日本記念日協会の記念日を見ると今日の記念日に「おにぎりの日 」があった。
1987年11 月に石川県鹿島郡鹿西町(ろくせいまち)の杉谷チヤノバタケ遺跡の竪穴式住居跡から日本最古の「おにぎりの化石」が発見されたことから、鹿西町が「おにぎりの里」としての地域おこしのために制定したそうで、日付は鹿西のろく(6)と、毎月18日の「米食の日」と合わせたものだそうだ。
この日本最古の「おにぎりの化石」と言われているものは、1辺の長さが8センチほどの二等辺三角形のものだが、以下参考に記載の「No.26(PDF)よみがえる石川の遺跡」によると、「米粒の解析結果により、短粒・極小粒の日本型を呈する水稲品種の晩稲の糯米(もちごめ)で、おそらく蒸されたのち焼かれたものとされ、形状等からも、炊かれて握られた握り飯(=おにぎり)というよりは、包まれて蒸された(あるいは煮られた)ものに近いという意味で、チマキ(粽)状炭化米塊とされたもので、建物の壁際からの単独出土であることや粽の民俗事例などから、本品については、食用というよりは魔除け等呪的な用途が想定される”という(「よみがえる石川の遺跡)参照)。しかし、食べられるものであることに変わりはなく、「粽」というよりも、「おにぎり」の方が親しみやすく、地域おこしのため地元には、「おにぎりの化石」として受け入れられたようである。
米作(稲作)は、原産地の中国・インド・ミャンマーが接している山岳地帯周辺での陸稲(りくとう、おかぼ)栽培から始まったとされているようだが、従来、稲の伝来ルートについては朝鮮ルートにより、稲作技術が導入され、日本での水稲耕作が開始された時代が弥生時代からとされていたが、近年の色々な遺跡から発掘されたものの、放射性炭素年代測定により、水稲(すいとう)である温帯ジャポニカは、縄文時代晩期には既に導入されていたことが判明しつつあり、弥生時代の始まりが少なくとも紀元前10世紀まで遡る可能性が出てきている。さらに最近では、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来であるとの学説の方が朝鮮ルートよりも有力視されつつあるようだ(従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられているという。Wikipediaより)。
稲の果実である籾(もみ)から厚い外皮の籾殻(もみがら)を除去した状態のものが、玄米であり、玄米の表面を覆う糠層(ぬかそう。主として果皮と糊粉層【胚乳】)を取り去る、つまり、精白(精米、搗精)したものが米である(以下参考に記載の「玄米の構造」参照。
品種の別では、粘り気が少ないものを粳米(うるちまい)、多いものを糯米(もちごめ)という。
日本で通常主食として用いられるジャポニカ種のうるち米は粒が短く小型で焚くとねばりがあり、短粒米(たんりゅうまい)といわれるものであるが、韓国のお米も短粒米だそうだ。一番多く色々な国で食べられているのは細長いインディカ種で、ほとんど粘り気が無く、 ぱさぱさしている長粒米(ちょうりゅうまい)といわれるものだそうである。
日本の主食である米であるうるち米の「うる」(水分多・粘り弱)はもち米の「もち」(水分少・粘り強)との対義語で、「うるち」は「もち」に揃えて江戸時代に作られた語だそうである。
「古代米」と呼ばれるものは、栽培稲の原種である野生稲の特徴を受け継いでいる稲であり、現在の稲の「祖先」とされるものであり、玄米の色などから赤米、黒米、緑米などと分けて呼ばれることもある。背丈が1,5メートル以上にもなるため倒れやすく、収穫量は品種改良が進んだ現在の稲より少ないが、その反面、たんぱく質やビタミンを豊富に含んでいて、最近は、健康志向が強い人達から「健康食品」としても注目を集めていることから、日本の在来品種や外来品種も流通しているが、1989(昭和64・平成元)年に農林水産省が音頭をとって推進した「スーパーライス計画」(以下参考に記載の「スーパーライス計画」参照)以降、各地の農業試験場で生み出された育成品種も多い。近年では、このような育成品種は古代そのままの米ではないと考え、在来品種のみが古代米であるとする主張もあるようだが、在来品種が縄文・弥生時代そのままの品種であるという確証は何もないようだ(詳しくはイネの中の赤米、黒米を参照されると良い)。
日本の主食である米の稲作は縄文時代中期から行われ始め太とはいえ、この時代は、まだまだ主食ではなく穀物といっても、アワ・ヒエが中心で、赤米や、黒米も主としては酒(御神酒など)造りや神事ように使われていたようだ。稲の栽培が日本に導入された頃には、米を発酵させて醸造酒とする醸造法も、ほぼ同時に中国大陸から伝来したものと考えられている(日本酒の歴史参照)。そのことは、杉谷チヤノバタケ遺跡から発見された「おにぎりの化石」と言われているものが、実際には、水稲品種の晩稲の糯米(もちごめ)で、おそらく蒸されたのち焼かれたものとされ、形状等からもチマキ(粽)状炭化米塊で、食用というよりは魔除け等呪的な用途で作られたものと想定されている・・・ことからもわかる。粽を作るのに使われていたとする糯米は、古代米と言われている黒米に属する種なのであろう。
