1ヶ月前、渋谷で映画「正欲」を視た。稲垣吾郎主演という事で興味ある映画だった。
ただ、視る気になったのは予告編見て新垣結衣演じる夏月のコトバにココロが抉られたから、だ。
https://www.youtube.com/watch?v=22msGDqxVaU
これ視て、この映画オレは絶対視なければならないと思った・・視た。
喰らいまくった、映画視た後、拳を振り上げ泣きそうになってた。暫く動けなかった(T_T)
自分の中に潜んでいる何かが起き上がるのを感じた。怖かった。
そして今度は朝井リョウによる原作を読んだ。読み終わった後、放心。
映画同様、喰らいまくった。揺れた。その揺れは未だ止まらない。
映画視て原作を読んで感想を書いてみようと思った。
何を書いても、あの揺れは表せない。ウソになる。
でも・・あの時自分の中で起き上がったモノが何かハッキリしたい。
何とかしてコトバにしてみよう。何のために?自分のために、だ。
(物語)
広島で働く夏月(新垣結衣)はある特殊な性志向を持ち疎外感を感じて生きている。
それは中学の時の同級生佳道(磯村勇斗)、横浜の大学生大也(佐藤寛太)も同じ。
大也と同じ大学に通う八重子(東野綾香)はある性的なトラウマを抱えていた。
4人とも普通の人とは違う自分に悩み葛藤し孤独を抱えて生きていた。
一方、検事啓喜(吾郎さん)は「普通であること」に拘って生きて来た。
だから不登校となりYouTube配信に熱中する息子と熱心に応援する妻が理解できない。
広島に帰郷した佳道は夏月と再会し共に生きる事を決心。偽装結婚して横浜に引っ越す。
思わぬことから大也、啓喜と係り物語は急展開する。
先ず、主演5人は素晴らしかった!
ガッキーのTVドラマやCMとは異なる投げやりな表情、獣の様に食事する様。
磯村クンの全てを諦めた眼。僧の様な佇まい。
佐藤クンの怜悧な存在感、東野嬢の小動物の様な弱さと追い詰められた時の強さ。
そして吾郎さんの頑なさ。全てが素晴らしかった。
また、性を表す水の表現も素晴らしかった。
ここまで書いて気づいた。オマエが書きたいのはコレか?コレをホントに書きたかったのか?
違うだろ?
映画視終わったときに感じた震え。泣きながら拳を振り上げて、でも降ろした。
原作を読み終わった後、呆然自失とした。。あの瞬間感じたことを書きたいんだろ?
演技論とか映像表現とかフツーの映画論書いてどうする?
オマエ自身の事を書かないと映画視た後の揺れに対して決着がつかないんじゃないか?
そう、そこを書かないとどうにも決着がつかない。だから書いてみる。
4人はフツーでない自分がフツーの社会で生きることに孤独や痛みを感じている。
他人に理解してほしいワケじゃない。ただ自分の想いを誰とも分かち合えない事に哀しみを感じてる。
正直、ボクには4人の痛み、特に夏月、佳道の孤独は分からない。
彼等の性志向は理解できないし共感もできない。できるなんて言ったらウソだ。
でも、彼等が抱える「世界に対する違和感」は。。自分も似た様な感覚がある。
(大也に「理解者ぶるな」と怒鳴られそうだが(^^;)
ボクは子供の頃から周りから「フツーじゃない変わってる」と言われ続けて来た。
学校時代、社会人、大人になっても必ずそういうヒトが周りにいた。
それを言われる度にボクは焦った。ボクは自分が「フツー」と思ってたから。
ただ、少し人より遅い・出来ない・ワカラナイ。それだけの事と思ってた。
でも、そうじゃないようだ。周りはオレをフツーとは認めてくれない。
世間に合わせてフツーに生きねば。フツーのニンゲンとして社会に順応せねば。
そう思って周りに話を合わせ浮かない様に必死に生きて来た。
でもその努力は無駄だった。どんなに頑張っても何処に行っても必ず誰かに「変わってる」と言われる。
しかも明らかにバカにされてた見下されてた。オレ何も悪い事はしてないのに。なんでよ?
