6月13日は、「王将」「人生劇場」など男の世界を豪快に歌い一世を風びした歌手・村田英雄の2002年の忌日である。
村田 英雄(本名、梶山 勇)は、1929 (昭和4) 年1月17日。筑後吉井に生まれるが、幼い頃、事情で、実母の友人だった曲師出利葉スミ子の養子となり、スミ子が結婚した梶山春雄と共に、佐賀県東松浦郡相知村(現唐津市)へ移りここで育つ。梶山春雄は浪曲師・浪花綱若であり、母スミ子はその相三味線(伴奏)を勉めた。そのようなことから、幼いころから両親の巡業に同行、父について浪花節の修行を始め、4歳で京山茶目丸と名乗り初舞台。大阪への巡業の際、同じく大阪浪花座に出演中であった浪花節の大スター桃中軒雲右衛門の最後の弟子で文芸浪曲師の酒井雲との縁からその門下に弟子入りし、6年間の修行に励む、この間映画などにもチョイ役で出演しているようだ(この辺の経緯は以下参考に記載の「ナツメロなんでも箱5」が詳しそう)。
1942(昭和17)年13歳の時に、修行を終え真打に昇進し、雲師から酒井雲坊の芸名をもらい、天才少年浪曲師と騒がれたようだ。この年、故郷佐賀に帰郷後、「酒井雲坊一座」を旗揚げし巡業するが、陸軍省の命令で旧満州慰問に。1945(昭和20)年16歳の時、佐世保相浦海兵団で終戦を迎え復員、1947(昭和22)年18歳で、少女浪曲師 野口ユイ子と結婚。地元の九州では充分に生活できる地位を築いていたようだが、もっと大きな世界で勝負をしたいと、1949(昭和24)年、20歳のときに元浪曲師で独立し、浪曲の興行をしていた西川幸男(現新栄プロダクション会長)を頼り単身上京。1952(昭和27)年浪曲新人最優秀賞を受賞、1953(昭和28)年桃中軒雲右衛門賞受賞(第1回NHK新人賞) 、1954(昭和29)年、第6回読売賞新作浪曲競演会で優勝するなど浪曲界若手のポープとして活躍、同年 25歳のとき、西川の提案により村田英雄と改名。1957(昭和32)年、28歳のときに、ラジオの連続浪曲放送に出演のとき、たまたま村田の浪花節を耳にした作曲家の古賀政男に才能を認められ「歌謡曲」の世界に誘われる。
浪花節は古くから伝わる浄瑠璃や説経節、祭文語り(以下参考に記載の「祭文」参照)などが基礎になって、大道芸として始まった、その後明治時代初期、大阪の芸人浪花伊助が新しく売り出した芸が大うけして、演者の名前から「浪花節」と名付けられた。(浪花節と言われ始めたのは1872年頃と言われている。)これを「浪曲」と表現、表記したのは、関西浪曲界の大看板梅中軒鶯童が初めてとされている(梅中軒鶯童著『浪曲旅芸人』)。
戦中戦後、長く隆盛を極めていた浪花節(浪曲)ブームが歌謡曲などの隆盛と共に、丁度このころ、少しずつ終わりを迎えつつあった時期である。
村田と同じ浪曲界の三波春夫が1957(昭和32)年6月テイチクから「メノコ船頭さん」でデビュー、続いての「チャンチキおけさ」「船方さんよ」が次々ヒットして、一躍脚光を浴びていた。
そのようなことから、古賀の村田に対する歌謡界への誘いに、浪曲の興行師・西川は最初は渋っていたようだが、幸男も浪曲と歌謡曲の2本立てではじめればよいという話に決意。ここに、三波春夫から1年遅れで、歌謡歌手・村田英雄が誕生することになった。
そして、翌・1958(昭和33)年7月、コロムビアレコードから「無法松の一生」で歌手デビューした(以下参考に記載の「新栄プロダクション: 新栄の歴史」参照)。
小倉生まれで玄海育ち 口も荒いが 気も荒い・・・(1番中略)男一代 無法松・・・
「無法松の一生」(作詞:吉野夫二郎 作曲:古賀政男)
このデビュー曲(A面)は、1番から3番まであるが、(以下参考に記載の「村田英雄 歌詞情報 - goo 音楽」参照)、そのB面に「度胸千両」(作詞作曲者は同じ)がある。この曲の発売前の同年4月に、岩下俊作の九州・小倉の荒くれ者で評判だった人力車夫・富島松五郎(通称無法松)とそのよき友人となった陸軍軍人・吉岡の遺族(未亡人・良子と幼い息子・敏雄)との交流をえがいた小説「無法松の一生」の同名映画(1943年版、主役松五郎:阪東妻三郎)のリメイク版(主役松五郎:三船敏郎)が前作と同じ稲垣浩監督によってカラー映画化により製作・公開され大ヒットしていた。しかしこのデビュー曲そのものは当初は余りヒットはしなかった。後に1番と2番の間に「小倉名物一世一代無法松の暴れ打ちだ」の台詞に始まり、「空にひびいたあの音は……」という歌詞が違うメロディで入るヴァージョン(「度胸千両入り」)が作られた。これが、「無法松の一生」〈度胸千両入り〉であり、今カラオケなどで「無法松の一生」としてよく歌われているヴァージョンが以下のものである。