なお、米は、日本においては非常に特殊な意味を持ち、長らく税(租・あるいは年貢)として、またある地域の領主や、あるいは単に家の勢力を示す指標としても使われた。
一般人の主食は室町時代くらいまでは、イネ科の穀物ではアワやヒエなどであり、貴族など特権階級の間でやっとアワに玄米を混ぜたものが食べられるようになった程度だったとされており、現在と同じように、玄米を白く精米した形で食べるようになったのは江戸時代も明暦年間(1655年~1657年)辺りからであり、それを、食べていたのは、将軍や大名・豪商ぐらいだった。江戸時代の平均的な武士でさえ、米7:麦3の割合の麦飯を食べていた。当時の8割を占める農民層は年貢(土地を持つ本百姓)や小作料(土地を持たない水呑百姓)、また種籾以外の米は、貴重な現金収入であるため、自分で消費する分は米に麦・粟・稗などを混ぜた雑穀食が一般的だった。今のように日本人の誰もがまざりっけの無い純粋な白米を食べれるようになったのは、第二次世界大戦終結から10年ぐらい経った昭和30年代に入ったころからだろう。
日本の昔の民話やおとぎ話である「さるかに合戦」や「おむすびころりん」などに「おむすび」が登場するが、こんな時代のおむすびって、少なくとも絵本などに描かれているような真っ白いお米のお結びではなかったろう。雑穀米で握ったものを焼いたものだったのだろうね~。
太宰 治の『斜陽』(1950【昭和25】年。)の中で「おむすびが、どうしておいしいのだか、知っていますか。あれはね、人間の指で握りしめて作るからですよ」とおっしゃったのは、明治になり身分制度が変わり爵位だけは持っている貧乏な息子がほんものの貴族と認めるお母様である(「青空文庫:作家別作品リスト:太宰 治参照」。
炊いた米に味をつけたり、具を入れたりして、三角形・俵形・球状などに握ってまとめた食べ物「握り飯」をおにぎりや「おむすび」というのは、元は御所の女房言葉であった(呼び方参照)。
確かに、母親や女房などの握ってくれた「おにぎり」の美味しさには、他の食べ物とは違って独特の味わいがあるが、それは、握ってくれた人の温かさを感じるからであろう。スーパーやコンビニエンスで売っている機械で作ったものには同じおにぎりでもそのような温かさを感じないのは、私だけだろうか。
1995(平成7)年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。私の地元神戸市はこの地震による建物の倒壊と伴なう火災で市街地は第二次世界大戦時なみの壊滅状態に陥った。幸い私の家は表面上は壁割れ程度の軽度であったが、周りの家は全壊や半壊状態のところが多かった(しかし、数年後の改装時に私の家もそうだったが、一部損壊程度の家でも殆どの家が基礎部分をやられていることがわかった)。道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などのライフラインは寸断された。全国からの支援物資も東は灘、西はJR須磨駅辺りまでで、灘と須磨の中間は道路が遮断されているため食料どころか水さえ満足に届かなかった。しかも、家が倒壊し学校など避難所には、何とかボランティアの人達が僅かの食料を届けてくれたが、避難所へ避難していないものの方が食料などに困った。何とか、食べ物を手に入れようと思ったが、なかなか手に入らなかったが、何日かたってやっと、近くの避難所となっている学校の前で、避難所への支援物資の余りもののおにぎり(市販のもの)を配っているのを手に入れたが、どれも賞味期限を2日ほど切れたものばかりであった。それでも、その時のおにぎりを本当にあり難くいただいたのを思い出した。
その時以降、我が家では、いざといったときの非常用に、避難用具だけでなく、最低2週間ぐらいは食べてゆけるだけの食料等を保存しているが、冷凍庫には、絶えず、手作りのおむすびも10個位は欠かさないようにしているよ。
(画像は、おむすび。Wikipediaより)
参考:
中日新聞:『おにぎりの里』再び 町おこしの熱意 合併後も消えず
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/toku/genba/CK2008090602000236.html
米 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3
