今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

藤沢周平 (小説家『暗殺の年輪』)の忌日

2008-01-26 | 人物
今日(1月26日)は、小説家・藤沢周平 (『暗殺の年輪』)の1997(平成 9)年 の忌日
藤沢 周平(ふじさわ しゅうへい)、本名は小菅留治(こすげ とめじ)。1927(昭和 2)年12月26日、山形県東田川郡黄金村大字高坂字楯ノ下(現在の鶴岡市高坂)に生れる。実家は農家で、藤沢自身も幼少期から家の手伝いを通して農作業にかかわり、この経験から後年農村を舞台にした小説や農業をめぐる随筆を多く発表することになる。1942 (昭和17)年、山形県立鶴岡中学(現・鶴岡南高校)夜間部に入学、1946(昭和21)年、印刷会社に勤めながら苦学して同夜間部卒業後、山形 師範学校へ入学 。入学後はもっぱら文芸に親しみ、この時期の思い出は自伝『半生の記』(※1)にくわしく記されている。1949年(昭和24)年、 師範学校卒業後、山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学(鶴岡市湯田川、現在は鶴岡市立鶴岡第四中学校へ統合)へ赴任 。1951(昭和26)年に集団検診で肺結核が発見され、休職を余儀なくされる。
翌年、東京の病院にて手術後は順調であったが、郷里での教員生活を断念し、これ以降、東京にて1959(昭和29)年、8歳年下の同郷の人と結婚。翌・1960(昭和30)年に(株)日本食品経済社に入社し記者となり、後に作家生活に入るまで同社に勤続。この頃はもっぱら純文学を志していたらしいが、1963(昭和38)年、長女が生れるも、10月に妻が28歳で急逝。このことにつよい衝撃を受け、やり場のない虚無感をなだめるために時代小説の筆を執るようになったという。翌年以降、毎年のようにオール読物新人賞に投稿を始める。1965(昭和40)年から本格的に作家を目指し藤沢周平のペンネームを使い始めたといわれている。
1969(昭和44)年、再婚。1971(昭和46)年 『溟い海』が第38回オール讀物新人賞を受賞し、直木賞候補となり、1973(昭和48)年『暗殺の年輪』(※2)で第69回直木賞。新進の時代小説作家として認められるようになり、この年最初の作品集『暗殺の年輪』 を文藝春秋より刊行。翌1974(昭和49)年より会社を退社し、本格的な作家生活に入り、この年より非常に多くの作品を発表している。 
初期の作品には暗く重い作風で、物語の中に自身の鬱屈した気分を流し込んだ、私小説と言ってよいものであったようだが、1976年刊行の『竹光始末』(※3)あたりから内容に変化が見られ、綿密な描写と美しい抒情性の上にユーモアの彩りが入ってきたといわれている。そのことから作品も徐々に多くの人に支持されるようになり、1978(昭和53)年に『春秋山伏記』(※4)と『用心棒日月抄』(※5)が刊行されるやその人気は一躍不動のものとなり、司馬遼太郎池波正太郎と並ぶ時代小説作家として遇されるようになる。特に『用心棒日月抄』は藤沢の代表作としていまだに高く評価され、根づよいファンも多いようだ。その後次々と名作を発表し、1976(昭和51)年からはオール讀物新人賞選考委員。1985(昭和60)年、『白き瓶-小説・長塚節』(※6)によって第20回吉川英治文学賞受賞。またこの年から直木賞選考委員。1988(昭和63)年、山本周五郎賞選考委員。1989年、『市塵』(※7)によって第40回芸術選奨文部大臣賞を受賞し、さらに作家生活全体の功績に対して第37回菊池寛賞が与えられる。1992(平成 4)年には文藝春秋より『藤沢周平全集』全23巻の刊行が開始される。1994(平成 6)年、朝日賞、第10回東京都文化賞受賞。1995年、紫綬褒章を授与される。この前後より、若いころの結核手術の際の輸血によって罹患した肝炎に苦しみ、1996(平成 8)年には入退院を繰りかえすが、病状は好転せず、惜しまれながら1997(平成 9)年1月26日に逝去した。享年69であった。没後、山形県民栄誉賞が贈られた。
同賞受賞理由に「藤沢周平氏は、数多くの時代・歴史小説などを残した。特に、英雄や豪傑が登場するわけでない市井(しせい)もので庶民の営みを描き、爽やかな余韻を残す読後感で、「癒しの文学」と言われている。 また、氏の故郷にあった荘内藩をモデルにしたと言われる、「海坂藩」が舞台となっている作品では、豊かな情景描写で、読む人に「懐かしさ」を与え、家族の情愛、夫婦愛など、哀歓あふれる作品となっている。「海坂藩」が舞台となっている作品には、庄内地方の方言が使われているものがあり、氏の故郷への思いが伝わってくる作品でもある。」・・・とあるように、江戸時代を題材とした作品を多く残し、中でも出身地、山形県鶴岡市にあった庄内藩をモチーフにしたと言われる架空の「海坂藩(うなさかはん)」を舞台にした作品は有名である。藤沢は、金峯山の山麓の閑静な農村・鶴岡市高坂地区で生まれた。生家跡地には、生誕の碑が建立されているそうだ。
藤沢は、多くの時代小説を残しているが、それら、藤沢作品で出版されたものは、以下参考に記載の「時代小説県時代小説村」か、以下を参考にされるとよい。
たーさんの部屋2藤沢周平作品データベース 「藤沢周平単行本・刊行年度順一覧」
