ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

聖霊降臨後第19主日

2007年10月13日 | ショートメッセージ
17:05 使徒たちが、
「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
17:06 主は言われた。
「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、
この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、
言うことを聞くであろう。
17:07 あなたがたのうちだれかに、
畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、
その僕が畑から帰って来たとき、
『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
17:08 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。
腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。
お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
17:09 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
17:10 あなたがたも同じことだ。
自分に命じられたことをみな果たしたら、
『わたしどもは取るに足りない僕です。
しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
《ルカ による福音書 17:5-10》




今日の福音書を読んで考えさせられるのは、はたして私たちは、
「自分は信仰がある」と胸をはって言えるでしょうかということです。
「私こそは信仰がある」と言いきれる人はあまりいないのではないでしょうか。
「からし種一粒ほどの信仰でも、本物の信仰であれば、奇跡さえ起こせる」。

今日のイエス様のこの御言葉を聞く時に
「ああ、神様、その本物の信仰を、
からし種一粒ほどでもいいから私たちにもください」
そう叫びたいような気持ちが心からわいてまいります。

私たちの人生や生活というのは本当に困難や不安に満ち溢れています。
そこでは日々悩むことが多く、特に病気や「しょうがい」を抱えてしまうとか、
本当に、辛く、やりきれない思いをすることが多いのです。
そんなこの世界で、もし、私たちに信仰がないのであれば、
どうして生きてゆくことができるでしょうか。

しかし、実は私は、ある意味で言えばですけれども、
人はからし種一粒ほどの信仰も持っていないのではないかと思っております。
どんなに信じようとしたところで、ちょっと病気になったり、
生活の困難に直面したら吹き飛んでしまうような信仰。
どんなに一生懸命祈ってきたとしても、ふっと迷いが生じれば、
すぐに恐れと疑いに飲み込まれてしまうような信仰。
私自身、まったくそのような者でしかあり得ないと思うのです。
皆さんはいかがでしょうか。
そのような時には、こんな嘆きをすることがありませんでしょうか。

「ああ、なんと自分は信仰をもてないのだろう。
信仰だと思っていたものが、なんとに偽物であったことか」

人は、すべてがうまく行っているような時には、
何かそれらしい信仰深そうな顔はできるかもしれません。
しかし、いざ試練となったら、本物の信仰を持つということは、
たとえ「からし種一粒」でも到底無理だという気がいたします。
皆さんも、そのように思われることはないでしょうか。 

本当に信仰薄い私たちです。
しかし、そんな私たちにさえ、
いえ、そんなわたしたちだからこそ与えられる恵みがあります。
実はここが、キリスト教の最もすばらしいところなのです。
そういう、「ダメな」私たちに神さまが直接触れて救ってくださるという
奇跡があるのです。
それこそが教会の持ち続けてきたサクラメントの喜びです。
そして、その中で、一番すばらしい恵みは、
今日皆さんが受ける聖餐の恵みです。
どうぞ、ご一緒にこの聖餐の恵みの内にあって、
本当に神様の救いに与るという素晴らしい経験を分かち合って行きましょう。

司祭 マタイ金山昭夫

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