【2013年11月18日】 京都シルクホール
いつも行く『京都シネマ』の近くに『京都産業会館』というのが以前からあって、その8階の『シルクホール』で映画会をしているという。たまたま観たチラシで木下恵介の『陸軍』と木下恵介生誕100周年を記念して作られたという新作映画の『はじまりのみち』の2本立て上映があることを知って出かける。
『陸軍』は、太平洋戦争末期すでに日本の敗戦の色濃い1944年(昭和19年)の12月に公開されている。言わずとしれた『戦意高揚映画』であった。監督の木下恵介は黒沢明と同様、前年の1943年に監督デビューしている。軍部がこの二人の才能に目をつけ《活用》を思いついたのは当然と思える。しかし、黒沢も木下も、軍部が要請するような『戦意高揚映画』は作りたくはなかった。
黒沢の処女作『姿三四郎』は「娯楽のない時だし、映画の楽しさを何とかしてみんなに与えたいと思って」作ったものだから、陸軍の検閲官に「何だこれ、アイスクリームみたいじゃないか。」と怒鳴りつけられたという。(【山田和夫著『日本映画の80年』、1976年「一声社」刊】による P-111)
一方、木下の方は、「・・黒沢と同じく戦争と軍国主義には何とかして協力したくない気持ちを大切に守り通していて」、一作目は「ペテン師が戦争で愛国心に目覚めるという筋でようやく軍部の《許可》を取り付けた」が、「彼の良心は押さえがたいものがあり、それが『陸軍』のラストで、それが一挙にふき出した。」(前掲同書)
「『陸軍』は火野葦平原作の映画化で、・・・そのラストで田中絹代の母親が戦場へ出発する場面がある。木下はこの出征場面に全力を傾け、福岡市内の目抜き通りを全部通行止めにして、その道の両側に一般の人びとにえんえんと並んでもらい、手旗を振らせた。その列の前を母親は行進する部隊の息子を追って、どこまでもどこまでも走りつづける。・・・彼女の頬にはとめどもなく涙が流れている。出征兵士に肉親が涙を見せることさえ「非国民」の罵倒を覚悟しなければいけなかった当時、それはまさに破天荒のシーンであった。」(同前掲書、P-112)
何十年ぶりに『陸軍』を観たが、やはりラストのシーンは圧巻である。
《どの世に、自分の息子を喜んで戦場に送り出す親がいるだろうか!》
ところが、できた映画を【検閲】した軍部は当然ながら《なまぬるい》と木下を責めた。
(なお、戦時下の映画制作と軍部の関係や、映画会社(『東宝』や『松竹』)にどんな圧力がかけられ、如何なる状況で『陸軍』が作らされたかとういう背景は、『映画の前説』(岩崎昶著、1981年、合同出版刊)の「【陸軍】-木下恵介監督研究1」の項(p-538)に詳しい。)
「この映画によって、私は情報局からにらまれて仕事ができなくなったので、二度と映画監督にはなるまいと腹をきめて、郷里に帰ってしまった。」(前掲『日本映画の80年』)
このへんの事情を描写したものが、もう一つの映画『はじまりのみち』(監督・脚本:原恵一)である。郷里の浜松に帰った後、戦火が地方都市にまで迫ってくる中、山奥の疎開先に病身の母親をリヤカーに積んで移動したというエピソードを描いたものであるが、豪華な配役のわりに、盛り上がりに欠け、《映画としての魅力》はもう一つだった。
木下恵介は、終戦まで映画を作らなかったが、戦後『二十四の瞳』、『喜びも悲みも幾歳月』や『楢山節考』などの人びとの心に残る作品を生み出している。
『陸軍』は「YouTube」で観ることができます。
『はじまりのみち』-公式サイト