育てようよ、
ジャイアンツ
どうしてもこれが判明しないと不都合が起きるわけではないが、どうにかして解明できないかとず~っと引っかかっている事がある。
きっかけは15年前に母親が亡くなって、その後の手続きに取り掛かった時だった。
必要な謄本類が何種類かあって、その中の「母方の祖父を筆頭とした謄本」がワタクシの居住地の役所には無いと言われたので驚いた。
居住地の役所に無い理由は、母方の祖父母は、母親が生まれた当時にはここではない大阪市内に居住していたからだと聞いて、再び驚いた。
それまで、ワタクシはすっかり、母親は、今住んでるイナカ町に生まれて育ってきたものだと思い込んでいたのだ。
ちなみに、母方の祖母(つまり母親の母親)は母親が幼いころに亡くなっていたし、母方の祖父(つまり母親の父親、、、、ああややこしい)はもう少し長生きしたらしいがワタクシが生まれた時には存命ではなかったので、ワタクシ自身は母方の祖父母ともに対面した事は無い。
ともかく大阪の区役所の問い合わせ先を教えてもらって、謄本を取り寄せた。
それは母方の祖父を筆頭とした除籍謄本というやつで、読みなれない書体をじっくり読んでみてわかったのは、
祖父母は大正8年11月に『大阪市南区長堀橋筋〇丁目〇番地』から『大阪市西区江戸堀北通〇丁目〇番地』に転居していて、母親が生まれたのは江戸堀北通に転居した後だったという事だ。
大阪市内にはさほど長く住んだわけではなく、やがてワタクシが今住んでいるイナカ町に移ったようだ。
母親が亡くなる2、3年前、それまで部屋でLPレコードやらCDを聴いているだけでは飽き足らなくなっていたワタクシは、コンサートホールでの生演奏に足を運ぶようになっていて、たまたまその時期には2ヶ月に一度くらいのペースで大阪市内のホールに出没しだした頃だった。
改築前のフェスティバルホールや昔の厚生年金会館などに行くときには、江戸堀あたりのビジネスホテルに泊まる機会も多くなっていたので江戸堀という地名に馴染みかけていた事も関係したのだろう、
この機会に、大正8年当時に祖父母一家が当時に住んでいた場所を探してみようか、という悪だくみが頭をもたげてきた。
それも、できるだけピンポイントで。
大正時代の事なので、当時から住居表示が変わっている可能性は覚悟していた。
考えられる障害はそのくらいの事だろうし、さほど手間なく簡単にわかるものと思ったのだが、ただどこで調べればいいのかの見当が付かず、まず謄本を取り寄せた区役所に行ってみた。
ところが、区役所に行ってみると話は簡単ではなかった。
確かに、住居表示は当時とは変わっていた。
昭和36年に江戸堀3~5丁目が土佐堀に編入されて、1丁目~2丁目は江戸堀のままとなったらしいが、果たして当時の江戸堀1丁目あるいは2丁目が現在の江戸堀1丁目あるいは2丁目と全く同じなのか、それがわからないと言われた。
それがわからないと、当時の番地が現在の番地がどう違うのかが判明しない。
区役所の人が言うには、過去の住居表示から現在のを調べる事は難しいらしい。
ワタクシとしては、単に、現在のどの辺りに居住していたのかを知りたいだけであって、その事が新たな手続きを行うのに必要なために調べているわけではない。
言わば興味本位なだけだから、わからないままでも全く差支えは無いが、乗りかかった船というヤツである。
どうやら区役所ではそれ以上わからないらしいが、もしかしたら図書館で当時の地図を調べてみるとわかるかも知れない、と言われて、図書館にも行ってみた。
図書館では、地籍図を調べてみてはどうかと提案されて、当時の地籍図を見せてもらった。
初めて耳にした地籍図とは、土地の登記者名が記入された地図だった。
とりあえずだいたいこのあたりと見当をつけてさがしてみたが、予想通り地籍図には祖父の名は無かった。
祖父母一家が借家住まいだった事は当然予測していたし、この地籍図でわかったところで現在の位置は判明しないのだ。
意気込んで大阪まで出かけておきながら、成果は乏しいものだった。
結局、ほとんど判明しなかったのだが、わからないという事がなんか悔しいという思いがくすぶり続けていた。
すると、3年ほど前、偶然にも、『所蔵地図データーベース』というサイトに出くわしてしまった。
ここでは、主だった都市の古い地図がデータベース化されているのだ。
このサイトで調べてみたのだが、やはり、現在の住所番地をピンポイントで調べる事はできなかった。
ただ、大正時代には大阪市内のこの辺りには今よりもたくさんの川が流れていて、その川には今よりもたくさんの橋が存在していた事が良く分かった。
