僕と猫のブルーズ

好きな音楽、猫話(笑)、他日々感じた徒然を綴ってます。
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長い12月に

2023年12月31日 | 日記

毎年恒例1年をウダウダと振返る(^^;
今年は色々あったな。基本的に楽しく過ごせた。
参加したLIVE、視た映画・ドラマどれも素晴らしい体験だった。
元春「今、何処?」ツアーは勿論、16年ぶりにCoccoを視て....ひたすら泣いた。
映画「正欲」ドラマ「いまいちばん好きな花」を視て自分自身と向い合い色々考えこんだ。
一方で音楽を通して長年抱えて来たトラウマとやっと決着を付けることが出来た。
長かったな。ホント長かった。ようやっと、これで次に行ける(^_^)

一方で仕事は.....上手く行ったとはいえない。色々変えようと頑張ったがムダだった。
何も変えられなかった。仕事終いの日、自分の無力に怒り泣き叫んだ。
家事も相変わらず下手なまま。仕事の疲れも取れず疲れてカラダは衰える一方だ。
そして社会もどんどん悪くなる。戦争がまた起こりジャニーズ性被害、政治不正。
悪いニュースに触れる度に心が塞ぐ。暗い気分が残る。

でも、それでもこの1年は善い1年だったと云いたい。胸を張って云いたい。
だってオレ無事生き残った生き延びた。家族も、友人も。それで十分だ。

来年は秋に定年を迎える。それに伴い収入も減る。好きなLIVEや展覧会も減らす必要がある。
それは仕方ない。別の楽しみを見つけるしかない。少しだけやり方を変えてみるさ☆

1年の終わり。好きな歌を聴いた。
 ´私は考える 私は愛を知っていたかと´(寺尾紗穂・冬にわかれて「朝焼け」)
   ´こんな僕でも 誰かを愛して 嘘じゃないまま  夢を見ていたい´(高橋幸宏「幸福の調子」)

これを聴いて泣いた笑った。🐱を抱きしめた。そしてココロが晴れた。
色々あった1年だがオレには愛する家族がいる友人がいる。好きな音楽、アートがある。
来年変わったとしても何も終わらない。変わったなら、またその場所で吠えて暴れるだけだ🤣

今年も1年お世話になりました。皆さんとのお喋りに何度救われたかワカリマセン。
その事にただただThanksです<(_ _)>
今年は、皆さんにとって善い1年でしたか?それ程でもなかったですか?
色々あったでしょう。ボクも色々ありました。
でも、無事生き残った自分を誉めてあげましょう。生きてる、それだけで上等です(^_^)
来年もともかく無事でいてください生きていてください。
そして・・・来年こそ是非一緒に呑んでカンパイしましょう。

では、どうぞ皆さん良いお年を!
(来年に向けてヨモちゃんパ~ンチを送ります。イイ子イイ子♬)

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視えない者と生きてゆく~寺尾紗穂・上野ゆくい堂LIVE1223

2023年12月29日 | 寺尾紗穂

12月は毎年元春ロッキンクリスマスとcarnationのLIVEに行くけど元春はチケット取れず🤣
カネは今年は年末Liveはなく来年1月に開催。という事で寺尾紗穂Liveに行きました。
クリスマスイブイブに家族を放ったらかしてLiveに行くワシ(^^:
会場は上野ゆくい堂。工房をライブハウスに改造した場所。
30分前に会場に着いたけど、既に多くの人が並んでる。

入場し何処に座るか散々迷って右手、寺尾さんを後ろから観る位置に座る。
立ち見まで出て盛況。
予定より少し遅れてLive開始。最初の曲は「道行バス」?(間違ってるかも^^;)

全編ピアノ弾き語り。そして想像どおり「クリスマス感」皆無のLiveでした。
クリスマスソングを歌ったりクリスマスらしい演出もなし。
歌うは生と死、別れ、社会に生きる小さな命。生きる者、視えない者。
いつも通り。でも、それが凄く善かった。

政府が武器輸出を独断で決めたことに抗議の意志を込めた「狂女」と「シューシャイン」。
声高ではないが凛とした声に背筋が伸びた。
「残照」「富士山」のピアノのオトにココロと同時にカラダが震えた。
夏、「冬にわかれて」のLiveでは音楽って音が空間を震わせて鳴ると感じた。
この日のLiveではオトがカラダを震わせるのだ・・・と感じた。
寺尾さんの声もピアノの音色も描く世界も美しい・・・暴力的なまでに。
前半最後はGEZAN「エンドロール」のcover。このcoverLIVEで視たかった。
その夢が叶った。「だから僕ら旅を続けなくちゃ 永遠を此処で超えるんだ」にひたすら泣いた😿