http://www.j-real.com/ta-san/fjsw/fujitankou2.htm
又、藤沢の没後9年目にあたる、2006(平成18)年1月、新聞紙上で、『藤沢周平無名時代の作品発見』)が伝えられ、藤沢周平のペンネームも、初めてペンネーム「藤沢周平」を使った年が1965年ではなく1962年頃(又は以前)であったことが判ったという。同時に、無名時代の作品で所在が確認できなかった幻の短編14作品が、『藤沢周平未刊行初期短篇』として、文芸春秋 より2006年11月 に出版されている。1962(昭和37)年~1964(昭和39)年にかけて時代小説雑誌に掲載されたものだという。これらの短編には、庄内藩の武家もの、江戸の市井もの、職人ものなどが含まれていて、藤沢の作家としてのルーツを知ることができそうだ。その幻の短編の内容等は以下参考に記載の「たーさんの部屋2藤沢周平作品データベース・ 幻の短編特集」が詳しい。
そして、1年経った没後10年目に当る本・2008(平成20)年1月10日には、読売新聞にて、”「藤沢周平記念館(仮称)」の基本設計が9日発表された”ことが報じられ、”2009年中の開館を目指して、今後施設の建設が進められるとともに、具体的な展示内容も検討されるが、同記念館は、藤沢の作品にも登場する鶴ヶ岡城があった同市馬場町の鶴岡公園内に建設される。”という。その”基本設計では、「外見は質素で堅実、中は思いがけないほど豊かで充実した世界が広がっている記念館」を基本理念とし、樹木に囲まれ、荘内神社や大宝館など歴史的建造物も多い鶴岡公園の雰囲気に溶け込むたたずまいを目指すとしている。”・・・そうだ。(以下参考に記載の「藤沢周平記念館 2009 年中の開館目指す〔山形 : 地域 : YOMIURI ONLINE 読売新聞〕」参照。)
ここのところ、藤沢作品の評価が年々高まっており、NHKなどのテレビでドラマ化されたり、映画化されている。
庄内藩(しょうないはん)とは、出羽国庄内(現在の庄内地方)を領した譜代大名の藩。正式には城下町名を取った鶴岡藩であり、庄内藩は通称である。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。鶴ヶ岡城は、明治時代まで酒井氏が治めていた。藩主の酒井氏は、戦国武将で徳川四天王の一人である酒井忠次の嫡流、左衛門尉酒井氏で譜代の名門の家柄である。
山田洋次が制作した「たそがれ清兵衛」(2002年)、「隠し剣鬼の爪」(2004年)、「武士の一分」(2006年)や、黒土三男が制作した「蝉しぐれ」(2005年)、の舞台である海坂藩は、この庄内藩がモデルである。戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟薩長軍と戦い、連戦連勝しながらも、会津藩の降伏した後、明治と改元された9月25日まで徹底抗戦を行った。
1871(明治4)年廃藩置県により廃城となり、1876(明治9)年には城内の建築物は全て破却され鶴岡公園となった。山田洋次の1作目「たそがれ清兵衛」の主人公である井口清兵衛は常々家長としての役割を、自己も他者も意識させている。貧しい暮らしを支えるために、勤めが終われば即座に帰宅し内職や家事に勤しむ。周りから縁談を勧められるのも、まず「真っ当な家庭にする」ためであり、それを清兵衛が断るのも、貧乏故に幸福な家庭を築くことが出来ず前妻を失い、同じことを繰り返したくないためであった。しかし、2作目の「鬼の爪」で、主人公の宗蔵は、清兵衛と同じように貧しく、片桐家の家長であるが、劇中ではそれをことさらに強調していない。抱える妻子もなく、父の汚名で禄を減棒させられた片桐家を再興しようとの意志も見せない。独り身の気楽な若者として描かれている。前作と最も違うのは決闘する相手である。清兵衛の相手は妻子を失い希望も失った家長つまり、自分と同じ立場のものである。
「鬼の爪」の相手狭間弥市郎は友であり、藩の改革者であり謀反者である。宗蔵は逆に、上役に反発してはいても改革でもなんでもない。隠し剣鬼の爪で倒される真の敵は、宗蔵の私憤によるものだ。最新作の3作目、「武士の一分」で、免許皆伝の剣の腕前を持つ下級藩士・三村新之丞の仕事は藩主の毒見役である。美しい妻加世や新之丞の父の代から務める中間・徳平と平穏な暮らしを送っていた。彼の夢は、早く隠居して子供たちに剣術を教えることだったが、毒見の際に食べた貝の毒に中り失明してしまう。光の無い世界に慣れてきたある日、加世と番頭・島田藤弥との不貞を知ってしまう。島田に体を預けることを引き換えに家禄を保ってきたことを知った新之丞は加世を離縁。その後、実は島田は加世を弄ぶために家禄を口実に加世を騙したことを知り、島田に対し、自らの「一分」を賭けて果たし合いに挑むのである。前2作が夫婦愛を描くとともに、政争のために藩から命令されて刀を抜かざるをえなくなった主人公の苦悩(武士社会の不条理性)が描かれていたのに対し、3作目は武士の一分(面目)のための決闘といった単純な内容のものとなっている。ただ、目が見えぬハンディを負って決闘に挑むと言うところは、よくある西部劇に似ている。黒土三男の「蝉しぐれ」は、東北の小藩「海坂藩」の下級武士である義父のもとで政変に巻きこまれて父を失い、家禄を没収された少年牧文四郎の成長を、隣家の娘ふくに抱く淡い恋心を題材にしつつ描く。謀反を起こした父の子として、文四郎に数々の試練が待ち受けていた。そんな文四郎を支えたのは、以前と変わらぬ友情を示してくれた逸平と、ふくの優しさであった。「蝉しぐれ」は時代小説の最高傑作として高い評価を受けている。
