ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

聖霊降臨後 第21主日

2007年10月21日 | ショートメッセージ
18:01イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを
教えるために、弟子たちにたとえを話された。

18:02「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18:03ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、
『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18:04裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。
しかし、その後に考えた。
『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18:05しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、
彼女のために裁判をしてやろう。
さもないと、ひっきりなしにやって来て、
わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」

18:06それから、主は言われた。
「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18:07まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために
裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18:08言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。
しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
(ルカ による福音書 18章1—8a)



「ある町に神を恐れず、人を人も思わない裁判官がいました。」
これはおそらく、国家などのこの世の権力や権力者の事を言ったのだと思います。
その権力者のもとにかよわいやもめがやってきて、自らの正義を訴えたのです。

このやもめは、貧しく、なんらより頼むような身内もなく、
まったく無力で何の力も持っていなかったのでしょう。
しかし、彼女はただ、神のみをより頼んでいました。
そして、それは「祈り」となって彼女から訴え出ていたのです。

「祈り」
・・・しかし、この世で信仰を生きるということは簡単なことではありません。
現実の社会では、「信仰や正義」といった言葉などは
一笑に付されてしまうことも多いでしょう。
私たちキリスト者であっても、
ただ神との関わりだけで生きてゆくわけにはゆきません。
むしろ、その生活のほとんどを、この世で生きています。
いわば、今日の福音書にあるような「不正な裁判官」と
渡り合って生きているのです。

しかし、私たちが祈り続けるとき、この不正な裁判官にすらこう言わせうるのです。

「わたしは神を恐れない、人を人とも思わないが、
このやもめは、たえず煩わすので、正しい裁判を行おう」

この不正な裁判官ですら、ついにやもめの訴えを聞いて
正しい裁判をしたというのです。
といっても、この判官が、やもめの願いを聞いて、
悔い改めたとは書いてないことにも注意しなければなりません。
不正な裁判官を正義の裁判官に変えることは
私たちの祈りや訴えではできません。
なぜなら、それは人間のできることではないからです。
それでも、その悪い裁判官が、
結果として正義の裁判をするというところに
今日の福音のメッセージの深みがあります。

残念なことですが、権力は、
正義や公正というもので動いていないことはあきらかでしょう。
しかし、それにもかかわらず、祈り、訴え続けるこのやもめの「愚かさ」、
すなわち、パウロのいうように「信仰の愚かさ」を通して、
動かされることもあるのです。
それは私たちの不断の「祈り」によってです。
祈りとには本来こういう力を持ったものなのです。

「神の愚かさは人よりも賢い」(Ⅰコリント1:25)のです。
主はまたこうもおっしゃいます。
「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになる。」(マルコ11:24)

「祈り」の秘儀(Sacrament)とは、
実はこうした究極の「愚かさ」にあるのではないでしょうか。

司祭 マタイ金山昭夫

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