無法松の一生 http://www.youtube.com/watch?v=anPPV2SFodw&feature=related
その後翌年4月に「人生劇場」(作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男。1938【昭和13】年、歌唱:楠木繁夫)のリバイバル曲が多少ヒットした程度であり、NHK紅白歌合戦への出場も果たせずにいた。
人生劇場『Jinsei Gekijou』 http://www.youtube.com/watch?v=XQ5SlGaN1Ak
しかし、当時、なかなかヒットに恵まれていなかった村田のため、日本コロムビアのディレクターだった斎藤昇が村田と共に作詞家西條八十邸を訪れるが、当時、西條は美空ひばりの曲を書いていたため、「男の歌は作れない」と断られたのだが、村田が粘り強く西條邸に通い詰めた結果、ようやく詞を書いてもらえることになり出来たのが、1961(昭和36)年11月に発売した西條八十作詞に、船村徹が作曲した「王将」である。
吹けば飛ぶよな 将棋の駒に
賭けた命を 笑わば笑え
うまれ浪花の 八百八橋
月も知ってる 俺らの意気地
この曲により村田は同年の第12回NHK紅白歌合戦に初出場。このことによりこの曲は、ミリオンセラーとなり、翌1962(昭和27)年に第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。この「王将」のヒットにより、以前に出した「無法松の一生」や「人生劇場」なども相乗効果でヒット、その人気を不動にすることとなった。
そして、村田はこの曲・「王将」(坂田三吉の物語)で、1962(昭和37)年の第13回、1969(昭和44)年の第20回、1989(昭和64)年の第40回を含め、計4回の紅白歌合戦に出場することが出来た。以下は、1969(昭和44)年第20回NHK紅白歌合戦のものである。
王将(ousyou) http://www.youtube.com/watch?v=UcCoBkTsb6A
この曲は、元々は1961(昭和26)年9月に発売された村田英雄の歌謡浪曲「王将」(北条秀司作による新国劇「坂田三吉」に題材を求めたもの)のLPの挿入歌として企画されたもので、それが、同年11月にシングルカットされたものだった。翌1962(昭和27)年公開の伊藤大輔監督による同名の映画『王将』(主演:三國連太郎、goo-映画参照)では主題歌としても使われた。
1960年前後に花開いたカバーポップスブーム。この時期は世界的にアメリカン・ポップス全盛期でもあったが、日本の歌謡曲もポップティストを取り入れたリズム歌謡が数多く登場し、「恋」や「青春」を、明るくさらっと歌うものが主流だったが、そんな中、「好きだ、嫌いだ」「ふった、ふられた」といった男女の艶っぽい話は一切登場しない明治時代の人物と将棋の世界の浪花節調演歌「王将」が生まれたのである。
村田の歌は浪曲家出身らしく、物語性が豊かであり、とりわけ、先の富島松五郎の「無法松の一生」やこの阪田三吉の「王将」など、人物に寄り添い、その生き様を歌ったものが多い。村田と同じく浪曲出身の演歌歌手三波春夫とは、互いにライバル同士という位置付けであり歌番組での競演がよくあった。以下は、浪曲界出身の歌手を代表する村田英雄と三波春夫の2人による浪曲の共演である。
三波春夫 村田英雄共演~浪曲忠臣蔵「義士の本懐」
http://www.youtube.com/watch?v=celp7BHm-xQ
戦後、浪曲界では広沢虎造などが人気を得ていて、よくラジオで放送されていたが、私の祖父が浪曲好きだったので、私も一緒に聞いていたが、テンポの良い寅蔵の浪曲は、子供ながらに、私などもいつか大好きになり、森の石松を題材にした「石松三十石船」の真似をして歌ったり「寿司を食いねえ」「馬鹿は死ななきゃなおらない」の流行語となったフレーズをを使って面白がっていたのを思い出す。村田や三波の浪曲を聞いた記憶はないが、こうして聞いてみるとこの2人の浪曲も良いものだね~。
私は知らないが、浪曲出身同士の三波と村田の不仲説などもあったようだが、実際には、村田は三波を先輩歌手として慕い、実際は、ほぼ同時期にデビューした良きライバルとして互いに意識していた程度で、犬猿の仲というほどのものではなかったようだ。以下は、そんな村田と三波がそれぞれの持ち歌・皆の衆とチャンチキおけさを交互に歌いあう1982 (昭和.57)年の目面しい映像である。この中の会話で、2人のそんな関係も述べられている。
皆の衆・チャンチキおけさ 三波春夫・村田英雄