同じ山形県出身井上ひさしは、藤沢の文章を「端正で切れ味のよい、それでいて、やさしくしなやかな文章」と評している。豪傑が天下国家を声高に語るのでもなく、完全無欠のヒーローが華やかに活躍するわけでもない。藤沢は、現代に生きる人たちの日常を歴史に素材を借りて時代小説に仕立ている。藤沢は、自分が選んだ仕事を大事に黙々と生き抜く人達が好きだった。それが、代表作『三屋清左衛門残日録 』の老主人公の言葉となる。「衰えて死が訪れるそのときは、おのれをそれまで生かしめた全てのものに感謝をささげて生を終えればよい。しかし、いよいよ死ぬるそのときまでは、人間に与えられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならなぬ。」その通りである。藤沢の作品は名もなき人々を暖かな眼差しで包む作風で愛されている。「癒しの文学」とも呼ばれる由縁である。
※1~※は。以下参考に記載の「時代小説県時代小説村」の藤沢修平の中に収録されているもの。
(画像は、コレクションの映画チラシ「蝉しぐれ」)
このブログの字数制限上、参考は、別紙にしました。以下をクリックするとこの舌に表示されます。
クリック → 藤沢周平の忌日:参考

藤沢周平の忌日:参考

2008-01-26 | 人物
参考:
Wikipedia - 藤沢周平
http://ja.wikipedia.org/wiki/藤沢周平
海坂藩 研究所
http://www.e-yamagata.com/unasaka/
藤沢周平 (フジサワシュウヘイ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/169216/
映画「蝉しぐれ」公式サイト
http://www.semishigure.jp/top.html
時代小説県時代小説村
http://lounge.cafe.coocan.jp/novels/
たーさんの部屋2藤沢周平作品データベース
http://www.j-real.com/ta-san/fjsw/index.html
仙台市 記者発表資料/仙台文学館特別展「藤沢周平の世界展」を開催
http://www.city.sendai.jp/soumu/kouhou/houdou/06/180912bungaku.html
東京都文化賞・都民文化栄誉章
http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/bunka/kenshou/kako/bunkashou.htm
山形県名誉県民・山形県県民栄誉賞 — 山形県ホームページ
http://www.pref.yamagata.jp/government/work/6020020meiyo_eiyo.html
武士の一分
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E3%81%AE%E4%B8%80%E5%88%86
藤沢周平記念館 2009年中の開館目指す(山形 : 地域 : YOMIURI ONLINE 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamagata/news/20080109-OYT8T00434.htmhttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamagata/news/20080109-OYT8T00434.htm
鶴ヶ岡城 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E3%83%B6%E5%B2%A1%E5%9F%8E
荘内神社公式ホームページ
http://www4.dewa.or.jp/jinjahan/
山形県鶴岡市観光連盟
http://www.tsuruokakanko.com/
井上ひさし - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E3%81%B2%E3%81%95%E3%81%97
山形県鶴岡市 金峯山・金峯神社
http://www10.ocn.ne.jp/~kinbou/index.htm

中華まんの日

2008-01-25 | 記念日
日本記念日協会の今日の記念日によると今日(1月25日)は「中華まんの日 」だそうだ。
1902(明治35 )年のこの日に、日本の気象官署アメダスにおける気温の最低記録、マイナス41度(-41.0°C)が北海道旭川市で記録されたことから、ホカホカと暖かい中華まんを食べるのに最適な日ではないかと制定されたものだそうだ。・・・が、どこが登録したのかは記載されていなかった。この日に中華まんを食べると風邪をひかない、受験に合格するという話しもあるそうだ。
