民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。
「他人を救ったのだ。
もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言った。
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人の方がたしなめた。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。
しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、
わたしを思い出してください」と言った。
するとイエスは、
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
【ルカによる福音書23章35-43】
+
今日は従来「王なるキリスト」の主日と呼ばれておりましたし、
諸外国では今でもそう呼ばれております。
日本聖公会では昨年の総会で「回復の主日」と呼ぶという決議がありました。
しかし、正直に言えば「王なるキリスト」が
なぜいけないのか良くわかりませんし、
その決議をめぐる議論には、
今日の福音書が教える「本当の王」とは何かということへの視点が
見失われたまま進んでしまったような気がして残念です。
そこで、今日はあえてこの「王なるキリスト」ということについて
お話をしたいと思います。
福音書が、ここでイエス様は王であると言っても、
それはこの世の王とは違う王なのだということが大前提なのです。
この世の王は上に立って支配する王ですが、
本当の王であるキリストは、
誰からも見捨てられたような世界のどん底に下って行かれて
すべての人をお支えになる王です。
今日の聖書では、そんなイエス様を議員は嘲笑い、兵士は侮辱し、
犯罪人はののしったとあります。
しかし、その自分を嘲笑い、侮辱し、ののしっている、
まさにその人たちを、イエス様はそのまた下に下られて支えておられるのです。
なぜなら、イエス様はこの人たちが、自分を嘲笑い、
侮辱し、ののしっているのは、
本当は彼らが、実はとても弱い存在だということがわかっておられるからです。
私たち人間は自分で自分を救うことなどとても出来ないような弱い存在なのです。
だからこそ救い主が必要なのに、彼らはそれを知らないで、
なんとか、自分で自分を救おうと必死になっている。
議員は権力を頼りにし、兵士は武力を頼りにしています。
そして、犯罪人は他人を傷つけたり、ものを盗んだり、壊したりする、
暴力で、自分を救おうとしているのです。
そして、これは、実は私たちの姿にほかなりません。
だれもが実は弱いから権力や武力や暴力にしがみついているのです。
そんな弱さに気がつかず、この世という泥沼で溺れている私たちを、
イエス様はどん底までへりくだって救って下さろうとします。
たとえ十字架にかけられても復讐することもありません。
ののしり返したり、相手を裁くこともありません。
そして、本当心の底の底から
「神さま、この人たちを救ってください」と祈るのです。
これこそが本当の王です。
私たちの信じているイエス様はそういう王様です。
この世の王にはありえない姿です。
もとより、旧約聖書の定める王は民を護ることが義務であったそうです。
しかし、その神様の戒めを守ることなく、
この世の王を目指している人たちは、
イエス様のような完全に無力な存在を嘲笑い、侮辱し、ののしるのです。
それは、無力を恐れている弱い姿です。
しかし、このイエス様の無力、
どん底で私たちを支えている「十字架」こそが
すべての人を救う王のしるしであるという福音を知ったならば、
この十字架をあがめずにはいられないはずです。
そして、この十字架こそ、私たちキリスト教会の礎なのです。
イエス様の十字架、そして、それに続くたくさんの信仰の先達の十字架が
あるのです。
イエス様や、信仰の先達の犠牲によって、
今日の私たちが新しい信仰の実りを創造してゆくのではないでしょうか。
この箇所は、そうした信仰の根幹にかかわるところなのです。
私たちはイエス様が私たちの弱さをすべて十字架の上で
背負ってくださっていることに感謝したいし、
それによって、本当に安心を与えていただけると信じる。
それが私たちの信仰です。
神さまは私たちを苦しませるためでなく、愛するために創造されました。
もちろん生きてゆく上で苦しみはあるでしょう。
しかし、その苦しみを喜びに変えるために、
王であるイエス様自らがへりくだって、どん底に行って十字架を背負われ、
私たちを支えているのです。
私たちの王とは、そんなへりくだる王なのです。
だから私たちも主にならって、へりくだりたいと思います。
また、すべてを神さまにお捧げして行きたいと思います。
そして、日々の信仰生活において、私たちがこの小さな十字架を背負うことで、
主への感謝の証をささやかであっても示すことができるのではないでしょうか。
司祭 マタイ金山昭夫
