令和3年3月11日(晴れ)
今日は野菜の播種を一寸やりまして、野菜の苗に追肥をしました。キャベツなんかは凄く良い出来なんですが、前から掲載しているようにトマトとナスの生育が今一思わしくなくて今日、追肥をしてみました。此れで勢いが付けば良いですけどね。
では、掲題です。10年前、自分はある複合ビルで情報ネットワークシステムをシステム更改していて東京からメーカーのエンジニアを呼んでシステム更新の最中に、全員の携帯電話が一斉にアラームを鳴らし始めて皆、聞いたことのないアラームで目を見合わせていたら、衝撃の揺れが始まって立っていられませんでしたね。そこで皆に柱の周辺に集まるように言って揺れが収まるのを待ちました。このビルは建設の途中から自分が関わっていて耐震は例をみないほどに完璧だという事は知っていましたので、メンバーには「このビルは耐震がしっかりしているから出ないように」言って落ち着かせました。このビルは外壁がガラスで揺れで割れて飛び散るかと思いましたが、流石、油圧ジャッキ免振が効いて一枚のガラスも割れなかったのは、想定以上に自分もびっくりしました。その後はメーカーの社員たちの面倒を見なくてはならず、コンビニやスーパーには食料が全く無くて食料の調達、宿泊場所の確保と帰京の手配です。当然自分は責任者なのでこの対応をしましたが、自分は守衛さんと仲が良かったので災害用の毛布を頂いて寝床はサーバ室しました。食料はやはり、守衛さんから非常食を分けて頂いて対処しました。この時ほど、人とは仲良くしておくものだと感じたことはありません。
一度、自宅に戻って被害状況を見たんだけど、3Fは本棚は倒れてあちこちの隅に移動していて、本などはめちゃくちゃに散らばっていましたけど、普段誰も居ないんで片付ければ良いだけでした。1Fや2Fは食器は多少割れたようですけど家人にケガはなかったのが幸いでした。食料は調達できないというか、購入は出来ないのですが備蓄で凌げました。幸いなことに水道は水源が山なので水は出ました。ガスは地域集中プロパンなので使えました。なので調理は出来るので備蓄食料で凌げたのは幸いでした。電気は無いので車からカーナビを外して来てtvを見ました。照明は結婚式で使った大きな蠟燭があったのでそれで灯を確保したんですが、妻が凄く嫌がったのは心に棘です(笑)。
その後は、被災地域の沿岸部に支援で派遣されて、36時間勤務、1休の勤務が数か月続きましたかね?語れば、かたりつくせないことが沢山あります。今でも思い起こせば沿岸部のあの悲惨さは凄かったですね。
あれから10年。
被災地は復興が進み、当時の面影が全くなくなりましたね。良い事なんでしょうね?
ただ、酔っ払い爺は毒を吐きたくなってきました。でも、今回は毒を吐きませんよ。今回の自分の毒は全国から袋叩きに合う可能性があるんで、いくら酔っぱらっても吐きません。でも、毒はタップリ溜まっています。
今日はテレビを見ていませんが、東北大震災の番組ばかりなのは想定できます。此の悲惨さを忘れないで後世に語り継ごうとでも言ってるんでしょうかね?
当たり触らずの意見を言えば、
⓵今(現実)を見て、過去を断ち切って未来を見ていきましょう。
⓶震災特別所得税(2.1%)はいつまで続くのでしょうか?
⓷被災地は東日本だけではないですよ。
⓸太平洋岸と日本海岸で格差が出来ていますよ。
⓹原発事故は自己責任
言えばキリがないのでこれで辞めます。
今日、バイトに行く途中、知り合いのハウスを覗いたら枯れたねぎがあったので覗いてみました。見た目は枯れていましたが新しいねぎも見えたんで分株ネギで5月頃に出荷するんでしょうか?このハウスは土を入れ替えているようでした。砂ともみ殻の土壌でさらさらしていました。今度会ったら、意図を聞いてみたいですね。
あと、ハウスの屋根が飛ばされた花農家さんですが、サッパリ、修復しないし、播種もしていないような感じで、本人も全然、姿を確認できていないので元気なのか心配です。
バイト先では叔母ちゃん達のアプローチが凄いけど、無視!あと2日で居なくなるので何とか乗り切ろう!
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