日本で「中華まん」としてイメージされている具の入ったものは、中国では包子(パオズ、バオズ)と呼ばれているもの。中国でマントウ(饅頭、mántou)と呼ばれているものは、小麦粉などを練って作った皮(生地:きじ)の部分だけで具の入っていない一種の蒸しパンで、このなかにや具が入ると包子なる。日本で中国のマントウに似た食品としては、長崎の卓袱料理の一品でトンポーローを包む饅頭などがある。
この中華まんを初めて作ったとされるのが三国志諸葛亮(諸葛孔明の名で知られているが孔明は諸葛亮の)だ。「川の氾濫を治めるためには野蛮人の頭を川に投げる必要がある」との言い伝えを聞いた諸葛亮はこの言い伝えに納得がいかず、人の頭を模した饅頭を作り、それを川に投げ込んだ。すると不思議な事に氾濫は治まり、以来川の氾濫を防ぐため饅頭が投げられた、というエピソードがあり、この饅頭が中華まんの原型であるという。ちなみに、「蛮頭」にちなんで「饅頭」と名づけられた(中国語では同音)というが、明代(1368年 ~1644年)に完成した三国志演義(通俗歴史小説)が原典のため、信憑性が低いとする学者も多いという。
日本の饅頭の起源には2つの系統があるそうで、1つは、1349(南朝 : 正平4、北朝 : 貞和5)年に、禅宗の僧と一緒に中国から渡来した林浄因と共に入ってきたと言われている。その際、禅宗のお茶と一緒に食べる菓子として饅頭を用いる事を考えた。しかし、日本では肉食を禁じたので、代わりに小豆を使った饅頭が考案されたと言われている。その後、林浄因は、奈良の漢國神社の近くに住居して塩瀬という店を立て評判になったそうだ。林浄因は漢國神社境内社の「林神社」に祀られ、製菓業者の信仰を集めている。以下が詳しい。
林神社-饅頭伝来記
http://tokyo.cool.ne.jp/nara_hakken/bunkazaijisya/hayasijinjya-manjyuu.htm
もう1つの系統は、林浄因が伝えたとされる年より100年ほど遡る1241(仁治2)年にに渡り学を修めた聖一国師(円爾弁円)が、福岡の博多でその製法を伝えたと言われる。聖一国師は、辻堂(つじのどう=現・博多駅前一丁目)に臨済宗承天寺を創建し、博多の西、荒津山一帯をたく鉢に回っていた際、いつも親切にしてくれていた茶屋の主人に饅頭の作り方を伝授した。このときに茶屋の主人に書いて与えた「御饅頭所」という看板が、今では東京・赤坂の虎屋黒川にあるという。後にこの饅頭は酒皮饅頭とも虎屋饅頭とも呼ばれているそうだ。(以下参考に記載の「とらやホームページ・虎屋の歴史」参照)
このような饅頭とは違って、豚肉、タマネギ、タケノコ、干しシイタケなどをみじん切りにして煮たものを入れたものに、「肉まん」と呼ばれるものがある。これは、関西地方では「豚まん」の呼称が使われるが、関西では「肉」といえば一般的に牛肉を指すためである。
この「中華まんの日 」について、日本記念日協会の今日の記念日には、これ以降に記す7月25日の「かき氷の日」とは姉妹記念日となる予定・・・とも記載されていたが・・。
又、お天気の方へ戻るが、気温を左右する要因のうち最も大きいのが太陽エネルギーである。昼間の太陽高度が高いほどその量が多くなり、気温の上昇が早くなる。この太陽高度の差の影響で、高緯度地域にいくほど気温が低くなる。 太陽エネルギーを受けない夜間は気温が低下するが、大都市など熱を吸収する物体が多いところでは気温の低下が遅くなる。フェーンなどの風や、寒気や暖気などの大気の大きな塊も、気温を左右する。これには気圧配置が大きく関係する。
地形によっても気温は変化する。盆地砂漠では放射冷却が起きやすいため最高気温と最低気温の差が大きく、海辺では最高気温と最低気温の差が小さい。さらに標高が高いほど気温が低くなる。これを気温の逓減率といい、海抜0m~2000m付近では標高が100m高くなる毎に、気温は0.6°Cずつ低下するという。谷では冷風や熱風が集まりやすく、一時的な高温や低温に見舞われやすい。
最低気温があれば、当然、その反対に最高気温もある訳で、日本の気象官署アメダスにおける気温の最高記録は、昨・2007(平成19)年8月16日14時20分に岐阜県多治見市、同日14時42分に埼玉県熊谷市で記録した40.9°Cである。
読売新聞が報じた気象庁によるコメント(ここを参照)によると、原因として、多治見は高気圧の中心付近が上空にあったため、熊谷は秩父山系を越える北西の風によるフェーン現象のためとしている。
多治見と熊谷に更新される以前の1933(昭和 8)年7月25 日の山形市の記録は、40.8°Cであり、日本海を通過した台風によって発生したフェーン現象が原因とされるが、この台風では市の南西方向にある2000m級の飯豊連峰から盆地への吹き下ろしによるものであったという。 この日7月25日を、「かき氷の日 」として、日本かき氷協会が制定している。 かき氷のことを夏氷(なつごおり)と呼び、7月25日を7=な、2=つ、5=ごうりと読む語呂合わせとか。この日のことは以前に書いた。以下参考に記載の7月25日「夏氷の日」を参照してください。
異常気象が続いているが、これは地球温暖化問題や自然破壊問題の影響を受けたものだと考えられている。これからは、とんでもない最低気温の日や最高気温の日が発生するかもしれないね~。「中華まん」「かき氷」くらい食べたところで凌げないよ・・・。嗚呼!恐い恐い!