大阪人ではないので良く分からないが、昔の川の上に道路が建設されて、今は外からは見えない川もあるかもしれない。
ちなみに、祖父母が江戸堀に移る前に居た当時の長堀橋筋〇丁目〇番地は、大まかに言うと今の西心斎橋あたりらしい。
ところが、どういうわけだがワタクシは、長堀橋の方は大して気にならなくて江戸堀という地名の方が気になって仕方ないのだ。
もしかすると、『所蔵地図データーベース』の中のまだ見ていない地図にそのヒントが隠れているのかも知れない。
早い話が、
もしも大正時代にゼンリン住宅地図があれば、簡単に解決するだろうという事は間違いないのだよ。
新神戸駅の近くの新神戸オリエンタル劇場は、大好きなホールだ。
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2階席、3階席と合わせても639席という決して大きなホールではないけど、それゆえに少しくらい後方の座席位置からでもステージが近くて見やすい聴きやすいホールだと思っていた。
やや古めかなとも感じられる座席に座って、これまでにケイコ・リーや寺井尚子を初め、たくさんのライヴを堪能させてくれた。
ケイコ・リーのバックバンドのギタリストに、達郎のピットインでのライヴ盤に参加していた松木恒秀(昨年、逝去)の姿を認めた時に、飛び上がりそうに驚いてしまった事もあった。
何よりもワタクシの新神戸オリエンタル劇場歴で一番ビックリしたのは、2014年にあのパット・メセニーのグループの公演が発表された時だった。
まさかと思ってチケットを手配したら、ホントにパット・メセニーのグループを目にできたのは嬉しかった。
ただ、見やすい聴きやすいホールではあるけど、他のホールに比べると入場ドアから客席に続くロビー部分のスペースが狭くて、開演前や途中休憩中の居場所が無い所でもあった。
そういう時には、のんびりと自分の席にいれば良いわけだが。
このホールに行く時は、いつも三ノ宮駅から歩いていた。
三ノ宮駅から新神戸駅までは緩い上り坂が続いて、大した距離ではないが猛暑の頃はちょっと大変な思いもした時もあった。
ところが、3年ほど前に三ノ宮駅から新神戸駅まで地下鉄に乗ると、うんと楽に移動できることに気づいたばかりだった。
ま、それまで気付かなかった方がどうにかしているのだが。
せっかく楽に移動できるルートを発見したというのに、最近、新神戸オリエンタル劇場からのメルマガが少なくなったというか来なくなったなぁ、と思い出した矢先、メルマガではなく、
『2018年12月末をもちまして、閉館する運びとなりました事をお知らせいたします。』
とのツイートを見つけてしまった。
1988年のオープンから30年だそうだ。
閉館するにはちょっと早過ぎるんではないのかと思いつつ、なんとかもう一度行ってみようとチケットを検索してみた。
一応予約できたのだが、まだ座席位置がわからない。
もしかすると後方席あるいは2階、3階席になるのかもしれない。
そういえばこのホールでは、これまでは運良く1階席ばかりでの鑑賞だったなぁ、と思いつつ。
11月4日(日)、びわ湖ホールでの山中千尋トリオのライヴに。
ホール周辺ではあちこちで紅葉しているのだが、少々雲が多い空模様だったのが残念。
日曜日のデータイムに、ほどよいキャパのホールでピアノトリオを聴く機会もめったにあるもんじゃない。
年々薄弱になって来たワタクシの記憶によると、この人のライヴは今回が5回目だった。
ピアノ演奏はもちろん、あまり長く喋らないものの、この人はまたMCに独特の魅力を感じさせる。
終盤のステージ上のMCで、
『びわ湖ホールにお越し賜わりました皆様、有難うございました』
との丁寧なご挨拶をいただいて、こちらが恐縮してしまった。
『お越しいただきました』
あるいは
『お出でいただきました』
という表現は良く耳にするものの
『お越し賜りました、、、、、、、、』
とはなかなか言えるもんではないと思う。
その上、Twitterでも
『びわ湖ホールにお越し賜わりました皆様、有難うございました。おかげさまで満席を頂き素晴らしい初日でした。』
と言っている。
もしやかなり育ちが良い人なのか、と感心したり。
このびわ湖ホールが今回のツアーのスタートだったらしく、まだ何本かスケジュールされているはず。
クルマでの日帰りも検討したが、この日は大津市内に1泊した。
終演後のCDサイン会の列はホールの外まで続いていた。
その後、ザめしやと言う名の飯屋で晩飯を済ませて外に出たとたん、湖の方から打ち上げ花火の音がしたけど、すぐに終わってしまった。