後半は「夕刻」から開始。あるファンのエピソードを元に描いた「骨の姉さん」。
どちらの歌も描くは「死」。ヨモちゃん🐱の事を考えて涙が止まらない。
後半、「歌の生まれる場所」を演奏する前に寺尾さんはこの歌が生まれる切っ掛けを話した。
各地でLIVEをしてると、会場にお客さん以外の者が集まっているというヒトが居る。
いわゆる「視えるヒト」。そのヒト達は「お爺さんが寺尾さんの歌で踊ってたし河童もいた」
更には「人間だけではホール満員じゃないがそれ以外の者で満員になってた(笑)」
決してスピリチャルな話とかでなく極く日常のこととして笑って話す寺尾さんをステキと思った。
そして歌われた「歌の生まれる場所」。先ほどのエピソードが歌詞に織り込まれている。
 ´目にみえないものも一緒に手をたたく´ ´あちらに棲むものたちの心も踊り出す¨
また寺尾さんはこうも歌ってる。
  ´ どうせぼくらは変わらないし変われない そう言うあなたに一番綺麗な夕焼けをあげよう¨
  ´ この世界の何も信じられない そう言うあなたに一番綺麗な夕焼けをあげよう¨
変われない、何も信じられない・・・これオレの事だ。
色々変えようとやってみるが何も変わらない。
ゴミを拾ってもゴミは減らない。SNSの誹謗中傷に咬みついても人は悪口を言う事を楽しむ。
オレが東北の事を一生懸命書いても多くの人は311を忘れてる。
オレは無駄なことを一生懸命やってる。何も変わらないのは分かってるのに。
そして家族と友人以外は信じてない。他人と深く付き合うと傷つくだけ。信じない方が楽だ。
そんなオレでも・・・・いつかは綺麗な夕焼けを視れるんだろうか?そう思って泣いた😿

アンコール。原田郁子の「青い闇をまっさかさまにおちてゆく流れ星を知っている」cover。
これも好きな曲だ。
そしてオーラス。客席のリクエストで「楕円の夢」を。
この曲、LIVEで聴くのは久しぶり。寺尾さんは歌う。
「そんなあいまいを生きていく」
「明るい道と暗い道の狭間にある小さな道を行く」
これも聴いてて解放された。
現在の世の中、性急に何でもハッキリ決めたがる人がいる。
声を上げろ!意見をハッキリ言え!白か黒か決めろ!あいまいなのはダメだ!
彼等は正しいし彼等の意見も、きっと・・・正しいんだろう。
そうしなくちゃ世の中は正しい方向に進まないんだろう。

でもオレはそんな直ぐに決められない。
自分がどっちにいるなんてワカンナイし決められない。
声を上げるならどう言うか何を言うか何度も考える。決められないときは黙る。
そして決めても声を上げても「これで善かったのか」と悩み続ける。
ずっと曖昧な気分を引きずったまま生きてる。
寺尾さんのこの歌はそんな自分を肯定してくれてる気がした。(自分勝手な解釈だ🤣
Live終わった後、凄くシアワセな気分だった。

帰りの電車の中、「歌の生まれる場所」を想い起こしていた。
視えない者、生きてない者がLIVE会場に来てるか。。。ステキだな。
そうだオレにももう逢えなくなったヒト達がいる。父親、友人、ヨモちゃん🐱
でも視えなくても逢えなくても。。。居るんだな。
オレは生きてるヒトとも共に生きてるが、死んだヒトとも共に生きてる。
そう想うとHappyだった(^_^)


家に帰ると、もなちゃ🐱が甘えてくれてシアワセだった。
今年見る最後のLiveが寺尾さんで善かった。
おかげでサイコーの🎄イブイブを過ごせました。感謝☆

クリスマスイブの日は嫁@パンダが猫のために猫タワーを新調してあげた。
猫は楽しそう、よかったね(創った嫁@パンダは大変だった(^^;)

昨日は仕事終い。終わった後、ボロボロヘトヘトだった。
仕事も色々よくしようとトライしたが何も変わらない。徒労感と空しさしかない。
オレ十分頑張ったよ。もうイイ。テキトーにして頑張るのは止めよう。
夜、Coccoを聴いて泣き叫び拳を振り回してた。
何ヘタレてんだよテメェは?変わらないのはハナから分かってんだよ。
分かってても挑むから意味があるんだろ?いや意味なくてもやるんだよ。
「それでイイのか」「それは違う」「変えるべきだ」
それを言うのがオマエの存在価値だ。オマエはそうしか生きられないんだ。
なら、やれよ。