(画像は、豚まん。フリー百科事典Wikipediaより)
気温 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E6%B8%A9
中華まん - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E3%81%BE%E3%82%93
日本記念日協会/今日の記念日
http://www.kinenbi.gr.jp/
新宿中村屋 - 伝統の”菓史” - 中華まん
http://www.nakamuraya.co.jp/history/hist_01.html
林神社-饅頭伝来記
http://tokyo.cool.ne.jp/nara_hakken/bunkazaijisya/hayasijinjya-manjyuu.htm
福岡の観光・承天寺
http://averse.hp.infoseek.co.jp/kan/ka006.html
とらやホームページ・虎屋の歴史
http://www.dwc.doshisha.ac.jp/campus_info/library/search06.html

全国学校給食週間

2008-01-24 | 記念日
今日(1月24日)~1月30日は、「全国学校給食週間」
日本の学校給食の歴史は、1889(明治22)年に、山形県鶴岡町(現鶴岡市)の私立忠愛小学校においておにぎり・焼き魚・漬け物といった昼食を貧困児童に与えたのが初めての給食とされているようだ。その後、国の補助などを得て主に大都市を中心に全国的に学校給食が広がっていったが、このころの給食の目的は、虚弱児救済、就学奨励といった意味合いが強かった。しかし、1944(昭和19)年に戦争のため給食が中断された。
1945 (昭和20)年8月15日第二次世界大戦が事実上終戦。終戦後は物資・食料不足等により、日本中が飢えていた。とくに都市では食糧の配給がとどこうり、食べ物の恨みで歌舞伎俳優・12 代片岡仁左衛門一家5人が同居人に殺害される事件さえ起こる(以下参考に記載の片岡仁左衛門一家殺害事件参照)など、食糧危機は大きな政治問題になった。翌1946(昭和21)年も極端な物不足は変わらず、同年5月1日、1935(昭和10年)を最後に中断されていたメーデーが11年ぶり・戦後初めて、東京・皇居(宮城)前に50万人が集まって行われた。このメーデーでは、飯米獲得に絞った集会が計画され、それが同月19日の「飯米獲得人民大会」(食料メーデー)となり、皇居前に25万人が押し寄せることになった。この集会には、学校の教師に引率された小学生も多数参加し、給食復活などを訴えた。1945(昭和20)年10月大阪・鴻の池の主婦たちによって始まった「米よこせデモ」(以下参考に記載の「米よこせ風呂敷デモ」参照)に続くものである。この時のデモの様子は以下の歴史記録映像-昭和21年中期頃中の「米よこせデモ」を参照。
歴史記録映像-昭和21年中期頃
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/p-rek1/p-sho7/p-s50/IPA-rek650.htm
当時、厚生省(現厚生労働省)は全国の浮浪児4000人と推定したが、それは少なすぎる。同じ厚生省が後の1948(昭和23)年2月現在の戦災孤児が12万余と発表している。NHKの新番組「街頭録音」の主題は、「あなたはどうしてたべていますか」だった。浮浪児はかっぱらいなどでもしなければ食べて行けなかった。この頃のモノへのこだわりは特別であり、日本人のモノへの異常な執着心がこの後の日本人の精神をずっと支配することになったといえるかもしれない(アサヒクロニクル「週間20世紀」)。
本当に当時は戦争で親をなくした浮浪児が街に溢れていた。こんな浮浪児の事を思い起こしながらネットで、検索していたら、「浮浪児の歌」と言うのがあった。私は見ていないが、「ソビエト連邦には浮浪青少年があってはならぬ。彼等を青春溌刺たる且つ幸福なる市民たらしむべし」(レーニン)という主題を基にして作られたソ連邦最初の全発声芸術音画「人生案内」(1931年)の主題歌だそうである。その中にも、「盗みは悪い 分かっちゃいるが こんなヤクザな俺に 誰がしたのか」・・・と言うセリフが出てくる。戦後の日本の戦災孤児も生きてゆくためには、悪いと判っていても仕方なく盗むものもいたのである。マア、良い歌だからちょっと聴いてみたら。(映画の内容は、以下参考に記載のgoo-映画「人生案内」の解説を見られるとよい。
浮浪児の歌【Dm】映画「人生案内」主題歌
http://bunbun.boo.jp/okera/haho/furouji_uta.htm
このような、日本の子どもたちの悲惨な様子をみて、アメリカなどから「ララ(アジア救済公認団体)放出物資」という救援物資が送られてきた。主に脱脂粉乳や小麦粉といったもので、これらを使って戦時中から中断されていた学校給食が再会されることになり、先ず、同年12月24日、東京、神奈川、千葉の三都県の学校で全児童を対象に試験給食が行われた。
文部科学省では、これを記念して、この日は学校の冬休みと重なるため、1ヶ月遅らせて、毎年、冬休みと重ならない1月24日から1週間を全国学校給食週間としているようだ。週間中は、全国で学校給食の意義や役割について児童生徒や教職員、保護者、地域住民の理解と関心を深めるためのさまざまな行事が行われているのだそうだ。
