[2007年4月7日 京都シネマ]
この映画の宣伝文句にスピルバークの「シンドラーのリスト」、ポランスキーの「戦場のピアニスト」に続くバーホーベン監督が贈る待望の作品とあったので期待してみたが、やや期待はずれだった。
実は「戦場のピアニスト」も自分の評価としてはもう一つと思っていたので、広告コピーを鵜呑みにはしなかったのだが。(余談だが、同じ「~のピアニスト」なら「海の上のピアニスト」の方が圧倒的にいい。むろん題材が違うが。)
ナチの残虐性、狂気に満ちた非人間性を描いた映画はたくさんあるが真正面から取り組んだ作品としてはやはり「独裁者」(チャップリン)、「シンドラーのリスト」(スピルバーグ)だ。「野獣たちのバラード」(ミハエル・ロンム)は抑揚を押さえた描写の中にナチの狂気が鋭く描かれ、強く印象に残っている。
岩波映画で観た「アウシュビッツの女囚たち」も、限界を超えた悲惨な状況の中での楽天性と人間の可能性を示し、尊厳を守ることの美しさ目のあたりに示してくれた感動的な作品だった。
最近見たもの(といっても2~3年以上経つか)では、「ふたりのトスカーナ」、「パティニョールおじさん」、「赤い鼻のピエロ」や「蝶の舌」も良かった。
惜しむらくは、こうしたいい映画が観たいときにみれないことだ。「アウシュビッツの女囚たち」や「野獣たちのバラード」はおそらく、レンタルビデオ屋の店頭には並んでいないだろう。いつか、それなら自分で「アウシュビッツ~」を買い求めてやろうと思って調べたら、1万円以上したので購入を断念したことがある。文化も市場原理の中で処理されると情けない。(いい映画を供給する岩波さんにはご一考を願いたいところである。)
○ ○
戦後60年以上もたつのに、いまだにナチを告発する映画が後を絶たない。日本ではどうか。「南京大虐殺」はなかったのではとか、従軍慰安婦は軍が強制したものではないと言い出す始末である。
この違いはいったいどこから来るのか。
「男たちの大和」や、石原慎太郎が総指揮をとって制作したという、曰く付きの映画も戦争の悲惨さを扱っている。が、それが反戦に結びついているかというとそうは単純でない。むしろ石原慎太郎は戦争推進論者だ。
作品は作者の意図を超えて、場合によっては、反対の結論・印象を見る者・読む者に与えることさえある。だから反戦映画だとか好戦的だとかのレッテルを作品に貼るのは避けたい。
作品から何を感じ、何をくみ取るかは受け取る側の自由なのかもしれない。そこでは読者・鑑賞者の価値観と認識度合いが左右する。
僕はかねがね芸術の作用-美や感動の本質は《認識》にあると思っている。普遍的な美はあっても客観的な美など存在しないと。
○ ○
本題に戻ると、この作品はこねり過ぎである。
現実は混沌として何が真実で何が嘘か見分けがつきにくい。その中から本質的なものを認識し抽出し、リアルに、現実的に生き生きと再構成するのが芸術の役割と思っている。映画・小説はもちろん絵画においても、写真においてさえも。
事実を何の基準もなくただ羅列するだけだは何も見えてこないし、あらゆるものを盛り込んでも、本質を見失うだけである。
奇をてらいすぎて推移小説並みの展開を見せるこの映画をみて後に残るもは、人間不信の気持ちを興させる後味の悪さと、派手すぎる描写にかえってナチの残虐性が背後にかすんでしまう印象、それに一般大衆蔑視の散見されることである。
「ブラックブック」-公式サイト
この映画の宣伝文句にスピルバークの「シンドラーのリスト」、ポランスキーの「戦場のピアニスト」に続くバーホーベン監督が贈る待望の作品とあったので期待してみたが、やや期待はずれだった。
実は「戦場のピアニスト」も自分の評価としてはもう一つと思っていたので、広告コピーを鵜呑みにはしなかったのだが。(余談だが、同じ「~のピアニスト」なら「海の上のピアニスト」の方が圧倒的にいい。むろん題材が違うが。)
ナチの残虐性、狂気に満ちた非人間性を描いた映画はたくさんあるが真正面から取り組んだ作品としてはやはり「独裁者」(チャップリン)、「シンドラーのリスト」(スピルバーグ)だ。「野獣たちのバラード」(ミハエル・ロンム)は抑揚を押さえた描写の中にナチの狂気が鋭く描かれ、強く印象に残っている。
岩波映画で観た「アウシュビッツの女囚たち」も、限界を超えた悲惨な状況の中での楽天性と人間の可能性を示し、尊厳を守ることの美しさ目のあたりに示してくれた感動的な作品だった。
最近見たもの(といっても2~3年以上経つか)では、「ふたりのトスカーナ」、「パティニョールおじさん」、「赤い鼻のピエロ」や「蝶の舌」も良かった。
惜しむらくは、こうしたいい映画が観たいときにみれないことだ。「アウシュビッツの女囚たち」や「野獣たちのバラード」はおそらく、レンタルビデオ屋の店頭には並んでいないだろう。いつか、それなら自分で「アウシュビッツ~」を買い求めてやろうと思って調べたら、1万円以上したので購入を断念したことがある。文化も市場原理の中で処理されると情けない。(いい映画を供給する岩波さんにはご一考を願いたいところである。)
○ ○
戦後60年以上もたつのに、いまだにナチを告発する映画が後を絶たない。日本ではどうか。「南京大虐殺」はなかったのではとか、従軍慰安婦は軍が強制したものではないと言い出す始末である。
この違いはいったいどこから来るのか。
「男たちの大和」や、石原慎太郎が総指揮をとって制作したという、曰く付きの映画も戦争の悲惨さを扱っている。が、それが反戦に結びついているかというとそうは単純でない。むしろ石原慎太郎は戦争推進論者だ。
作品は作者の意図を超えて、場合によっては、反対の結論・印象を見る者・読む者に与えることさえある。だから反戦映画だとか好戦的だとかのレッテルを作品に貼るのは避けたい。
作品から何を感じ、何をくみ取るかは受け取る側の自由なのかもしれない。そこでは読者・鑑賞者の価値観と認識度合いが左右する。
僕はかねがね芸術の作用-美や感動の本質は《認識》にあると思っている。普遍的な美はあっても客観的な美など存在しないと。
○ ○
本題に戻ると、この作品はこねり過ぎである。
現実は混沌として何が真実で何が嘘か見分けがつきにくい。その中から本質的なものを認識し抽出し、リアルに、現実的に生き生きと再構成するのが芸術の役割と思っている。映画・小説はもちろん絵画においても、写真においてさえも。
事実を何の基準もなくただ羅列するだけだは何も見えてこないし、あらゆるものを盛り込んでも、本質を見失うだけである。
奇をてらいすぎて推移小説並みの展開を見せるこの映画をみて後に残るもは、人間不信の気持ちを興させる後味の悪さと、派手すぎる描写にかえってナチの残虐性が背後にかすんでしまう印象、それに一般大衆蔑視の散見されることである。
「ブラックブック」-公式サイト