1879年(明治12)6月4日 東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となった。
靖国神社は、東京都千代田区にある神社である。本殿に祀られている「祭神」は「天皇・朝廷・政府側の立場で命を捧げた」戦没者、英霊であり、よくみられる神社などのように日本神話に登場する神や天皇などではない。
靖国神社は、1869(明治2)年に戊辰戦争での朝廷方の戦死者を慰霊するため、大村益次郎の献策により「東京招魂社」として創建されたが、この東京招魂社が創建される要因に、明治維新の激動期(嵐)に翻弄された静岡県の神主たちの処遇があったという(以下参考に記載の「靖国神社はなぜつくられたのか」参照)。そこに記載されていることによると、“、明治維新後の軍制改革を進め徴兵令による国民皆兵の軍隊創設を目指していた大村は、制度や兵器を整えるだけではなく、国のために戦死した兵士を天皇自らが霊威・顕彰することが非常に重要である事に気づき、彼は、戦場となった上野東叡山(とうえいざん)寛永寺を没収し、そこに官軍将兵の戦死者を祀る招魂社を建設、官軍に協力した遠州の報国、駿州の赤心両隊の神職が移住奉仕することを提案。すでに長州藩をはじめ各藩で独自に始められていた各藩の国事殉難者の慰霊を、新政府が国家規模で行なおうとする構想のものが、新政府で承認されたが、場所は、戦いの跡が生々しい上野から変更され、皇居に近い九段坂に創建され、戊辰戦争での官軍等戦死者3,588柱が合祀されたという。そして、最終的に報国・赤心両隊各32名計64名の元隊員が東京に移住し、1869(明治32)年11月23日に招魂社の社司に任命されたという。
しかし、前文にも簡単に触れられているように、東京招魂社が出来る前に、つまり、日本初の招魂社は奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩の尊王倒幕志士として活躍した高杉晋作の発議によって創建された櫻山招魂場(現・櫻山神社、1865【慶応元】年8月、山口県下関市)だそうである(以下参考に記載の「桜山神社」参照)。
又、ここにある社司(やしろのつかさ)は、もと府県社および郷社の神職の長。祠官(しかん)の後身で、1946(昭和21)年宮司となった。東京招魂社と称された時期には神官・神職の定めは無かった。例大祭・臨時大祭には卿または将官、招魂式には将官または佐官(将官の下、尉官の上)、その他の祭祀には佐官尉官(佐官の下)が奉仕した。1875(明治8)年以降は例大祭・臨時合祀祭・招魂祭の祭主は陸軍・海軍が隔番で務めていたようだ。1879(明治12)年の改称列格によって官員の祭主は廃され祭典は宮司が行うこととなった。2009(平成21)年現在の宮司は南部利昭平成21年1月7日逝去。現在は後任を選定中)であるが、1879(明治12)年始めて宮司となったのは、青山清である。この宮司のことは、よく判らないようだが、以下参考に記載の「備中處士様の論考」の中の「靖國神社初代宮司・青山清翁遺聞」に詳しく書かかれてある。結論から言うと“江戸時代まで青山上總介長清を名乗っていた萩・椿八幡宮大宮司家の第九代宮司であつた青山清は、白石正一郎や高杉晉作・山縣有朋・伊藤博文たちとのかゝはりの中で、慶應元年8月6日に、下關の櫻山招魂場で、最初の大祭(招魂祭)を擧行。靖國神社は、長州藩の招魂祭から始まつたといはれるが、それは、青山清が櫻山招魂場で奇兵隊士を祭った延長上に上京し、東京招魂社の初代宮司になったことに表れていた。”‥‥とある。
靖国神社で最も重要な祭事は、春秋に執り行われる例大祭である。同神社ではこの当日祭には天皇陛下の使いである勅使が参向(勅祭社参照)し、陛下よりの供え物(御幣物)が献じられ、御祭文が奏上される。
1904(明治37)年日露戦争の開戦にともない、乃木希典は、第3軍司令官(大将)として旅順攻撃を指揮。130日あまりの激戦の末多くの犠牲者(東郷の2児も戦死)を出しながら203高地を占領し、1905(明治38)年1月2日には、辛くも旅順要塞陥落。この報を陸軍省が感動的に発表、日本国民はこぞって沸きに沸いた。予断であるが、この頃マスコミもしきりに戦争を煽る役割を果たしていたことが今日反省されてはいるものの今の時代のマスコミも余り大差ないことをやっているように思われるのだが・・・。
