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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

東関親方(元関脇高見山)が定年を迎えた

2009-06-16 | 人物
大きな体と長いもみあげ、オレンジ色のまわしで人気を集めた元関脇・高見山の東関親方が2009(平成21)年6月16日の今日65歳の誕生日をもって定年となり、大相撲界に別れを告げることとなった。
東関親方の現役引退時の四股名(しこな)は高見山 大五郎。1944(昭和19)年6月16日生まれの、アメリカ合衆国ハワイ州マウイ島出身で高砂部屋所属の力士であった。本名は渡辺大五郎。米国名はJesse James Wailani Kuhaulua(ジェシー・ジェームス・ワイラニ・クハウルア)と言い、愛称はジェシーであった。
ジェシーは、高校でフットボール部に所属しブロックの主将として活躍していたが、交通事故に遭って続行を断念。卒業後はバナナの運送会社に勤務しながら足腰を強化するべくマウイ相撲クラブに入部し活躍していたそうだが、1964(昭和39)年 2月の大相撲ハワイ巡業で稽古を付けてもらった時に筋肉質の立派な体格を団長のもと師匠高砂(元横綱前田山)に見出され、「 5年間は衣食住を保証する」とスカウトされ同月22日に来日し高砂部屋入門。3月4日朝、大相撲の新弟子検査に合格。このとき、19歳、身長196センチ、体重126キロであった(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)。8日初日の大阪・春場所の前相撲で初登場。この場所だけは、本名のジェシーで相撲を取ったが、片仮名の本名を力士名にした史上唯一の力士である。
しかし、海外出身力士が日本の国技であるともいわれている大相撲に初めて入門したのは彼が初めてと言うわけではなく戦前にも存在していた。ただその殆どがアメリカやブラジルに渡った日系移民の子孫であったことから、名前や顔かたちからはほとんど区別ができなかっただけ。その最初の人は、1934年(昭和2)年に来日し、当時の春日野部屋に入門したアメリカ・ロサンゼルス出身の日系2世、平賀将司という人が大相撲への外人力士の初参入ということらしい。相撲を取るきっかけとなったのは、1927(昭和2)年、当時の春日野親方(第27代横綱・栃木山)が渡米した際、平賀の両親を説得し、入門を約束させたことに始まり、平賀は、1934(昭和9)年初土俵、序二段23枚目を最高位に、1938(昭和13)年1月に廃業しているという。戦前の外国人力士としては、この平賀を含め、7人の日系人が殆ど日本から誘われかたちで入門したが、関取になったのは1人、前頭として幕内1場所を勤めた日系米国人の豊錦のみとされているようだが、これらの中に、関脇に昇進後自ら髷を切りプロレスラーに転向し有名になった朝鮮半島出身の力道山の名がないのは、百田家の養子となっていた為、外国人として登録されていなかったのであろう。子供時代からの相撲ファン、そしてプロレスラー力道山の大ファンであった私なども彼が事故で亡くなるまで、彼のことを日本人と思っていたくらいだから・・・。いらぬ詮索は別にして、そのような中で、外国出身力士の道を実質的に切り開いた開拓者(Pioneer)は、やはり、ハワイから来日したジェシーこと、高見山だったといえるだろう。
股割りの稽古の際に涙しその時「目から汗が出た」と述べたと言われる。それに、最初は ちゃんこが食べられず、ケチャップで味附けしてもらっていた言うように食事や言語その他慣習の問題など、慣れない日本での力士生活には人に言えない苦労が絶えなかっただろう。1966(昭和41)年には、扁桃腺の手術を受けたが翌日から稽古を再開、このとき執拗な喉輪攻めを受けたために声帯を痛め、独特のかすれ声になったが、元々は美声で、歌も上手かったのだとか。ともかく、苦労が実り、1967(昭和42)年3月場所、新十両、初の外国出身・外国籍の関取となった。
私は、テレビで見る以外実際に相撲を見に行ったことは無いし、テレビで相撲を見る場合も、殆どは、前頭以上の幕内力士の相撲であったので、この当時の高見山の相撲は余り見ていない。