私は、小学生1年の時に終戦を迎えた。戦時中は、地元神戸などは、空襲が激しく住んでいられなかったので先ず兵庫県内の高砂市にある父方の親戚に疎開し、そこで幼稚園に通っていたが、高砂も住んでいられなくなり、徳島県の母方の実家の方へ疎開し、そこで小学校に入学していた。学校へはゲートルを巻いてゆかねばならぬがそれが上手く巻けず、べそをかいていたことを思い出す。その田舎の学校での思い出としては、勉強のことよりも校庭で、いもほりのような畑仕事ばかりしていた記憶が強く残っている。疎開先の母の実家は地元でも特に大きな農家であり、お蔭で、疎開している間、私は、食料難の時代にもかかわらず食べ物に不自由をすることはなかった。しかし、終戦後直ぐに、父親だけが仕事のため残っていた神戸の家へ帰ってくると、疎開前の家は戦災で焼けたらしく別の場所で中古の家を買っていた。周りは、焼け野原なのに幸い部分火災で難をのがれ住んでいた人が大工の棟梁だったのでちゃんと補修してあった。そのうちを買い取ることが出来たらしい。しかし、食べる方には困った。父親も当時は商売で成功をしていたので金銭的に不自由していたわけではなかったが、食料などは配給制で、闇でなければ手に入らないし、その闇でもなかなか満足に手に入れれるものではなかった。転校した神戸の小学校も田舎と違って、戦火に合い、教室の窓ガラスも割れたままのみすぼらしい状態であった。
1947(昭和22)年1月、全国主要都市の児童約300万人に対し学校給食を開始した。アメリカから無償で与えられた脱脂粉乳での給食である。私も覚えているが、不味くて飲めたものではなかったが、それは、贅沢と言うもので、何でも食べれるだけでも幸せな子たちが殆どであったのである。同年4月から、新しい教育制度がスタートし、学校給食も始まった。それが米国産小麦粉から作るパンを主食とする完全給食になったのは、大都市では1950(昭和25)年からで、この給食はガリオア( GARIOA=Government Account for Relief In Occupied Areas)占領地救済資金、及びエロア (EROA=Economic Rehabilitation in Occupied Areas)占領地経済復興基金、からの援助による米国産の小麦の払い下げを受けて発足したものであるが、これは、翌1951(昭和26)年6月には打ち切られた。そのことから、国庫補助による学校給食の継続を要望する運動が全国で繰り広げられ、1952(昭和27)年から、小麦粉に対する半額国庫補助が開始されるようになり、4月から、全国すべての小学校を対象に完全給食が実施されるようになった。学校給食は、有料で給食費を払えず校庭で時間を潰す子もいたのである。
このガリオア基金などによる援助は、戦後の荒廃した日本の復興ににとって非常にありがたいものではあったが、ただ、この援助は、”米国における余剰農産物の処理から、本来占領地域に対する無償援助の「はず」であったものが、無償援助ではなく有償でもない、ただ資金を貸与されただけで、日本政府が騙されたのだ”という意見もある。本当かどうかの真実は知らないが、もし、ここに書いてある様なことが事実であれば、情けないことであるが、その後のアメリカのやっていることなどを見ていると、まんざらでもなさそうにも思う。興味のある人は、以下参考に記載の「食生活」の中に記されている「米国の食糧輸出戦略」のガリオア、エロア、ララ援助以降を読んで見られるとよい。
過去に遡って、アサヒクロニクル「週間20世紀」などを歴史書を読み直してみると、1953(昭和28)年のものの中に、「学校給食に『学校』格差」の記事があった。”父兄の負担が重くなる学校給食ーーとして、給食費未払いの学童は月ごとに増え、都内だけでも2万8000人に達している。来年度の学校給食の来年度政府補助は、ぐっと減って17億9000万円(昨年度24億2800万円)、学童1人当り2円20銭だが、物価高と補助費の減少は、「豊かな家庭をもつ学校」と、「貧しい家庭をもつ学校」との差をますますひどくしている。この当時で1食分の父兄負担の割合によって月の給食回数が4段階に分かれている”・・・・とあった。その中身にも差があったようだが、この時代なら確かに、まだまだ、貧しい家庭も多くあったよ・・・。
1954(昭和29)年、「学校給食法」が成立、公布され、法的に学校給食の実施体制が整えられた。そして、これまでと違い、食事についての正しい理解や望ましい習慣をはぐくむと同時に、学校生活を豊かにし、明るい社交性を養う・・・など、学校給食を教育の一環としてとらえていくことになった。そして、小学校の学習指導要領は1968(昭和43)年の改訂により、学校給食が「学級指導」の領域に位置付けられたそうだ。そして、学校給食が少しずつ、教育活動の一環としてかかわりをもつようになっていったという。又、1976(昭和51)年には「米飯給食(ごはんを主食にした給食)」が正式に位置づけられたようだ。
成長期の子どもたちには、昼の昼食も体をつくるための大事なものであり、その意味で、学校給食のあり方は大事な問題であると思うが、この給食費未払い問題が、最近マスコミを賑わしている。それも、昔のような貧困のためではなく、お金には困らない贅沢な暮らしをしている人などの未払いが多いと言う。以下参照。
学校給食ニュース: 学校給食の給食費問題(未納、督促、無料化など)