http://www.youtube.com/watch?v=pK-eMkUK4ag&feature=related
この放送のあった以降、2人の共演も多くなり、三波は村田が1996(平成8)年に右脚を切断した際には励ましの電話を掛けていたそうだ。村田は人物や男心を一筋に演歌を歌い続ける保守派であったが、三波は後年チャンチキおけさをラップ風に仕立て上げ歌うなど新しいものに挑戦する革新派であった。
村田は、長年三橋美智也、春日八郎らと演歌をリードし、1988(昭和63)年にはこの二人と三人の会を結成し活動していた。以下では、浪曲出身のライバル三波、それと三人の会のメンバーの昭和歌謡を代表する4人の男の歌がメドレーで聴けるのがうれしい。
四人衆名曲メドレー
http://www.youtube.com/watch?v=3WJ3OwlPhdU&feature=related
戦後の歌謡曲界全盛を担った、春日・三橋・三波ががこの10年ほど農地に次々逝った。よきライバルであり友だった人達である。残された村田は、持病の糖尿病に苦しみ、両足のひざ下切断というすさまじい闘病を経てなお歌への情熱を失わず、車椅子にのって舞台で歌い続けてきたが、2002年の今日6月13日に亡くなられた。彼の身元を引き受け歌謡界で売り出した西川幸男氏はは葬儀委員長を勤め、「豪放磊落、金、酒、女したいことはみんなやった。思いを残すことはないだろう」と言葉をつまらせたという。昭和を代表する歌謡界の大物が皆逝ってしまったが、これらの人達の歌を聴きながら育った私たちの年代のものには非常に寂しい思いである。
唐津市相知町に村田英雄記念館がある。
(画像はコレクションのチラシ。1991(平成3)年6月22日23日、大阪・道頓堀「中座」での公演。)
村田英雄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E8%8B%B1%E9%9B%84
村田英雄記念館(唐津観光協会相知支所)
http://ouchi.fhl.ne.jp/top.html
ナツメロなんでも箱5
http://inagawatimes.hp.infoseek.co.jp/nandemo.html
http://ouchi.fhl.ne.jp/murata01.html
昭和歌謡とわれらの時代
http://www.ringohouse.com/index.html
村田英雄 歌詞情報 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/lyric/artist.php?n=%C2%BC%C5%C4%B1%D1%CD%BA
村田英雄 (ムラタヒデオ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/98216/
新栄プロダクション: 新栄の歴史
http://shinei-production.jp/history/
芦川淳平の浪曲研究所
http://www3.zero.ad.jp/junpei/pages/rokyokuindex.html
●祭文 さいもん
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H055L100.HTM
梅中軒鶯童 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E4%B8%AD%E8%BB%92%E9%B6%AF%E7%AB%A5
ビッグ・スター/夢の競演
http://www.geocities.jp/fujiskre/kc93.html
北条秀司 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E7%A7%80%E5%8F%B8
日刊スポーツ・訃報・村田英雄さん
http://www.nikkansports.com/jinji/2002/seikyo020613.html
J-Pop(歌謡曲)データベース [The Chronicle of J-Pop]
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/4496/ChronicleTittle.html
4月14日「歌手・三波春夫」の忌日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/e56c50c9970cc4d334f62c82e13f4dc7
広沢虎造(2代目) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%99%8E%E9%80%A0_(2%E4%BB%A3%E7%9B%AE)>