しかし、この年の3月、私は神戸で結婚し、披露宴が終わると、翌日に大阪伊丹空港から飛行機で新婚旅行に出発するために、当日夜は、大阪の新阪急ホテルに宿泊することとし、夕方早めに同ホテルに到着したとき、同ホテルロビーで偶然にも高見山関が仲間数人と歩いているところに出会い、その浅黒い顔と大きな体に驚いのを思い出したが、たしか、この当時は、まだ後半のような太鼓腹のずんぐりとした体ではなく比較的スマートであったように思う。
高見山は、この翌・1968(昭和43)年1月場所、新入幕を果たし、史上初の外国出身・外国籍の幕内力士となり3月場所には佐田の山に引導を渡す金星、9月場所には柏戸からも金星を挙げた。そして、翌・1969(昭和44)年11月場所から小結に昇進するが、その後小結と平幕の往復が続きスランプに落ち入り、廃業も考えたようだが、師匠夫人ら周囲に励まされて現役続行を決意し、1972(昭和47)年7月、名古屋場所千秋楽の7月16日旭国を破り、13勝2敗で相撲300年の歴史上初の外国人力士優勝となった。来日して8年余り。故郷マウイ島も沸きかえった。表彰式では当時の米国大統領リチャード・ニクソンの祝電が読み上げられた。冒頭左の写真は、先代高砂親方未亡人の好美さんに祝福される高見山。(アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)。
高見山は、この頃はもう205キロともいわれる肥満体になっていたが、その重たい体重を武器にし、立ち合いから強く当たり、右から突き起こしてから鋭い出足を生かして突き進むか左四つで廻しを引き附けて吊りながら寄る取り口で活躍。翌場所には外国出身で初の関脇に昇進し、その後大関昇進を期待させるような場面も数度あったが、巨体である事の弱点でもある、足腰の脆さのため果たせなかった。よく稽古をつけてくれた大関前の山の引退も相撲の成長を止めた一因といわれている。足腰の脆さゆえに投げられると脆く、その見事な負けっぷりは、愛嬌がありかえって人気を呼ぶほどであったが、そのわりに負傷は少なく、それが長い現役生活に繋がったと言える。化粧廻しにも掲げた"Go for broke"(当たって砕けろ!の意。元々は第2次世界大戦時の米軍日系人部隊のスローガン。以下参考に記載の「Go For Broke - 米国陸軍日系2世部隊442連隊」参照)のように、ぶちかまして一気に前に出る破壊力抜群の取り口はこの弱点の克服を狙ってのものとも。「見る、立つ、出る。大丈夫ね!」を口癖にするほど、立合いから相手をよく見て立つことを心がけた。12個の金星のうち7個が輪島と言うように輪島には滅法強かった。又、軽量の大関貴ノ花利彰との対決は弁慶と牛若丸のそれに譬えられ人気を博した。1980(昭和55)年、年寄襲名のため帰化し日本国籍を取得。渡辺大五郎(夫人の姓と、相撲の四股名を合わせたもの)を名乗る。
1984(昭和59)年5月場所中に突然引退宣言し、世間を驚かせたが、引退後は年寄「東関」を襲名し、1986(昭和61)年に東関部屋を創設。自ら小錦をスカウトし、を横綱まで育てるなど、大相撲の国際化にも大きく貢献した。97場所の幕内在位、1430回に及ぶ幕内出場回数は今も破られず歴代1位の金字塔である。
しかし、私などには、相撲の世界以上にテレビCMなどで見せたユーモラスな一面と愛嬌ある笑顔の方が印象的である。ナショナルのトランザム、丸八真綿、日本船舶協会、永谷園わかめスープなど多くのCMにでていたが、なかでも、代表作とも言われる「トランザム」のコピーは最高である。
♪・・・街に行こう/トランザム持って/
    心も浮き浮きトランザム/ダア― トラッタッタ/
おいらのトランザム
最重量力士としられる高見山がダークスーツに見を固め、小さく見えるトランザムを右手に持って、ソフト帽をかぶって軽快にタップを踏み視聴者を驚かせた。冒頭の右画像参照。また、下では、その時の動画が見れる。
YooTubeナショナル トランザム 1977
http://www.youtube.com/watch?v=NtIRheMg2J4&feature=related
このCMがヒットしたのは、重々しい高見山と軽快なタップのミスマッチの面白さと彼の予想外のショーマンシップのためである。彼は、この衣装でベストドレッサー賞を取ったのだそうだ。この時のスーツと化粧まわしなどは相撲博物館に贈呈され展示されるようだ。