http://gakkyu-news.net/jp/010/013/post_206.html
上記を見ていると、北海道などでは少子化対策、人口減少に対抗するため学校給食費を無料化する自治体も出てきたという。贅沢をしながら我が子の給食費を支払わないなどといったことはとんでもないことであるが、今、日本の中では、地域間格差や貧富の格差なども広がっていると言われている。そして、少子化が進んでいることも大変な問題である。そのような中で、これからの日本を担ってゆかなければならない成長期の子供たちの”まともな食事”と言われるものは、どのようなものがよいのか、又、子供たちに”まともな食事”を供給するのに給食費の個人負担をどこまでするのがよいかなど・・・色々、戦後の時期とは違った面での考えていかなければいけない問題も増えてきているのだろうね~。
(画像は1947年1月10日、東京永田町国民学校での給食風景。朝日クロニクル「週間20世紀」より)
参考:
全国学校給食週間(文部科学省)
http://www.mext.go.jp/b_menu/gyouji/2004/04122201.htm
給食 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%B5%A6%E9%A3%9F
学校給食調査特別委員会報告書(鶴岡市藤島町議会)
http://homepage3.nifty.com/sizenrankato/sizenran/gakkoukyusyokuhoukoku.htm
学校給食米飯導入促進事業実施要領の制定について(文部科学省)
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19780620001/t19780620001.html
学校給食ニュース
http://gakkyu-news.net/jp/
学習指導要領 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%8C%87%E5%B0%8E%E8%A6%81%E9%A0%98
法政大学大原社研_主要食糧の配給と消費
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/rnsenji1-134.html
飯米獲得人民大会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%B1%B3%E7%8D%B2%E5%BE%97%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%A4%A7%E4%BC%9A
米よこせ風呂敷デモ
http://www.wcac.jp/f/f_01_2.html
片岡仁左衛門 (12代目)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%B2%A1%E4%BB%81%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80_%2812%E4%BB%A3%E7%9B%AE%29
片岡仁左衛門一家殺害事件
http://yabusaka.moo.jp/kataokaikka.htm
食生活
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-1.htm
columnI-9 日本の戦後復興
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/04_hakusho/ODA2004/html/column/cl01009.htm人生案内 (1931年)- goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD15074/
浮浪児の歌【Dm】映画「人生案内」主題歌
http://bunbun.boo.jp/okera/haho/furouji_uta.htm
ウラジーミル・レーニン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3
学校給食の歴史・日本編
http://www.nikonet.or.jp/~kana55go/rekisi/nirekisi.html
各種統計情報(学校給食実施状況調査)-文部科学省
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/index24a.htm
学校給食ニュース: 学校給食の給食費問題(未納、督促、無料化など)
http://gakkyu-news.net/jp/010/013/post_206.html

ワンツースリーの日

2008-01-23 | 記念日
今日(1月23日)は「ワンツースリーの日」
記念日協会によると、「123」で、掛け声の「ワンツースリー」とよむ。語呂合せ。
何か新しいことを始めるきっかけの日にと、起業を目指す人々などが制定した・・・とある。
♪ワン・ツー ワン・ツー ワン・ツー ワン・ツー

しあわせは 歩いてこない だから歩いて ゆくんだね
一日一歩 三日で三歩 三歩進んで 二歩さがる
人生は ワン・ツー・パンチ 汗かき べそかき 歩こうよ
あなたのつけた 足あとにゃ きれいな花が 咲くでしょう
腕を振って 足をあげて ワン・ツー ワン・ツー