「他人を救ったのだ。
もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言った。
「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人の方がたしなめた。
「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。
しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、
わたしを思い出してください」と言った。
するとイエスは、
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
【ルカによる福音書23章35-43】
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今日は従来「王なるキリスト」の主日と呼ばれておりましたし、
諸外国では今でもそう呼ばれております。
日本聖公会では昨年の総会で「回復の主日」と呼ぶという決議がありました。
しかし、正直に言えば「王なるキリスト」が
なぜいけないのか良くわかりませんし、
その決議をめぐる議論には、
今日の福音書が教える「本当の王」とは何かということへの視点が
見失われたまま進んでしまったような気がして残念です。
そこで、今日はあえてこの「王なるキリスト」ということについて
お話をしたいと思います。
福音書が、ここでイエス様は王であると言っても、
それはこの世の王とは違う王なのだということが大前提なのです。
この世の王は上に立って支配する王ですが、
本当の王であるキリストは、
誰からも見捨てられたような世界のどん底に下って行かれて
すべての人をお支えになる王です。
今日の聖書では、そんなイエス様を議員は嘲笑い、兵士は侮辱し、
犯罪人はののしったとあります。
しかし、その自分を嘲笑い、侮辱し、ののしっている、
まさにその人たちを、イエス様はそのまた下に下られて支えておられるのです。
なぜなら、イエス様はこの人たちが、自分を嘲笑い、
侮辱し、ののしっているのは、
本当は彼らが、実はとても弱い存在だということがわかっておられるからです。
私たち人間は自分で自分を救うことなどとても出来ないような弱い存在なのです。
だからこそ救い主が必要なのに、彼らはそれを知らないで、
なんとか、自分で自分を救おうと必死になっている。
議員は権力を頼りにし、兵士は武力を頼りにしています。
そして、犯罪人は他人を傷つけたり、ものを盗んだり、壊したりする、
暴力で、自分を救おうとしているのです。
そして、これは、実は私たちの姿にほかなりません。
だれもが実は弱いから権力や武力や暴力にしがみついているのです。
そんな弱さに気がつかず、この世という泥沼で溺れている私たちを、
イエス様はどん底までへりくだって救って下さろうとします。
たとえ十字架にかけられても復讐することもありません。
ののしり返したり、相手を裁くこともありません。
そして、本当心の底の底から
「神さま、この人たちを救ってください」と祈るのです。
これこそが本当の王です。
私たちの信じているイエス様はそういう王様です。
この世の王にはありえない姿です。
もとより、旧約聖書の定める王は民を護ることが義務であったそうです。
しかし、その神様の戒めを守ることなく、
この世の王を目指している人たちは、
イエス様のような完全に無力な存在を嘲笑い、侮辱し、ののしるのです。
それは、無力を恐れている弱い姿です。
しかし、このイエス様の無力、
どん底で私たちを支えている「十字架」こそが
すべての人を救う王のしるしであるという福音を知ったならば、
この十字架をあがめずにはいられないはずです。
そして、この十字架こそ、私たちキリスト教会の礎なのです。
イエス様の十字架、そして、それに続くたくさんの信仰の先達の十字架が
あるのです。
イエス様や、信仰の先達の犠牲によって、
今日の私たちが新しい信仰の実りを創造してゆくのではないでしょうか。
この箇所は、そうした信仰の根幹にかかわるところなのです。
私たちはイエス様が私たちの弱さをすべて十字架の上で
背負ってくださっていることに感謝したいし、
それによって、本当に安心を与えていただけると信じる。
それが私たちの信仰です。
神さまは私たちを苦しませるためでなく、愛するために創造されました。
もちろん生きてゆく上で苦しみはあるでしょう。
しかし、その苦しみを喜びに変えるために、
王であるイエス様自らがへりくだって、どん底に行って十字架を背負われ、
私たちを支えているのです。
私たちの王とは、そんなへりくだる王なのです。
だから私たちも主にならって、へりくだりたいと思います。
また、すべてを神さまにお捧げして行きたいと思います。
そして、日々の信仰生活において、私たちがこの小さな十字架を背負うことで、
主への感謝の証をささやかであっても示すことができるのではないでしょうか。
司祭 マタイ金山昭夫