村田 英雄(本名、梶山 勇)は、1929 (昭和4) 年1月17日。筑後吉井に生まれるが、幼い頃、事情で、実母の友人だった曲師出利葉スミ子の養子となり、スミ子が結婚した梶山春雄と共に、佐賀県東松浦郡相知村(現唐津市)へ移りここで育つ。梶山春雄は浪曲師・浪花綱若であり、母スミ子はその相三味線(伴奏)を勉めた。そのようなことから、幼いころから両親の巡業に同行、父について浪花節の修行を始め、4歳で京山茶目丸と名乗り初舞台。大阪への巡業の際、同じく大阪浪花座に出演中であった浪花節の大スター桃中軒雲右衛門の最後の弟子で文芸浪曲師の酒井雲との縁からその門下に弟子入りし、6年間の修行に励む、この間映画などにもチョイ役で出演しているようだ(この辺の経緯は以下参考に記載の「ナツメロなんでも箱5」が詳しそう)。
1942(昭和17)年13歳の時に、修行を終え真打に昇進し、雲師から酒井雲坊の芸名をもらい、天才少年浪曲師と騒がれたようだ。この年、故郷佐賀に帰郷後、「酒井雲坊一座」を旗揚げし巡業するが、陸軍省の命令で旧満州慰問に。1945(昭和20)年16歳の時、佐世保相浦海兵団で終戦を迎え復員、1947(昭和22)年18歳で、少女浪曲師 野口ユイ子と結婚。地元の九州では充分に生活できる地位を築いていたようだが、もっと大きな世界で勝負をしたいと、1949(昭和24)年、20歳のときに元浪曲師で独立し、浪曲の興行をしていた西川幸男(現新栄プロダクション会長)を頼り単身上京。1952(昭和27)年浪曲新人最優秀賞を受賞、1953(昭和28)年桃中軒雲右衛門賞受賞(第1回NHK新人賞) 、1954(昭和29)年、第6回読売賞新作浪曲競演会で優勝するなど浪曲界若手のポープとして活躍、同年 25歳のとき、西川の提案により村田英雄と改名。1957(昭和32)年、28歳のときに、ラジオの連続浪曲放送に出演のとき、たまたま村田の浪花節を耳にした作曲家の古賀政男に才能を認められ「歌謡曲」の世界に誘われる。
浪花節は古くから伝わる浄瑠璃や説経節、祭文語り(以下参考に記載の「祭文」参照)などが基礎になって、大道芸として始まった、その後明治時代初期、大阪の芸人浪花伊助が新しく売り出した芸が大うけして、演者の名前から「浪花節」と名付けられた。(浪花節と言われ始めたのは1872年頃と言われている。)これを「浪曲」と表現、表記したのは、関西浪曲界の大看板梅中軒鶯童が初めてとされている(梅中軒鶯童著『浪曲旅芸人』)。
戦中戦後、長く隆盛を極めていた浪花節(浪曲)ブームが歌謡曲などの隆盛と共に、丁度このころ、少しずつ終わりを迎えつつあった時期である。
村田と同じ浪曲界の三波春夫が1957(昭和32)年6月テイチクから「メノコ船頭さん」でデビュー、続いての「チャンチキおけさ」「船方さんよ」が次々ヒットして、一躍脚光を浴びていた。
そのようなことから、古賀の村田に対する歌謡界への誘いに、浪曲の興行師・西川は最初は渋っていたようだが、幸男も浪曲と歌謡曲の2本立てではじめればよいという話に決意。ここに、三波春夫から1年遅れで、歌謡歌手・村田英雄が誕生することになった。
そして、翌・1958(昭和33)年7月、コロムビアレコードから「無法松の一生」で歌手デビューした(以下参考に記載の「新栄プロダクション: 新栄の歴史」参照)。
小倉生まれで玄海育ち 口も荒いが 気も荒い・・・(1番中略)男一代 無法松・・・
「無法松の一生」(作詞:吉野夫二郎 作曲:古賀政男)
このデビュー曲(A面)は、1番から3番まであるが、(以下参考に記載の「村田英雄 歌詞情報 - goo 音楽」参照)、そのB面に「度胸千両」(作詞作曲者は同じ)がある。この曲の発売前の同年4月に、岩下俊作の九州・小倉の荒くれ者で評判だった人力車夫・富島松五郎(通称無法松)とそのよき友人となった陸軍軍人・吉岡の遺族(未亡人・良子と幼い息子・敏雄)との交流をえがいた小説「無法松の一生」の同名映画(1943年版、主役松五郎:阪東妻三郎)のリメイク版(主役松五郎:三船敏郎)が前作と同じ稲垣浩監督によってカラー映画化により製作・公開され大ヒットしていた。しかしこのデビュー曲そのものは当初は余りヒットはしなかった。後に1番と2番の間に「小倉名物一世一代無法松の暴れ打ちだ」の台詞に始まり、「空にひびいたあの音は……」という歌詞が違うメロディで入るヴァージョン(「度胸千両入り」)が作られた。これが、「無法松の一生」〈度胸千両入り〉であり、今カラオケなどで「無法松の一生」としてよく歌われているヴァージョンが以下のものである。