知人にすっかり高槻ジャズストリートがお気に入りになってしまった人がいて、かつてその高槻ジャズに何度か登場したというチャランポランタンという姉妹の噂を散々聞かされていたわけで、
そのチャランポランタンをTwitterでフォローしてみたら、彼女たち2人がFMでレギュラー番組をやってる事が判明してradikoで聴取してしのいでいたわけだ。
そのあたりから立ち込める気配によると、どうやら彼女たちのライヴは立席ライヴ(あるいは結果としての立席ライヴ)が多いようで、自分の体力面に気を配りつつホールでの着席ライヴの機会を待ち構えていたら、ようやく7月29日の大阪市中央公会堂に潜り込むことに成功した。
開場時刻の随分前からホール前に集まっていた人々は、所謂『貴族』と呼ばれる方々なのだろう。
バンド編成でのライヴもやっているのだが、今回潜り込んだのは姉のアコーディオンとヴォーカルと妹のヴォーカルの2人っきりの編成で。
という事は、ステージ上から発信される伴奏はアコーディオン1台きりで、そのアコーディオンの音色たるや、ワタクシのiPhoneの小っちゃいスピーカーから流れるradikoで聴きなれたものではなくて、高音部はどこまでも澄んで美しく切り裂いて、低音部はどこまでも深くから響いてくる重低音を発していて、会場PAの設定にもよるのだがアコーディオンという楽器の名称から受けるのとは予想外の大音量で、まずびっくりした。
アコーディオンを演奏する姉の超絶技巧ぶりに再度びっくりして、ライヴ終盤では、まるであのフィギアスケートの女王のようにクルクル回転しながらアコーディオンを弾き続けるという技術も見せつけられて。
妹ヴォーカルがステージ上で詩を朗読している間に一旦姉が引っ込んで、1曲だけ赤いアコーディオンに持ち替えて登場した曲では、低音部の音色がコントラバス、中高音部の音色がビブラフォンに変換されていたのだが、これはmidiとかいう戦法なのだろうか、それもまた新鮮だった。
終盤になると、ワタクシの体力など誰も配慮してくれずにどんどん総立ちになってしまったのだが、ワタクシから2~3列前の座席にいた推定小学校低学年の女の子もその同伴者の推定お母さんも立ち上がって踊りだして、女の子の方がとても朗らかに嬉しそうに母親を引っ張るように踊っていた姿がシアワセそうで美しかった。
もしもワタクシが彼女の親族であったならば、肩車でもしてステージ最前列に連れて行ってしまいたい気も起ったのだが、赤の他人がそれをやるとさすがに不審者情報を紐づけされそうなので、グッとこらえた事は言うまでもない。
ちなみに、チャランポランタンは、今年の高槻ジャズストリートには登場していなかったが、次回はゆかいなカンカンバルカンとかいうバンド編成の時に潜り込んでみたいと熱望している。
こうして10月8日に富山にたどり着いてから、東北の南部を非効率的に周遊したわけだが、今回の最終目的地は、この日の須坂市須坂市メセナホールでの大貫妙子コンサートだった。
半年ほど前に、Twitter経由でHPでの先行販売を見つけて、ダメ元で申し込んでみたら当たってしまったのだ。
で、10月14日(日)
開場16:00、開演16:30。
一度は台風に邪魔されながらも、この日、この時刻にこの場所にいられるように行程を組んだらこうなったわけで。
開場直後の物販コーナーでは、大貫妙子のCDがどんどん売れていた。
どうやら、最新アルバムにサイン色紙が付いているような気配がしたぞ。
過去に一度だけ大貫妙子を体験したビルボードライヴ大阪での演奏時間は80分程度だったけど、この日のメセナホールではゲストが原田知世とバンドネオンの小松亮太という豪華な顔ぶれで、休憩なしで2時間弱くらいの演奏だった。
ギタリストの小倉博和は、前回ビルボードライヴの時と同じように、たくさん持ってきたギターの中にバックパッカーも弾いていた。
プロ仕様にカスタマイズしている可能性はあるが、どうしてワタクシが弾くバックパッカーと違う流麗な音色で鳴るんだろうか?
そこそこの良席にも恵まれ、長野県で聴く大貫妙妙子の澄んだ歌声が気持ちよかった。
終演後、駐車場の混み具合に一時は絶望感さえ感じたのだが、意外にもスムーズに出る事が出来た。
翌15日(月)は、ひたすら帰るだけだったが、ほとんど高速道路を使うとは言っても、さすがに走行距離600kmを超えるとキツかった。
『メセナホール』という名のホールは色んな所に存在するみたいで、枚方のホールもそんな名前ではなかっただろうか?