休まないで 歩け ソレ ワン・ツー ワン・ツー  ♪

1968(昭和43)年11月に発売され水前寺清子 の大ヒット曲となった「三百六十五歩のマーチ」。作詞は、星野哲郎 、作曲は、米山正夫。昭和の名曲の1つである。以下でMIDIが聞けるよ。
三百六十五歩のマーチ(MIDI)
http://www.fukuchan.ac/music/j-sengo2/365honomarch.html
それまで演歌の本流とも言える楽曲をリリースし続けた水前寺の13枚目に出した歌謡曲ナンバーで、歌詞にも登場する「ワン・ツー・パンチ」というサブタイトルが付けられていた。題名のとおり一日一歩ずつ歩み続ける人生を励ますマーチ(行進曲)調の曲である。ジャケットの写真もそれまでの着物姿から一転、鼓笛隊のコスチュームに身を包んだ水前寺がバトンを手にポーズを決めたものとなっている。
この歌は、テンポのよいマーチのリズムが楽しく心地よいが、それ以上にとにかく歌詞が良い。「幸せは歩いてこない  だから歩いてゆくんだね」だけど、前へ前へと進むのもよいが、「 三歩進んで、二歩さがる 」ゆとりが、必要だ、そして、兎に角「汗かき べそかき 歩こうよ」そうすると、あなたの歩いていった 足あとにゃきっと「きれいな花が 咲くでしょう」と言うのである。まさに名言である。
良い歌と言うのはこのようにはっきりと分かりやすい言葉で表現するのがよい。そして、その詩を生かし元気付けてくれる曲。それを、歌手が表現する。作詞、作曲、歌手による三位一体の時代にあった音楽が昭和歌謡曲のよさであろう。それが、今の何か独りよがりの歌とは違って、聞いている人の心をうち、何時までも忘れられない歌となるのだろう。
第二次世界大戦における敗戦による荒廃や混乱も、1950年代の朝鮮戦争特需により1955(昭和30)年ごろには日本経済は戦前の水準に復興し、更なる高度成長が始まった。この経済成長の要因には、先ず最初に良質で安い労働力が、あったことが上げられる。1960年代には東京オリンピックの開催(1964年)やベトナム戦争(1959年 ~1975年)などによる特需があり、この歌が発売された年・1968(昭和43)年には国民総生産(GNP)が資本主義国家の中で第2位に達した。この経済成長は世界的に見ても稀な例であり、終戦直後の復興から続く一連の経済成長は「東洋の奇跡」と言われた。
それを底辺で支えてきたのが、先に述べた良質で安い労働力、つまり、働きバチといわれた、団塊の世代であった。日本の生活習慣が大きく変化した。社会的には、東海道新幹線が開業し、海外旅行も自由化される。文化的には、テレビ・電話機がほとんどの家庭に広がる。カラーテレビの普及がはじまり、レコードプレーヤーが一般家庭にも普及。 冷蔵庫・洗濯機・扇風機などの家電製品が生活必需品となった。日本の鉄道輸送がピークに達し、 自動車の普及が始まり、モータリゼーションが本格化する。 大都市で地下鉄が次々に開通し、路面電車の多くが廃線されていった。 そして、都市部(とりわけ太平洋ベルト地帯)への人口流入が続き、住宅団地が多く建設される。大都市郊外に低質な住宅が次々供給され、スプロール化が進んでいた。
兎に角、国民は敗戦後の荒廃から抜け出すべく、前を向き、123(ワンツースリ),123(ワンツースリ)と休みも録に取らず、家庭をも顧みず必死に働いてきた。植木等の「スーダラ節」が大ヒットしたのが1961(昭和36)年のことではあるが、そのようなスーダラ的な生き方はまだまだ夢の段階であり、「しあわせは 歩いてこない だから歩いて ゆくんだよ」だが、「三百六十五歩のマーチ」の歌が大ヒットしたころには、やっと一息つきながら後のことをも振り返りながら歩むべき時代になったというべきか・・・。
そして、気がついてみると、環境汚染、環境破壊などといった環境問題 が進み四大公害病の発生、都市の過密と地方の過疎など深刻な問題が発生していた。今は、「123、123」とがむしゃらに前進じゃなく「3歩歩いて2歩下がり」歩いてきた道を反省しながらゆっくり前進する時代だと思うがね~。
(画像は、CD、水前寺清子 「三百六十五歩のマーチ/真実一路のマーチ/ウォーキングマーチ 」)
水前寺清子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%89%8D%E5%AF%BA%E6%B8%85%E5%AD%90
三百六十五歩のマーチ
http://www.fukuchan.ac/music/j-sengo2/365honomarch.html
高度経済成長 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BA%A6%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%88%90%E9%95%B7
団塊の世代 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%A1%8A%E3%81%AE%E4%B8%96%E4%BB%A3
環境問題 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E5%A2%83%E5%95%8F%E9%A1%8C
環境汚染(環境)
http://greenwood.cpm.ehime-u.ac.jp/sato/link/pollution.html