無法松の一生 http://www.youtube.com/watch?v=anPPV2SFodw&feature=related
その後翌年4月に「人生劇場」(作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男。1938【昭和13】年、歌唱:楠木繁夫)のリバイバル曲が多少ヒットした程度であり、NHK紅白歌合戦への出場も果たせずにいた。
人生劇場『Jinsei Gekijou』 http://www.youtube.com/watch?v=XQ5SlGaN1Ak
しかし、当時、なかなかヒットに恵まれていなかった村田のため、日本コロムビアのディレクターだった斎藤昇が村田と共に作詞家西條八十邸を訪れるが、当時、西條は美空ひばりの曲を書いていたため、「男の歌は作れない」と断られたのだが、村田が粘り強く西條邸に通い詰めた結果、ようやく詞を書いてもらえることになり出来たのが、1961(昭和36)年11月に発売した西條八十作詞に、船村徹が作曲した「王将」である。
吹けば飛ぶよな 将棋の駒に
賭けた命を 笑わば笑え
うまれ浪花の 八百八橋
月も知ってる 俺らの意気地
この曲により村田は同年の第12回NHK紅白歌合戦に初出場。このことによりこの曲は、ミリオンセラーとなり、翌1962(昭和27)年に第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。この「王将」のヒットにより、以前に出した「無法松の一生」や「人生劇場」なども相乗効果でヒット、その人気を不動にすることとなった。
そして、村田はこの曲・「王将」(坂田三吉の物語)で、1962(昭和37)年の第13回、1969(昭和44)年の第20回、1989(昭和64)年の第40回を含め、計4回の紅白歌合戦に出場することが出来た。以下は、1969(昭和44)年第20回NHK紅白歌合戦のものである。
王将(ousyou) http://www.youtube.com/watch?v=UcCoBkTsb6A
この曲は、元々は1961(昭和26)年9月に発売された村田英雄の歌謡浪曲「王将」(北条秀司作による新国劇「坂田三吉」に題材を求めたもの)のLPの挿入歌として企画されたもので、それが、同年11月にシングルカットされたものだった。翌1962(昭和27)年公開の伊藤大輔監督による同名の映画『王将』(主演:三國連太郎、goo-映画参照)では主題歌としても使われた。
1960年前後に花開いたカバーポップスブーム。この時期は世界的にアメリカン・ポップス全盛期でもあったが、日本の歌謡曲もポップティストを取り入れたリズム歌謡が数多く登場し、「恋」や「青春」を、明るくさらっと歌うものが主流だったが、そんな中、「好きだ、嫌いだ」「ふった、ふられた」といった男女の艶っぽい話は一切登場しない明治時代の人物と将棋の世界の浪花節調演歌「王将」が生まれたのである。
村田の歌は浪曲家出身らしく、物語性が豊かであり、とりわけ、先の富島松五郎の「無法松の一生」やこの阪田三吉の「王将」など、人物に寄り添い、その生き様を歌ったものが多い。村田と同じく浪曲出身の演歌歌手三波春夫とは、互いにライバル同士という位置付けであり歌番組での競演がよくあった。以下は、浪曲界出身の歌手を代表する村田英雄と三波春夫の2人による浪曲の共演である。
三波春夫 村田英雄共演~浪曲忠臣蔵「義士の本懐」
http://www.youtube.com/watch?v=celp7BHm-xQ
戦後、浪曲界では広沢虎造などが人気を得ていて、よくラジオで放送されていたが、私の祖父が浪曲好きだったので、私も一緒に聞いていたが、テンポの良い寅蔵の浪曲は、子供ながらに、私などもいつか大好きになり、森の石松を題材にした「石松三十石船」の真似をして歌ったり「寿司を食いねえ」「馬鹿は死ななきゃなおらない」の流行語となったフレーズをを使って面白がっていたのを思い出す。村田や三波の浪曲を聞いた記憶はないが、こうして聞いてみるとこの2人の浪曲も良いものだね~。
私は知らないが、浪曲出身同士の三波と村田の不仲説などもあったようだが、実際には、村田は三波を先輩歌手として慕い、実際は、ほぼ同時期にデビューした良きライバルとして互いに意識していた程度で、犬猿の仲というほどのものではなかったようだ。以下は、そんな村田と三波がそれぞれの持ち歌・皆の衆とチャンチキおけさを交互に歌いあう1982 (昭和.57)年の目面しい映像である。この中の会話で、2人のそんな関係も述べられている。
皆の衆・チャンチキおけさ 三波春夫・村田英雄
http://www.youtube.com/watch?v=pK-eMkUK4ag&feature=related