日本船舶振興会の「戸締り用心火の用心」と大きな太鼓を叩きながら登場し火の用心を呼びかけCMや丸八・永谷園のテレビCMの顔が良いね~。これらも以下で見れる。
日本船舶振興会TVCM
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=BI98Kot1E10
丸八ファーペット
http://www.youtube.com/watch?v=ho-QXb2pyeQ
'84 永谷園わかめスープCM / 高見山大五郎
http://www.youtube.com/watch?v=CIu3TKDco04
このような、CMで見せるちょっとお茶目で愛嬌のある顔をした意外な一面が現役時代の高見山人気をさらに高める大きな要因になったことは間違いないね。
しかし、高見山が外国人力士として成功して以来、次々と角界には外国人力士が参入。若乃花貴乃花の兄弟横綱が引退以来日本の相撲界は、外国人力士の人気に頼っている嫌いがあるが、今や、角界には朝青龍・白鵬・琴欧州といった外国人力士が席巻し、横綱・大関は言うに及ばず、幕内や十両などでも諸外国から来日した関取衆が活躍しているが、デイリー・ヨミウリ(9月29日付)では、「番付で3番目の位である幕下には、23歳以下の外国人力士が19人おり、同年齢の日本人力士の数とほぼ同じであり、このままでは、近い将来、番付上位力士のほとんどが外国人で占められてしまうことが心配されている。確かに、もう、日本の相撲は、日本の国技とは言えないスポーツの世界へと代ってきているのだろうね~。それなら、もう、部屋別の外国人力士の人数制限などせずに、世界中の国から参加してもらっった方が面白くなるのではないだろうかね~。恐らく、日本相撲の文化も随分過去とは違ったものになるだろう。かって、国技と言われていた時代の相撲ファンであった私などには寂しいが・・・・。
(画像は、左:1972年7月場所、外国人力士として初優勝を果たし、先代高砂親方未亡人の好美さんに祝福される高見山。7月16日名古屋にて。右:ナショナルのトランザムのテレビ広告に出演の高見山。いずれも、アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
高見山大五郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%A6%8B%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E4%BA%94%E9%83%8E
goo 大相撲
http://sumo.goo.ne.jp/
大相撲 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2
相撲人名鑑(高見山 大五郎)
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19680101.htm
大相撲:外国出身力士のパイオニア・元高見山(写真)
http://mainichi.jp/enta/sports/graph/2009/takamiyama/?inb=yt
殿堂入りCM作品集(テレビ) 殿堂入り年度順
http://www.acc-cm.or.jp/festival/dendou_t.pdf
homepage3.nifty.com/mongolboh-sumo
http://homepage3.nifty.com/mongolboh-sumo/file.sotsuron.htm
平成社会の人々の動き:第 11 話 「モンゴルの横綱」(国技の国際化)
http://www51.tok2.com/home/ncnycy/meiso2-11.html
力道山 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1
Go For Broke - 米国陸軍日系2世部隊442連隊
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ssbohe/one_goforbroke.htm