おにぎり - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%A1%E3%82%8A%E9%A3%AF
玄米の構造
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kazu-n/genmai.html
古代米 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E7%B1%B3
スーパーライス計画
http://www.ota-ya.jp/komekome/siryou/super.html
豆知識古代米のルーツ
http://www.omn.ne.jp/~tokatiya/kodaimai2.htm
食材事典/美味探求/お米
http://www2.odn.ne.jp/shokuzai/okome.htm
愛知県の歴史 (1)古代 尾張の古代社会尾張国正税帳の世界
http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10004732/0/kouza/section8.htm
赤米から見た日本史
http://www.geocities.jp/tetsuyakuge/thema/akamai.html
赤米(大唐米)|戦国日本の津々浦々
http://proto.harisen.jp/mono/mono/akagome.html
Category:日本の民話-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B0%91%E8%A9%B1
太宰 治-Wikipedia
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person35.html
青空文庫:作家別作品リスト:太宰 治
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person35.html
阪神・淡路大震災
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E3%83%BB%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
1987年11 月に石川県鹿島郡鹿西町(ろくせいまち)の杉谷チヤノバタケ遺跡の竪穴式住居跡から日本最古の「おにぎりの化石」が発見されたことから、鹿西町が「おにぎりの里」としての地域おこしのために制定したそうで、日付は鹿西のろく(6)と、毎月18日の「米食の日」と合わせたものだそうだ。
この日本最古の「おにぎりの化石」と言われているものは、1辺の長さが8センチほどの二等辺三角形のものだが、以下参考に記載の「No.26(PDF)よみがえる石川の遺跡」によると、「米粒の解析結果により、短粒・極小粒の日本型を呈する水稲品種の晩稲の糯米(もちごめ)で、おそらく蒸されたのち焼かれたものとされ、形状等からも、炊かれて握られた握り飯(=おにぎり)というよりは、包まれて蒸された(あるいは煮られた)ものに近いという意味で、チマキ(粽)状炭化米塊とされたもので、建物の壁際からの単独出土であることや粽の民俗事例などから、本品については、食用というよりは魔除け等呪的な用途が想定される”という(「よみがえる石川の遺跡)参照)。しかし、食べられるものであることに変わりはなく、「粽」というよりも、「おにぎり」の方が親しみやすく、地域おこしのため地元には、「おにぎりの化石」として受け入れられたようである。
米作(稲作)は、原産地の中国・インド・ミャンマーが接している山岳地帯周辺での陸稲(りくとう、おかぼ)栽培から始まったとされているようだが、従来、稲の伝来ルートについては朝鮮ルートにより、稲作技術が導入され、日本での水稲耕作が開始された時代が弥生時代からとされていたが、近年の色々な遺跡から発掘されたものの、放射性炭素年代測定により、水稲(すいとう)である温帯ジャポニカは、縄文時代晩期には既に導入されていたことが判明しつつあり、弥生時代の始まりが少なくとも紀元前10世紀まで遡る可能性が出てきている。さらに最近では、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来であるとの学説の方が朝鮮ルートよりも有力視されつつあるようだ(従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられているという。Wikipediaより)。