この報道の3日後の1月5日、乃木は、敵将ステッセルとあの有名な水師営で会見をしている。この時の図は前にこのブログの「明治天皇御大葬と乃木希典殉死の日」の時紹介した。ステッセルが旅順を去った後の、同月13日に乃木軍は旅順に入城式を行い、翌・14日、水師営南方の丘陵上において戦没者の招魂祭が行なわれ、乃木は飛雪のなかに立ち、みずから起草した祭文を朗読したという。以下参照。
招魂祭 - 「明治」という国家
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2007/01/post_412.html
また、九段の靖国神社でも、同年5月1日から、乃木第3軍の招魂祭(~2日)、3日から戦没者合祀臨時大祭(~7日)が行なわれた。その光景は、冒頭に貼付の写真左を参照。この日露戦争による戦死者の増大で、この半年間に合祀されたのは3万890人にのぼり、各県から上京した多数の遺族の為に、県別の参拝休憩所を設けて対応したほどだったという。アサヒクロニクル「週刊20世紀」(1905年版)より。【補足:同年3月奉天の会戦(日露両満州軍4度目の激突)に勝利し、日露戦争は終結。】
尚、東京招魂社は、1879(明治12)年に靖国神社と改称しているが、靖国神社の名は『春秋左氏伝』第六巻僖公二十三年秋条の「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を典拠として明治天皇が命名したものだそうである。同年6月16日の「社号改称・社格制定ノ祭文」には「赤き直き真心を以て家を忘れ身を擲(なげう)ちて各(おのおの)も各も死亡(みまかり)にし其(その)高き勲功に依りて大皇国をば安国と知食(しろしめ)すが故に靖国神社と改称(あらためとなえ)」 とあるそうだ(Wikipedia)。
東京以外の地方の招魂社は、この年・1939(昭和14)年4月1日施行の内務省令によって一斉に、護国神社と改称されている。理由は、「招魂社」の「招魂」は臨時の、一時的な祭祀であるが、「社」は恒久施設であり、名称に矛盾があるために改称されたという。また、当初祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたものが、日露戦争後、新たに「英霊」と称されるようになったようだ。このような経緯から、明治末期になっても、靖国神社という名称よりも、招魂社という名で庶民には親しまれていたようで、そのことは、同年(1905【明治38】年)1月、「ホトトギス」に発表した夏目漱石の『我輩は猫である』(以下参考の青空文庫で読める)の中に以下のようなかたちで登場していることをみてもわかる。
幼い3人の娘の中のとん子が突然口を開いて「わたしも御嫁に行きたいな」と云いだした。これにちょっと毒気を抜かれた体の雪江さんに対して、細君の方は比較的平気に構えて「どこへ行きたいの」と笑ながら聞いて見た。そうすると・・・・、
“「わたしねえ、本当はね、招魂社へ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」
細君と雪江さんはこの名答を得て、あまりの事に問い返す勇気もなく、どっと笑い崩れた時に、次女のすん子が姉さんに向ってかような相談を持ちかけた。
「御ねえ様も招魂社がすき? わたしも大すき。いっしょに招魂社へ御嫁に行きましょう。ね? いや? いやなら好(い)いわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ」
「坊ばも行くの」とついには坊ばさんまでが招魂社へ嫁に行く事になった。かように三人が顔を揃(そろ)えて招魂社へ嫁に行けたら、主人もさぞ楽であろう。“と・・・。
この小説は、面白くは書かれてはいるが、当時の情勢にたいして、漱石なりに結構な皮肉を利かしているようだね~。兎に角、今は、首相の参拝問題などで揺れてる神社ではあるが、『靖国』という本によればこの当時としては“超ハイカラな東京名所”だったようだ。以下参考に記載の「自転車文化センター/明治~昭和初期の錦絵に見る自転車のある東京の町並み」
Pの中の東京名勝 九段坂上靖国神社 25.明治39年 26大正2年など見られると良い。
画像は、左:1905年5月の靖国神社での乃木第3軍の招魂際の様子。右:1941年11月6日の靖国神社秋季例大祭の日に靖国神社に参拝した近衛歩兵第3連帯。いずれも、朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
以下 ⇒ 東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となった日(Ⅱ)へ続く。
