【 2013年12月12日 】 京都シネマ
イスラエル当局の手によって逃亡中のナチスの大物幹部アイヒマンが亡命先で身柄を拘束された。ナチスのホロコーストに深くかかわったアイヒマンを断罪する裁判がイスラエルで開かれることになり、アメリカにいたユダヤ人哲学者のアーレントはその裁判を傍聴し、『ザ・ニューヨーカー』誌にレポートを送ったが・・・・。
映画の第一印象は、すごく《分かりにくい》ということだ。まず、登場人物が、誰が誰だか分からない。一番大事と思われる、アーレント自身の思考過程が分からない。
そもそも、《深い哲学的な思考》を1行の字幕に落とすこと自体に無理があるのだ。(それも数秒で切り替わってしまう)だから、この映画で、アーレントの主張の意図するところは理解できない。
ましてや《世界に真実を伝えた》などという、大それた命題の真偽は判定できない。
上の《キャッチコピー》とは反対に、映画の中では、アーレントの行動・主張に対し、長年の信頼関係と友情にもかかわらず、それと妥協できず、決別の道を選択したシオニストの姿もきちんと描かれている。
ナチスの『ホロコースト』という歴史的事実を、アイヒマンという一個人の《部分だけ》をきりとって、それを《思弁的に》解釈するというアーレントのやり方には賛成できない。
何百万ものユダヤ人を《収容所》に送ったアイヒマンは言う。『私はただ、命令に従っただけだ。』と。
その言葉を捕らえ、『思考を放棄し、官僚組織の歯車になってしまうことで、ホロコーストのような巨悪に加担してしまうということ。悪は狂信者や変質者によって生まれるものではなく、ごく普通に生きていると思い込んでいる凡庸な一般人によって引き起こされてしまう事態』を《悪の凡庸さ》とひとくくりにするアーレントの主張は一部真実かもしれないが、その背後にある『意図された悪意』をかくしてしまう。
それは、日本人が《あの戦争の反省》の合い言葉にしようとした、《一億総懺悔》と通じるものがある。
だいたい、《ユダヤ人の中にも収容所送りに協力したものがいる》ことを取り上げ、あたかもアイヒマンの行動と同列に論ずると言うこと自体《非常識》だ。
確かに《思考を停止すること》、《考えないこと》が《悪の蔓延》につながる(《悪の根源》ではない)ことは正しい。
しかし、《思考を停止させる》こと、《世界を見えないようにする》ことに、全力を動員している勢力-《悪の根源者》がいるということを忘れてはならないということは、『今の現実の日本』を見ればはっきりしている。そして、それに《積極的に加担している勢力》と、《そうでない部分》を区別することも必要であるということだ。
原子力の問題、TPPの問題、基地の問題、集団的自衛権の問題、憲法改悪の問題-それらを闇の中に放り込もうとする『特別秘密保護法』の成立。これらを、《哲学的思弁》の世界に追いやるのではなく、現実問題として解決する問題として捕らえなければならない。
第二次世界大戦中、枢軸国として協力関係にあり共に軍事独裁をひき、その結果、戦後同じような敗戦を味わい、同じような経済復興を遂げた日本とドイツであるが、日本と違いドイツは、戦争責任に対し徹底的な反省をした。だから、ナチズムや軍国主義の復活に関してはどこよりも敏感であり、教育制度や近隣外交や様々な点で日本が見習う点が多いと感じているが、1つだけ、以前から疑問に思っていることがあった。
それは、あの日本よりずっと民主的であると思っているドイツで、《共産党が非合法》であったということだ。東ドイツの悪影響は大きかったかもしれないが、どうしてフランスやイタリアや日本のように、国民に支持基盤を持たなかったのか不思議に思っていた。
それが今回の映画を機に、少し分かったような気がした。
アーレントの『全体主義の起源』で、スターリン主義を共産主義と結びつけ、それとファシズムを全体主義として同一視する点は、今のドイツの政治状況に深く影響を与えているのではないか、と。
さかのぼって、アーレントの思考作業を調べてみれば、『フランス革命』や『ロシア革命』に対する《論評》にも同意できるモノではない。後にナチス党員となったハイデッガーと不倫関係にあったとか、終生付き合いがあったなどという話は、二次的な問題かもしれないが、この映画の内容にかかわらず、アーレントという人間に親近感を覚えないばかりか、好きになれない人格である。
【 ハンナ・アーレント(実写)】
『ハンナ・アーレント』-オフィシャル・サイト