稲の果実である籾(もみ)から厚い外皮の籾殻(もみがら)を除去した状態のものが、玄米であり、玄米の表面を覆う糠層(ぬかそう。主として果皮と糊粉層【胚乳】)を取り去る、つまり、精白(精米、搗精)したものが米である(以下参考に記載の「玄米の構造」参照。
品種の別では、粘り気が少ないものを粳米(うるちまい)、多いものを糯米(もちごめ)という。
日本で通常主食として用いられるジャポニカ種のうるち米は粒が短く小型で焚くとねばりがあり、短粒米(たんりゅうまい)といわれるものであるが、韓国のお米も短粒米だそうだ。一番多く色々な国で食べられているのは細長いインディカ種で、ほとんど粘り気が無く、 ぱさぱさしている長粒米(ちょうりゅうまい)といわれるものだそうである。
日本の主食である米であるうるち米の「うる」(水分多・粘り弱)はもち米の「もち」(水分少・粘り強)との対義語で、「うるち」は「もち」に揃えて江戸時代に作られた語だそうである。
「古代米」と呼ばれるものは、栽培稲の原種である野生稲の特徴を受け継いでいる稲であり、現在の稲の「祖先」とされるものであり、玄米の色などから赤米、黒米、緑米などと分けて呼ばれることもある。背丈が1,5メートル以上にもなるため倒れやすく、収穫量は品種改良が進んだ現在の稲より少ないが、その反面、たんぱく質やビタミンを豊富に含んでいて、最近は、健康志向が強い人達から「健康食品」としても注目を集めていることから、日本の在来品種や外来品種も流通しているが、1989(昭和64・平成元)年に農林水産省が音頭をとって推進した「スーパーライス計画」(以下参考に記載の「スーパーライス計画」参照)以降、各地の農業試験場で生み出された育成品種も多い。近年では、このような育成品種は古代そのままの米ではないと考え、在来品種のみが古代米であるとする主張もあるようだが、在来品種が縄文・弥生時代そのままの品種であるという確証は何もないようだ(詳しくはイネの中の赤米、黒米を参照されると良い)。
日本の主食である米の稲作は縄文時代中期から行われ始め太とはいえ、この時代は、まだまだ主食ではなく穀物といっても、アワ・ヒエが中心で、赤米や、黒米も主としては酒(御神酒など)造りや神事ように使われていたようだ。稲の栽培が日本に導入された頃には、米を発酵させて醸造酒とする醸造法も、ほぼ同時に中国大陸から伝来したものと考えられている(日本酒の歴史参照)。そのことは、杉谷チヤノバタケ遺跡から発見された「おにぎりの化石」と言われているものが、実際には、水稲品種の晩稲の糯米(もちごめ)で、おそらく蒸されたのち焼かれたものとされ、形状等からもチマキ(粽)状炭化米塊で、食用というよりは魔除け等呪的な用途で作られたものと想定されている・・・ことからもわかる。粽を作るのに使われていたとする糯米は、古代米と言われている黒米に属する種なのであろう。
なお、米は、日本においては非常に特殊な意味を持ち、長らく税(租・あるいは年貢)として、またある地域の領主や、あるいは単に家の勢力を示す指標としても使われた。
一般人の主食は室町時代くらいまでは、イネ科の穀物ではアワやヒエなどであり、貴族など特権階級の間でやっとアワに玄米を混ぜたものが食べられるようになった程度だったとされており、現在と同じように、玄米を白く精米した形で食べるようになったのは江戸時代も明暦年間(1655年~1657年)辺りからであり、それを、食べていたのは、将軍や大名・豪商ぐらいだった。江戸時代の平均的な武士でさえ、米7:麦3の割合の麦飯を食べていた。当時の8割を占める農民層は年貢(土地を持つ本百姓)や小作料(土地を持たない水呑百姓)、また種籾以外の米は、貴重な現金収入であるため、自分で消費する分は米に麦・粟・稗などを混ぜた雑穀食が一般的だった。今のように日本人の誰もがまざりっけの無い純粋な白米を食べれるようになったのは、第二次世界大戦終結から10年ぐらい経った昭和30年代に入ったころからだろう。
日本の昔の民話やおとぎ話である「さるかに合戦」や「おむすびころりん」などに「おむすび」が登場するが、こんな時代のおむすびって、少なくとも絵本などに描かれているような真っ白いお米のお結びではなかったろう。雑穀米で握ったものを焼いたものだったのだろうね~。
太宰 治の『斜陽』(1950【昭和25】年。)の中で「おむすびが、どうしておいしいのだか、知っていますか。あれはね、人間の指で握りしめて作るからですよ」とおっしゃったのは、明治になり身分制度が変わり爵位だけは持っている貧乏な息子がほんものの貴族と認めるお母様である(「青空文庫:作家別作品リスト:太宰 治参照」。
炊いた米に味をつけたり、具を入れたりして、三角形・俵形・球状などに握ってまとめた食べ物「握り飯」をおにぎりや「おむすび」というのは、元は御所の女房言葉であった(呼び方参照)。