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靖国神社は、東京都千代田区にある神社である。本殿に祀られている「祭神」は「天皇・朝廷・政府側の立場で命を捧げた」戦没者、英霊であり、よくみられる神社などのように日本神話に登場する神や天皇などではない。
靖国神社は、1869(明治2)年に戊辰戦争での朝廷方の戦死者を慰霊するため、大村益次郎の献策により「東京招魂社」として創建されたが、この東京招魂社が創建される要因に、明治維新の激動期(嵐)に翻弄された静岡県の神主たちの処遇があったという(以下参考に記載の「靖国神社はなぜつくられたのか」参照)。そこに記載されていることによると、“、明治維新後の軍制改革を進め徴兵令による国民皆兵の軍隊創設を目指していた大村は、制度や兵器を整えるだけではなく、国のために戦死した兵士を天皇自らが霊威・顕彰することが非常に重要である事に気づき、彼は、戦場となった上野東叡山(とうえいざん)寛永寺を没収し、そこに官軍将兵の戦死者を祀る招魂社を建設、官軍に協力した遠州の報国、駿州の赤心両隊の神職が移住奉仕することを提案。すでに長州藩をはじめ各藩で独自に始められていた各藩の国事殉難者の慰霊を、新政府が国家規模で行なおうとする構想のものが、新政府で承認されたが、場所は、戦いの跡が生々しい上野から変更され、皇居に近い九段坂に創建され、戊辰戦争での官軍等戦死者3,588柱が合祀されたという。そして、最終的に報国・赤心両隊各32名計64名の元隊員が東京に移住し、1869(明治32)年11月23日に招魂社の社司に任命されたという。
しかし、前文にも簡単に触れられているように、東京招魂社が出来る前に、つまり、日本初の招魂社は奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩の尊王倒幕志士として活躍した高杉晋作の発議によって創建された櫻山招魂場(現・櫻山神社、1865【慶応元】年8月、山口県下関市)だそうである(以下参考に記載の「桜山神社」参照)。
又、ここにある社司(やしろのつかさ)は、もと府県社および郷社の神職の長。祠官(しかん)の後身で、1946(昭和21)年宮司となった。東京招魂社と称された時期には神官・神職の定めは無かった。例大祭・臨時大祭には卿または将官、招魂式には将官または佐官(将官の下、尉官の上)、その他の祭祀には佐官尉官(佐官の下)が奉仕した。1875(明治8)年以降は例大祭・臨時合祀祭・招魂祭の祭主は陸軍・海軍が隔番で務めていたようだ。1879(明治12)年の改称列格によって官員の祭主は廃され祭典は宮司が行うこととなった。2009(平成21)年現在の宮司は南部利昭平成21年1月7日逝去。現在は後任を選定中)であるが、1879(明治12)年始めて宮司となったのは、青山清である。この宮司のことは、よく判らないようだが、以下参考に記載の「備中處士様の論考」の中の「靖國神社初代宮司・青山清翁遺聞」に詳しく書かかれてある。結論から言うと“江戸時代まで青山上總介長清を名乗っていた萩・椿八幡宮大宮司家の第九代宮司であつた青山清は、白石正一郎や高杉晉作・山縣有朋・伊藤博文たちとのかゝはりの中で、慶應元年8月6日に、下關の櫻山招魂場で、最初の大祭(招魂祭)を擧行。靖國神社は、長州藩の招魂祭から始まつたといはれるが、それは、青山清が櫻山招魂場で奇兵隊士を祭った延長上に上京し、東京招魂社の初代宮司になったことに表れていた。”‥‥とある。
靖国神社で最も重要な祭事は、春秋に執り行われる例大祭である。同神社ではこの当日祭には天皇陛下の使いである勅使が参向(勅祭社参照)し、陛下よりの供え物(御幣物)が献じられ、御祭文が奏上される。
1904(明治37)年日露戦争の開戦にともない、乃木希典は、第3軍司令官(大将)として旅順攻撃を指揮。130日あまりの激戦の末多くの犠牲者(東郷の2児も戦死)を出しながら203高地を占領し、1905(明治38)年1月2日には、辛くも旅順要塞陥落。この報を陸軍省が感動的に発表、日本国民はこぞって沸きに沸いた。予断であるが、この頃マスコミもしきりに戦争を煽る役割を果たしていたことが今日反省されてはいるものの今の時代のマスコミも余り大差ないことをやっているように思われるのだが・・・。
この報道の3日後の1月5日、乃木は、敵将ステッセルとあの有名な水師営で会見をしている。この時の図は前にこのブログの「明治天皇御大葬と乃木希典殉死の日」の時紹介した。ステッセルが旅順を去った後の、同月13日に乃木軍は旅順に入城式を行い、翌・14日、水師営南方の丘陵上において戦没者の招魂祭が行なわれ、乃木は飛雪のなかに立ち、みずから起草した祭文を朗読したという。以下参照。