Coccoを聴いて、何とか立てた。Thanks。
そう、オレはそうしか生きられない。なら、やるしかない。
そうしたら。。。いつかキレイな夕焼けを視れるのかな?こんなオレでも。な🎵

 



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この世界で生きていくための自分の選択~「正欲」を視て読んで

2023年12月24日 | SMAP

1ヶ月前、渋谷で映画「正欲」を視た。稲垣吾郎主演という事で興味ある映画だった。
ただ、視る気になったのは予告編見て新垣結衣演じる夏月のコトバにココロが抉られたから、だ。
https://www.youtube.com/watch?v=22msGDqxVaU

これ視て、この映画オレは絶対視なければならないと思った・・視た。
喰らいまくった、映画視た後、拳を振り上げ泣きそうになってた。暫く動けなかった(T_T)
自分の中に潜んでいる何かが起き上がるのを感じた。怖かった。

そして今度は朝井リョウによる原作を読んだ。読み終わった後、放心。
映画同様、喰らいまくった。揺れた。その揺れは未だ止まらない。
映画視て原作を読んで感想を書いてみようと思った。
何を書いても、あの揺れは表せない。ウソになる。
でも・・あの時自分の中で起き上がったモノが何かハッキリしたい。
何とかしてコトバにしてみよう。何のために?自分のために、だ。

(物語)
広島で働く夏月(新垣結衣)はある特殊な性志向を持ち疎外感を感じて生きている。
 それは中学の時の同級生佳道(磯村勇斗)、横浜の大学生大也(佐藤寛太)も同じ。
 大也と同じ大学に通う八重子(東野綾香)はある性的なトラウマを抱えていた。
 4人とも普通の人とは違う自分に悩み葛藤し孤独を抱えて生きていた。
 一方、検事啓喜(吾郎さん)は「普通であること」に拘って生きて来た。
だから不登校となりYouTube配信に熱中する息子と熱心に応援する妻が理解できない。

 広島に帰郷した佳道は夏月と再会し共に生きる事を決心。偽装結婚して横浜に引っ越す。
 思わぬことから大也、啓喜と係り物語は急展開する。 

先ず、主演5人は素晴らしかった!
ガッキーのTVドラマやCMとは異なる投げやりな表情、獣の様に食事する様。

磯村クンの全てを諦めた眼。僧の様な佇まい。
佐藤クンの怜悧な存在感、東野嬢の小動物の様な弱さと追い詰められた時の強さ。
そして吾郎さんの頑なさ。全てが素晴らしかった。
また、性を表す水の表現も素晴らしかった。

ここまで書いて気づいた。オマエが書きたいのはコレか?コレをホントに書きたかったのか?
違うだろ?
映画視終わったときに感じた震え。泣きながら拳を振り上げて、でも降ろした。
原作を読み終わった後、呆然自失とした。。あの瞬間感じたことを書きたいんだろ?
演技論とか映像表現とかフツーの映画論書いてどうする?
オマエ自身の事を書かないと映画視た後の揺れに対して決着がつかないんじゃないか?
そう、そこを書かないとどうにも決着がつかない。だから書いてみる。


4人はフツーでない自分がフツーの社会で生きることに孤独や痛みを感じている。
他人に理解してほしいワケじゃない。ただ自分の想いを誰とも分かち合えない事に哀しみを感じてる。
正直、ボクには4人の痛み、特に夏月、佳道の孤独は分からない。
彼等の性志向は理解できないし共感もできない。できるなんて言ったらウソだ。
でも、彼等が抱える「世界に対する違和感」は。。自分も似た様な感覚がある。
(大也に「理解者ぶるな」と怒鳴られそうだが(^^;)

ボクは子供の頃から周りから「フツーじゃない変わってる」と言われ続けて来た。
学校時代、社会人、大人になっても必ずそういうヒトが周りにいた。
それを言われる度にボクは焦った。ボクは自分が「フツー」と思ってたから。
ただ、少し人より遅い・出来ない・ワカラナイ。それだけの事と思ってた。
でも、そうじゃないようだ。周りはオレをフツーとは認めてくれない。
世間に合わせてフツーに生きねば。フツーのニンゲンとして社会に順応せねば。
そう思って周りに話を合わせ浮かない様に必死に生きて来た。
でもその努力は無駄だった。どんなに頑張っても何処に行っても必ず誰かに「変わってる」と言われる。