確かに、母親や女房などの握ってくれた「おにぎり」の美味しさには、他の食べ物とは違って独特の味わいがあるが、それは、握ってくれた人の温かさを感じるからであろう。スーパーやコンビニエンスで売っている機械で作ったものには同じおにぎりでもそのような温かさを感じないのは、私だけだろうか。
1995(平成7)年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。私の地元神戸市はこの地震による建物の倒壊と伴なう火災で市街地は第二次世界大戦時なみの壊滅状態に陥った。幸い私の家は表面上は壁割れ程度の軽度であったが、周りの家は全壊や半壊状態のところが多かった(しかし、数年後の改装時に私の家もそうだったが、一部損壊程度の家でも殆どの家が基礎部分をやられていることがわかった)。道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などのライフラインは寸断された。全国からの支援物資も東は灘、西はJR須磨駅辺りまでで、灘と須磨の中間は道路が遮断されているため食料どころか水さえ満足に届かなかった。しかも、家が倒壊し学校など避難所には、何とかボランティアの人達が僅かの食料を届けてくれたが、避難所へ避難していないものの方が食料などに困った。何とか、食べ物を手に入れようと思ったが、なかなか手に入らなかったが、何日かたってやっと、近くの避難所となっている学校の前で、避難所への支援物資の余りもののおにぎり(市販のもの)を配っているのを手に入れたが、どれも賞味期限を2日ほど切れたものばかりであった。それでも、その時のおにぎりを本当にあり難くいただいたのを思い出した。
その時以降、我が家では、いざといったときの非常用に、避難用具だけでなく、最低2週間ぐらいは食べてゆけるだけの食料等を保存しているが、冷凍庫には、絶えず、手作りのおむすびも10個位は欠かさないようにしているよ。
(画像は、おむすび。Wikipediaより)
参考:
中日新聞:『おにぎりの里』再び 町おこしの熱意 合併後も消えず
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/toku/genba/CK2008090602000236.html
米 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3
おにぎり - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%A1%E3%82%8A%E9%A3%AF
玄米の構造
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kazu-n/genmai.html
古代米 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E7%B1%B3
スーパーライス計画
http://www.ota-ya.jp/komekome/siryou/super.html
豆知識古代米のルーツ
http://www.omn.ne.jp/~tokatiya/kodaimai2.htm
食材事典/美味探求/お米
http://www2.odn.ne.jp/shokuzai/okome.htm
愛知県の歴史 (1)古代 尾張の古代社会尾張国正税帳の世界
http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10004732/0/kouza/section8.htm
赤米から見た日本史
http://www.geocities.jp/tetsuyakuge/thema/akamai.html
赤米(大唐米)|戦国日本の津々浦々
http://proto.harisen.jp/mono/mono/akagome.html
Category:日本の民話-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B0%91%E8%A9%B1
太宰 治-Wikipedia
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person35.html
青空文庫:作家別作品リスト:太宰 治
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person35.html
阪神・淡路大震災
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E3%83%BB%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html