招魂祭 - 「明治」という国家
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2007/01/post_412.html
また、九段の靖国神社でも、同年5月1日から、乃木第3軍の招魂祭(~2日)、3日から戦没者合祀臨時大祭(~7日)が行なわれた。その光景は、冒頭に貼付の写真左を参照。この日露戦争による戦死者の増大で、この半年間に合祀されたのは3万890人にのぼり、各県から上京した多数の遺族の為に、県別の参拝休憩所を設けて対応したほどだったという。アサヒクロニクル「週刊20世紀」(1905年版)より。【補足:同年3月奉天の会戦(日露両満州軍4度目の激突)に勝利し、日露戦争は終結。】
尚、東京招魂社は、1879(明治12)年に靖国神社と改称しているが、靖国神社の名は『春秋左氏伝』第六巻僖公二十三年秋条の「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を典拠として明治天皇が命名したものだそうである。同年6月16日の「社号改称・社格制定ノ祭文」には「赤き直き真心を以て家を忘れ身を擲(なげう)ちて各(おのおの)も各も死亡(みまかり)にし其(その)高き勲功に依りて大皇国をば安国と知食(しろしめ)すが故に靖国神社と改称(あらためとなえ)」 とあるそうだ(Wikipedia)。
東京以外の地方の招魂社は、この年・1939(昭和14)年4月1日施行の内務省令によって一斉に、護国神社と改称されている。理由は、「招魂社」の「招魂」は臨時の、一時的な祭祀であるが、「社」は恒久施設であり、名称に矛盾があるために改称されたという。また、当初祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたものが、日露戦争後、新たに「英霊」と称されるようになったようだ。このような経緯から、明治末期になっても、靖国神社という名称よりも、招魂社という名で庶民には親しまれていたようで、そのことは、同年(1905【明治38】年)1月、「ホトトギス」に発表した夏目漱石の『我輩は猫である』(以下参考の青空文庫で読める)の中に以下のようなかたちで登場していることをみてもわかる。
幼い3人の娘の中のとん子が突然口を開いて「わたしも御嫁に行きたいな」と云いだした。これにちょっと毒気を抜かれた体の雪江さんに対して、細君の方は比較的平気に構えて「どこへ行きたいの」と笑ながら聞いて見た。そうすると・・・・、
“「わたしねえ、本当はね、招魂社へ御嫁に行きたいんだけれども、水道橋を渡るのがいやだから、どうしようかと思ってるの」
細君と雪江さんはこの名答を得て、あまりの事に問い返す勇気もなく、どっと笑い崩れた時に、次女のすん子が姉さんに向ってかような相談を持ちかけた。
「御ねえ様も招魂社がすき? わたしも大すき。いっしょに招魂社へ御嫁に行きましょう。ね? いや? いやなら好(い)いわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ」
「坊ばも行くの」とついには坊ばさんまでが招魂社へ嫁に行く事になった。かように三人が顔を揃(そろ)えて招魂社へ嫁に行けたら、主人もさぞ楽であろう。“と・・・。
この小説は、面白くは書かれてはいるが、当時の情勢にたいして、漱石なりに結構な皮肉を利かしているようだね~。兎に角、今は、首相の参拝問題などで揺れてる神社ではあるが、『靖国』という本によればこの当時としては“超ハイカラな東京名所”だったようだ。以下参考に記載の「自転車文化センター/明治~昭和初期の錦絵に見る自転車のある東京の町並み」
Pの中の東京名勝 九段坂上靖国神社 25.明治39年 26大正2年など見られると良い。
画像は、左:1905年5月の靖国神社での乃木第3軍の招魂際の様子。右:1941年11月6日の靖国神社秋季例大祭の日に靖国神社に参拝した近衛歩兵第3連帯。いずれも、朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
以下 ⇒ 東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となった日(Ⅱ)へ続く。
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