親の書き込みがあった。
これも、昭和15年だった。
A伯父が出征したのも、亡き戦友の墓前で、尺八で「慷月調」という曲を演奏したのも、どちらも昭和15年、、、、、、、、、時期的に、どちらが先なのだろうか?
この時、A伯父は25歳。
昭和15年、、、、、、、この頃、どういう戦況だったのだろう?
その程度の事は、小学校か中学校の社会科で習ったはずなのだが、、、、、
真珠湾攻撃により、日本が太平洋戦争に突入したのは昭和16年12月8日。
では、この写真はどこで撮った物なのだろう?
「大陸に永遠に骨を埋める」
とあるので、この「大陸」とは満州か?それとも中国か?
撮影されたのは日本のどこかの日本軍の基地、A叔父が出征し最初に赴いたらしき鹿児島なのだろうか?
どこだ、、、、、、?
ここまで書いてきて、根本的な疑問が沸いてきた。
この写真を撮ったのは、いったい誰なんだろうか?
父親のアルバムには、父親が一人で尺八を吹いている姿も残されている。
だが、父親の遺品には、尺八あるいはそれに関するものは全く残っていなかった。
その昔、兄であるA伯父の手ほどきで尺八を習ったものの、身に付かなかった、、、、その可能性が高い。
身に付かない、、、、、、ワタクシにとってのギターと同じか?
さすが、血は争えない。
父親の遺品といえば、かなり古い型のカメラがあったはずなのだが、いったいどこへ行ってしまったのだろう、あの蛇腹型のボディのカメラは?
そうそう、きっと父親には多少なりともカメラの知識があったのだ。
もしや、父親は、この墓標に眠るA伯父の戦友とも、A伯父を通じて面識があったのかもしれない。
A伯父と一緒に写るもう一人の人とも、面識があったのかもしれない。
ワタクシの父親がA伯父達に同行して、この写真を撮影した可能性もある。
今となっては、それを確かめるすべも無い。
墓標の前の写真が貼られていた近くに、台紙に書かれた、父親の筆跡による一文がある。
慷月調
君が墓標に
奏するも
我が瞼には
消えぬおもかげ
親友を亡くして、悲嘆にくれている兄の心情を想ったのだろうか、、、、、
A伯父。
都山流尺八奏者、鋭山。
1915年(大正4年) 生。
2005年(平成17年) 没。
穏やかな人だった。
お酒が好きで、1日の終わりには少しの晩酌を欠かさない人だった。
酔うといつもにこやかで、良い酒を飲む人のようだった。
たとえ酔った時でも、家族の前では戦争の時の話は一切しなかったそうだ。
2005年当時、最初にこの記事をアップした時にコメントを寄せて下さった方がいた。
心からお礼を申し上げたい。
偶然にも生前のA伯父と面識があった方のようだが、そのコメントはうっかりと消えてしまった。
そのコメントによると、『慷月調』とは、都山流本曲で「冴え渡る秋の月を仰ぎ、胸中の嘆きを感情の赴くままに表現した曲」だという。