世界は自分に優しくなかった。何処に行っても誰と居ても居心地が悪かった違和感だらけだった。
SNSを始めて同じアーティストを応援する人と友人になってその違和感は消えた。
その人達はボクと言うニンゲンを面白がってくれた。そして家族が出来て落着いた。
「マジョリティ(多数派)」に自分が属して安心できたから落着いたワケじゃない。
自分という存在を否定しないヒト達に逢えた。自分にも「生きる理由」が出来た。
それで・・・落着けたのだと思う。
でも、SNSも少し付合いを広げると、また「キミはフツーじゃない変わってる」という輩が登場した。
そいつ等は明らかにボクを馬鹿にしてた見下してた。昔、会った奴等と同じだ。
オレはフツーじゃないのかな?でも、じゃぁ他人に対して簡単に「フツーじゃない」というキミ等は何だ?
キミ等はフツーなのか? そいつ等と袂を別った現在(いま)でもその疑問は残っている。
「フツー」ってなんだ?キミは、ボクは「フツー」なのか?
フツーじゃないって言われ続けて来たボクが4人を視た時・・・違和感はなかった。
何度も書くが彼等の性志向を理解はできないし共感もしない。
ただ、4人を視て「こういうヒトもいるだろう」と思った。「変態」とも「キ●ガイ」とも思わない。
彼等の性志向を否定する気にはならない。
別にこういうヒトがいてもイイ。犯罪やモラル違反さえ起こさなければ居たってイイんだ。
もし、この4人の存在が否定されるなら「フツーじゃないオレ」も居ちゃダメという事になる。
それは困る。オレは生きていきたい。この世界で。家族と友人と何とか。
映画の最期・原作の最期。夏月と啓喜は対峙する。その時、夏生はこういう。
「生きるために必死に選んだ道を有り得ないって簡単に片づけられた事ってありますか?」
このコトバ・・滅茶苦茶喰らった。嘗て、オレも似た様なコトバを浴びせられた。
自分が大事にしているモノ、自分が抱えてきた痛みをある人物に一言で片づけられた。
それを思い出してココロが破裂した。抑えようもないモノが湧き上がって来た。
映画は此処で。。。。。。。。。。。。。終わる。
Vaundy「呼吸のように」が流れる中、オレはひたすら泣いていた。拳を握り宙を叩いていた。
この歌チャンと聴きたかったのに、それ処じゃなかった。
自分の中で何かが起き上がるのを感じていた。それが怖かった。怖くてまた泣いた。
此処まで感想を長々と書いたが、あの時感じた感情の正体は未だワカラナイ。
自分の中で起き上がったモノの正体が何だったのか、もつかめない。
「フツーでない」と他人をバカにし排除する者への怒りか?いや、何か違う。
もう1度映画を視て確かめたい気もするが。。ハッキリさせるのが怖い。
ただ、こうやって書いてるうちに決めたことがある。
オレに4人の痛みや孤独なんて分かりっこない。寄り添うなんて出来るワケない。
それは4人が特殊だからじゃない。フツーのヒトにも同じ事を感じる。
他人の傷や孤独なんてワカンナイ。他人なんだからオレじゃないんだから。
でも、フツーのヒトもフツーではないヒトも色んな疵や痛みを抱えている。
それは何となくわかる。オレもそうだから。
オレはキミ達には何もできない。できるなんて言ったらそれは思い上がりだ。
そして、オレが何かしてもキミ達には迷惑なだけだろう。だから、しない。
でも、オレにも出来ることはある。
もしキミ達が自分の秘密を他人に話して、そこにいる全員が笑っても・・
オレは笑わない。
フツーのヒトがフツーを盾にしてキミ等を貶めようとしたらオレはソイツ等を軽蔑する。
逆にフツーでないキミ達がフツーのヒトに対して勝手に決めつけ見下しバカにするなら
オレはキミ達を好きになれない。友達にはなれない。
これがオレに出来る事だ。ずっと「フツーじゃない」と言われてきたオレの選択がこれだ。
何度でも言う。夏月、佳道、大也、八重子、そして啓喜。
キミ等は居ていいんだ。当然だ👍
この世界がキミ等にとって息がしやすい場所になる様に希う。
そして、オレもいるよ此処に。このコ達と一緒にV(^^)