新幹線100系168形式 二階建て食堂車
168形 (T'dd)
売店(1階)と食堂(2階)を備える2階建て中間付随車。 8号車に連結した2階建て食堂車。2階が客席、1階がキッチンという構成で、大きな窓からの見晴らしを楽しみなながらの食事はメニューがグレードアップされたこともあって、順番待ちができるほど好評でしした。食事を楽しむためこの車両が連結された列車に乗車する人もおおかったとか。
X編成1985年から1987年に落成した100系初の編成。先頭車と2階建車両各2両の計4両が付随車である。2階建車両は8号車と9号車に組み込まれ、8号車は食堂車、9号車は階上がグリーン車・階下がグリーン個室(1人用5室、2人用3室、3人用1室)でした。
新幹線食堂車:1964年開業の東海道新幹線では、東京 - 新大阪間を当初は「ひかり」で4時間、「こだま」で5時間、翌年より約1時間短縮されそれぞれ3時間10分・4時間程度と運転時間が短く0系電車では本格的な食堂車の連結は見送られ、12両編成中に35形ビュフェ・普通合造車を2両連結して営業した。ビュフェ部はテーブルと回転椅子を装備した着席式で、メニューの上でも比較的食堂車に近い機能を有していた。
大阪万博を翌年に控えた1969年夏ごろより輸送力増強を目的として16両編成化されたが、「ひかり」編成と「こだま」編成に分離し「こだま」編成では5号車を売店車(25形400番台)に差し換え、以降「こだま」用編成はビュフェ1両が正規となった。
1972年の山陽新幹線岡山暫定開業時も、引き続き食堂車の連結は見送られた、
1975年の博多開業に際して、最速の「ひかり」でも所要時間が6時間以上となるために、1974年より既存のひかり編成に36形食堂車が組み込まれることとなり博多開業を前に一度に96両が製造された[28]。新幹線では車体長が在来線より5m長く幅も50cm広いことから、在来線の設計を基本にしながらも食堂内の山側は4人掛け海側は2人がけのテーブル設置とし、山側に独立した通路を設け通り抜ける乗客と食堂車利用者の分離を図った。1976年の22次車では狭窓に設計変更された1000番台区分が3両追加増備され、36形は計99両が製造された。また、同時にビュフェ車は立食式の簡易形に設計変更された37形に移行した。
1985年にデビューした100系電車では、食堂車は2階建車両で2階は客席、1階は厨房と売店と通り抜ける乗客の通路とした168形を組み込んだX編成として製造された。しかし、1987年の増備車からはスピードアップにより食堂車利用客が減少しつつある状況を踏まえて、食堂車から1階をカフェテリア、2階をグリーン車とした148形を組み込んだG編成に移行した。ただし、1989年から西日本旅客鉄道(JR西日本)が製造したグランドひかり用V編成では、東京 - 博多間での営業運転が主体となるため再び168形食堂車とした組成に変更された。
全盛期には、定期列車の「ひかり」では全列車食堂営業が行われていた。一部列車ではグリーン車へのシートサービスも試みられていたが、カフェテリア車により食堂営業は縮小に転じた。さらに1992年の「のぞみ」運転用に開発された300系電車では食堂車が製造されなかったこと。1995年には0系「ひかり」食堂車は営業休止となり、2000年には100系食堂車の営業も終了し、東海道山陽新幹線での歴史に幕を閉じた。
またこれとは別にJR化後の1988年3月13日ダイヤ改正で運転が開始された「ウエストひかり」では、旅客需要の小さい山陽新幹線を運営するJR西日本が、航空会社との競合が激しい京阪神 - 北九州市・福岡市間での運転で最も売り上げを見込まれたことから、サービス政策上ビュフェを営業することとなった。これには0系37形のビュフェ室を拡大し椅子とテーブルを設置するなどの大幅なアコモ改良を行い投入した。しかし、2000年に「ひかりレールスター」へ発展的解消をとげ運転ならびにビュフェの営業を終了した。
1982年開業の東北新幹線・上越新幹線では運転時間が短いため237形ビュフェ車のみとしたが、2003年に営業を終了した。また、100系同様に2階建車両も製造されたが、200系電車では食堂車は製造されずカフェテリア車の248形とされた。
これら新幹線でも営業終了の理由は在来線と同様なもので利用率低下があったほか、次にあげる要因がある。
1.スピードアップによる乗車(所要)時間短縮などの状況を踏まえ、JR各社も不要と判断しており後継車両に食堂車・ビュフェ車が製造されなかった。
2.首都圏 - 九州間のように1,000kmを超える長距離移動では航空機利用が一般化したため、食堂車利用につながる長距離移動の需要も激減した。
営業担当業者は、博多開業の時点で日本食堂・ビュフェとうきょう(ジェイダイナー東海→現・ジェイアール東海パッセンジャーズ)・帝国ホテル列車食堂・都ホテル列車食堂の4社が担当していたが、上越新幹線開業で聚楽が、JR化後に運転開始された「ウエストひかり」で丸玉給食・にっしょく西日本(→Jウェストラン→現・ジェイアール西日本フードサービスネット)が新たに加わり合計7社が食堂営業を行っていた。当時の時刻表には列車ごとに担当の会社が記載されており、また一部では、ステーキやカレーなど一部の特化メニューによって営業を行う事例も見受けられた。
東海道・山陽新幹線
0系・100系ともに16両編成の8号車が食堂車とされた。これは以下の理由によるものである。
編成の中間で両先端からの利用客を考慮したため。
最大運転時間6時間以上のため、調理のみならず食器も洗うために水も大量に必要となる。そのための排水溝(ピット)が名古屋駅と岡山駅のホーム上の8号車停車位置の真下に設置されたため。
在来線であれば汚水は走行中に外へ捨てていたが、運転速度の速い新幹線では気密上の問題からもこのシステムを採用できない。
トイレでは汚水を浄化し、洗浄水として再利用するシステムが開発されたが、食堂車では衛生上の問題から再生水は利用できない。そのため汚水を床下のタンクに溜め込み、途中駅での停車中に汚水を排水する方法が採用された。
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