ルクノス ~ともし火~

日本聖公会 北関東教区 宇都宮聖ヨハネ教会のブログです。

降臨節第1主日

2008年01月23日 | ショートメッセージ
人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、
めとったり嫁いだりしていた。
そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。
人の子が来る場合も、このようである。
そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
だから、目を覚ましていなさい。
いつの日、自分の主が帰って来られるのか、
あなたがたには分からないからである。
このことをわきまえていなさい。
家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、
目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
だから、あなたがたも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである。」
【マタイによる福音書24章37-44】



人生は予期せぬ出来事に充ち満ちています。
だから一般的に人は「平穏=幸せ」と考えてしまうのかもしれません。
しかし、本当のところは、神様の歴史、神様の時間とは、
もともとから予期せぬものなのです。
だから、今日のイエス様のおっしゃる
「目を覚ましていなさい」というメッセージが
わたしたちにとって意味のあるものとなるのです。

36節に「その日、その時は、だれも知らない。
天使たちも子も知らない。ただ父だけがご存じである」
まさに、神様の時間は、天使や、子であるイエスさまであっても知らないのです。
「神のみぞ知る」ということです。
こうした、神様のさだめた時間について、どんな時なのかということは、
時間を表す二通りギリシャ語「クロノス」と「カイロス」の使い分けが
大きなヒントを与えてくれます。

ここで、イエスさまが語る時間とは、後者の「カイロス」を意味しています。
前者のクロノスの時間とは、計ったり、数えたりすること、
いわば数量化できることのできる時間を指します。
同質化された時間ということもできるでしょう。
しかし、私たちが生きている時間には、
もう一つの時間、重みの違う時間、質的に異なる時間があるのです。
それがカイロスというギリシャ語の指している「時間」なのです。

しかし、本来カイロスであるはずの時間さえも、
計算されて、図られ、見積もられ、
同質化されているのが現代の競争社会であり、
私たちは時間におわれてストレスをため込んでしまうことになります。
仕事を意味するbusinessはbusyから来ています。
「仕事」とは「忙しいこと」という意味です。
日本語でも忙しいとは、「心が亡くなる」という意味でしょう。
しかし、本来神の時であるカイロスとは、
差異化・個性化された時間で生きる事です。
それぞれの賜物であり、自分自身に与えられた「固有の時」です。
自分にだけの大切な時を、自身の人生をもって産みだすような、
そういった時間のことです。

こうして、私たちが「カイロス」の時を生きると、
それは記憶に残る時、いとおしい時が生じます、
それが私たちの人生を形作っていくのです。
「今日も同じ一日」ではないのです。
年齢や場所、あるいは出会った人や物によって時に重みや深みがでるのです。
そして、このカイロスは本人の決断に左右されるものでもあります。

今日の福音書では、
神様は「その時」を「知ること」を大切だとは言っておりません。
むしろ「その時」は私たちにはわからないというのです。
そして、その代わりに「目を覚ましていなさい」というのです。
「目をさましていろ」とは、どういうことなのでしょうか。
単に起きているということではありません。
それは、覚醒していろということ。注意深く待つと言うことです。
何を待てばいいのでしょうか。
それは「人の子がくること」です。
注意深く、心の目を覚まして「救い主、キリストを待つこと」が大切なのです。

私たちは、ただ、クロノスの数えられる時間を過ごすだけでは、
本当の深い出会いや、感動はありません。
そこでは神様の導きは働かなくなってしまい、
自分の魂と出会ったり、他者と出会ったり、
キリストと出会うことを出来なくしてしまうのです。
私たちは「目覚めて」いるでしょうか。
どちらの時間を生きていると主の前で言えるでしょうか。
救い主が私たちの内に来て下さることを、
本当に待つことができているでしょうか。
神様の時であるカイロスを生き、神様の働きに、
希望を抱いて日々の信仰を持って歩んでいるでしょうか。

今年も降臨節に入りました。
神様の時に目覚め、神様と伴なるような時を過ごしましょう。
そこには平安と感謝と喜びがあります。
主なるキリストが私たちの内に来て、共にいて下さいます。
罪ある私たちの体に人生に、罪をあがなうキリストが戻ってきて、
それを埋めて下さるのです。贖い続けて下さるのです。
まさに、私の罪、私の愚かさ、私のいたらなさを、
キリスト自身が埋めて下さる。
私たちはそのままなのに、キリスト自身が贖って下さるのです。
だからこそ、キリストが私たちの内に生きて、
働いて下さっていることに、目覚めていたいと思うのです。
そして、それは私たちの命が生き生きと、神の時を刻むことであり、
そこに私たちの人生が「永遠の命」に与ることになるのです。

主の降臨を待ち望むこの季節を、
救い主であるキリストが私たちの内に生きて、
働いて下さっていることに、心をとめて、注意深く目覚めていたいと思います。

司祭 マタイ金山昭夫