しかも明らかにバカにされてた見下されてた。オレ何も悪い事はしてないのに。なんでよ?
世界は自分に優しくなかった。何処に行っても誰と居ても居心地が悪かった違和感だらけだった。

SNSを始めて同じアーティストを応援する人と友人になってその違和感は消えた。
その人達はボクと言うニンゲンを面白がってくれた。そして家族が出来て落着いた。
「マジョリティ(多数派)」に自分が属して安心できたから落着いたワケじゃない。
自分という存在を否定しないヒト達に逢えた。自分にも「生きる理由」が出来た。
それで・・・落着けたのだと思う。
でも、SNSも少し付合いを広げると、また「キミはフツーじゃない変わってる」という輩が登場した。
そいつ等は明らかにボクを馬鹿にしてた見下してた。昔、会った奴等と同じだ。
オレはフツーじゃないのかな?でも、じゃぁ他人に対して簡単に「フツーじゃない」というキミ等は何だ?
キミ等はフツーなのか? そいつ等と袂を別った現在(いま)でもその疑問は残っている。
「フツー」ってなんだ?キミは、ボクは「フツー」なのか?

フツーじゃないって言われ続けて来たボクが4人を視た時・・・違和感はなかった。
何度も書くが彼等の性志向を理解はできないし共感もしない。
ただ、4人を視て「こういうヒトもいるだろう」と思った。「変態」とも「キ●ガイ」とも思わない。
彼等の性志向を否定する気にはならない。
別にこういうヒトがいてもイイ。犯罪やモラル違反さえ起こさなければ居たってイイんだ。
もし、この4人の存在が否定されるなら「フツーじゃないオレ」も居ちゃダメという事になる。
それは困る。オレは生きていきたい。この世界で。家族と友人と何とか。

映画の最期・原作の最期。夏月と啓喜は対峙する。その時、夏生はこういう。
「生きるために必死に選んだ道を有り得ないって簡単に片づけられた事ってありますか?」
このコトバ・・滅茶苦茶喰らった。嘗て、オレも似た様なコトバを浴びせられた。
自分が大事にしているモノ、自分が抱えてきた痛みをある人物に一言で片づけられた。
それを思い出してココロが破裂した。抑えようもないモノが湧き上がって来た。
映画は此処で。。。。。。。。。。。。。終わる。
Vaundy「呼吸のように」が流れる中、オレはひたすら泣いていた。拳を握り宙を叩いていた。
この歌チャンと聴きたかったのに、それ処じゃなかった。
自分の中で何かが起き上がるのを感じていた。それが怖かった。怖くてまた泣いた。

此処まで感想を長々と書いたが、あの時感じた感情の正体は未だワカラナイ。
自分の中で起き上がったモノの正体が何だったのか、もつかめない。
「フツーでない」と他人をバカにし排除する者への怒りか?いや、何か違う。
もう1度映画を視て確かめたい気もするが。。ハッキリさせるのが怖い。

ただ、こうやって書いてるうちに決めたことがある。
オレに4人の痛みや孤独なんて分かりっこない。寄り添うなんて出来るワケない。
それは4人が特殊だからじゃない。フツーのヒトにも同じ事を感じる。

他人の傷や孤独なんてワカンナイ。他人なんだからオレじゃないんだから。
でも、フツーのヒトもフツーではないヒトも色んな疵や痛みを抱えている。

それは何となくわかる。オレもそうだから。
オレはキミ達には何もできない。できるなんて言ったらそれは思い上がりだ。
そして、オレが何かしてもキミ達には迷惑なだけだろう。だから、しない。

でも、オレにも出来ることはある。
もしキミ達が自分の秘密を他人に話して、そこにいる全員が笑っても・・
オレは笑わない。
フツーのヒトがフツーを盾にしてキミ等を貶めようとしたらオレはソイツ等を軽蔑する。
逆にフツーでないキミ達がフツーのヒトに対して勝手に決めつけ見下しバカにするなら
オレはキミ達を好きになれない。友達にはなれない。

これがオレに出来る事だ。ずっと「フツーじゃない」と言われてきたオレの選択がこれだ。
何度でも言う。夏月、佳道、大也、八重子、そして啓喜。
キミ等は居ていいんだ。当然だ👍
この世界がキミ等にとって息がしやすい場所になる様に希う。
そして、オレもいるよ此処に。このコ達と一緒にV(^^)

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