この放送のあった以降、2人の共演も多くなり、三波は村田が1996(平成8)年に右脚を切断した際には励ましの電話を掛けていたそうだ。村田は人物や男心を一筋に演歌を歌い続ける保守派であったが、三波は後年チャンチキおけさをラップ風に仕立て上げ歌うなど新しいものに挑戦する革新派であった。
村田は、長年三橋美智也、春日八郎らと演歌をリードし、1988(昭和63)年にはこの二人と三人の会を結成し活動していた。以下では、浪曲出身のライバル三波、それと三人の会のメンバーの昭和歌謡を代表する4人の男の歌がメドレーで聴けるのがうれしい。
四人衆名曲メドレー
http://www.youtube.com/watch?v=3WJ3OwlPhdU&feature=related
戦後の歌謡曲界全盛を担った、春日・三橋・三波ががこの10年ほど農地に次々逝った。よきライバルであり友だった人達である。残された村田は、持病の糖尿病に苦しみ、両足のひざ下切断というすさまじい闘病を経てなお歌への情熱を失わず、車椅子にのって舞台で歌い続けてきたが、2002年の今日6月13日に亡くなられた。彼の身元を引き受け歌謡界で売り出した西川幸男氏はは葬儀委員長を勤め、「豪放磊落、金、酒、女したいことはみんなやった。思いを残すことはないだろう」と言葉をつまらせたという。昭和を代表する歌謡界の大物が皆逝ってしまったが、これらの人達の歌を聴きながら育った私たちの年代のものには非常に寂しい思いである。
唐津市相知町に村田英雄記念館がある。
(画像はコレクションのチラシ。1991(平成3)年6月22日23日、大阪・道頓堀「中座」での公演。)
村田英雄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E8%8B%B1%E9%9B%84
村田英雄記念館(唐津観光協会相知支所)
http://ouchi.fhl.ne.jp/top.html
ナツメロなんでも箱5
http://inagawatimes.hp.infoseek.co.jp/nandemo.html
http://ouchi.fhl.ne.jp/murata01.html
昭和歌謡とわれらの時代
http://www.ringohouse.com/index.html
村田英雄 歌詞情報 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/lyric/artist.php?n=%C2%BC%C5%C4%B1%D1%CD%BA
村田英雄 (ムラタヒデオ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/98216/
新栄プロダクション: 新栄の歴史
http://shinei-production.jp/history/
芦川淳平の浪曲研究所
http://www3.zero.ad.jp/junpei/pages/rokyokuindex.html
●祭文 さいもん
http://www.tabiken.com/history/doc/H/H055L100.HTM
梅中軒鶯童 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E4%B8%AD%E8%BB%92%E9%B6%AF%E7%AB%A5
ビッグ・スター/夢の競演
http://www.geocities.jp/fujiskre/kc93.html
北条秀司 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E7%A7%80%E5%8F%B8
日刊スポーツ・訃報・村田英雄さん
http://www.nikkansports.com/jinji/2002/seikyo020613.html
J-Pop(歌謡曲)データベース [The Chronicle of J-Pop]
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/4496/ChronicleTittle.html
4月14日「歌手・三波春夫」の忌日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/e56c50c9970cc4d334f62c82e13f4dc7
広沢虎造(2代目) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E6%B2%A2%E8%99%8E%E9%80%A0_(2%E4%BB%A3%E7%9B%AE)>