今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

歌舞伎狂言作者・河竹默阿彌の忌日

2008-01-22 | 人物
今日(1月22日)は、歌舞伎狂言作者・河竹默阿彌(2世河竹新七) の1893(明治26)年の忌日。『三人吉三廓初買』『青砥稿花紅彩画』等の人気狂言を書き、近松門左衛門、鶴屋南北とともに、三大歌舞伎作者の一人とされている。
歌舞伎 の語源はカブく(「傾く」が原義)の連用形からとされている。異様な振る舞いや装いをカブキといい、それをする人物をカブキ者と言った。歌舞伎の醍醐味はケレン味のある演出だといわれるのは、こういった背景にも由来する。つまり歌舞伎というのは当て字であるが、歌い、舞い、伎(技芸、芸人)を意味しており、この芸能を表現するのには最も適切な文字だといえる。
歴史的には、1603(慶長8)年に、北野天満宮で興行を行い、京都で評判となった出雲阿国(いずものおくに)が歌舞伎の発祥とされている。
歌舞伎は成立の過程から歌舞伎踊りと歌舞伎劇に分けられるともいう。前者は若衆歌舞伎までを言い、流行の歌に合わせた踊りを指す。また、その後に創作された踊り主体の演目も含める場合もある(歌舞伎舞踊参照)。一方、後者は江戸時代の町民に向けて製作されるうちに、現代に見られるような、舞踊的要素を備えた演劇となった。
江戸時代の中期までは、上方で創作された歌舞伎狂言の比重は大きい。それは、上方が中心であった人形浄瑠璃から移植された演目の数からもわかる。
元禄期(1688~1704年)、京都では洗練された公家文化の伝統の上に「和事」と呼ばれる優雅な様式が生まれる。初代坂田藤十郎はその代表である。一方、江戸でも初代市川団十郎が創始したとされる「荒事」が、武士階級を中心として形成された新興都市の荒っぽい気風にあって喜ばれた。享保から宝暦にかけて、歌舞伎は沈滞の時期を迎えるが、これに代わり、大坂で、人形浄瑠璃が隆盛した。近松門左衛門の『国性爺合戦(こくせんやがっせん)』が成功してからと言うもの、人形浄瑠璃の当り狂言をすぐに歌舞伎に移して上演する傾向があらわれる。この結果歌舞伎は人形浄瑠璃の繁栄の陰に押しやられていた。『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』など、現代の歌舞伎における「丸本物(まるほんもの)」の代表的なものの名作はこのころ創作され、直ちに歌舞伎に移された作品である。この頃、初代瀬川菊之丞、初代中村富十郎ら名女形の活躍により「所作事」が確立される。宝暦の末頃、人形浄瑠璃の力が衰えると、歌舞伎は再び活気を取り戻した。特にこの時期には、部隊構造が発達、せり上げや廻り舞台が生み出されたため、多彩な変化に富んだおおがかりな作劇や演出が可能になった。上方の名作者初代並木正三の功績が大きいという。明和以降安永、天明を得て寛政に至る時期は、江戸の庶民文化が最高潮に達した時期であり、初代中村仲蔵を代表とする天明歌舞伎が開花した。天明の末頃から、江戸歌舞伎に写実的な演技が流行し、次の時代の「世話物」を生み出す基盤となる。上方の作者初代並木五瓶は写生的・合理的な作劇にすぐれていた。五瓶は、1794(寛政6)年江戸に下り、上方風の合理的な作劇法を江戸にもたらした。そのことにより、長い間の江戸歌舞伎の伝統だった構成法を使いながら、写実的な手法を徹底させるという、極めて独創的な作劇法を生み出したのが、4代目鶴屋南北であった。
「世話物」と呼ばれる南北劇の主人公は、社会の最下層を生きる人達であった。彼は、封建道徳や社会秩序に縛られて窮屈に生きねばならない人間の悲しさ・むなしさを描く反面、本能的欲望の赴くままに、自由奔放に生きる人間の強靭さ、したたかさを描いた。その結果、濡れ場、殺し場、責め場など官能的な演技が写実的に繰り広げられ亡霊の登場する怪奇の世界も大胆に舞台化した。「東海道四谷怪談」などはその特徴を良くあらわしている。1841(天保12)年、天保の改革の一環として、江戸三座は浅草の猿若町に移転を命じられた。これ以降の歌舞伎界を代表する作者が、河竹黙阿弥である。
彼は、1816年3月1日(文化13年2月3日) 、江戸日本橋の商家に生まれ、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者で、本名は吉村芳三郎という。
14歳のときに道楽が過ぎて実家から勘当され、その後貸本屋の手代となり狂歌、茶番、俳句などで活躍。1835(天保6)年に、五代目鶴屋南北の門下となり勝諺蔵(かつげんぞう)となる。抜群の記憶力で、「勧進帳」の台詞を暗記して舞台の後見を努め、七代目市川団十郎が、立作者になってからはしばらくヒット作に恵まれなかったようだが、1853(嘉永7)年名優市川小團次に書いた『都鳥廓白波(みやこどりながれのしらなみ)』(通称:忍の惣太)が出世作で、以後、幕末期には小團次と提携し『三人吉三廓初買 (さんにんきちさくるわのはつかい)』や『小袖曾我薊色縫(こそでそがあざみのいろぬい)』(通称:十六夜清心(いざよいせいしん))など数々の名作を発表する。また、三代目澤村田之助には『処女翫浮名横櫛(むすめごのみうきなのよこぐし)』(通称:切られお富)、十三代目市村羽左衛門(のちの五代目尾上菊五郎)には『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』(通称:弁天小僧)『粋菩提悟道野晒(ごどうのざらし)』(通称;野晒悟助)を書いている。
1866(慶応2)年の小団次死後から明治になっても創作力は衰えず、「團菊左」(九代目市川團十郎・五代目尾上菊五郎・初代市川左團次)という三人の名優を擁した歌舞伎界の重鎮として活躍。生涯に発表した作品数は300余といわれる。
坪内逍遙は、黙阿弥のことを「江戸演劇の大問屋」「明治の近松」「我国のシェークスピア」と高く評価したという。急激な演劇の近代化に限界を感じ、1881(明治14)年團菊左のために書かれた散切物(ざんぎりもの)の大作『島鵆月白浪( しまちどりつきのしらなみ)』(通称:島ちどり)を一世一代として発表後、引退し黙阿弥と改名。晩年は自作脚本を全集本「狂言百種」として発売し歌舞伎の普及に努めた。
「月も朧(おぼろ)に白魚の篝(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに心持よくうかうかと、浮かれ烏のたゞ一羽塒(ねぐら)へ帰(けえ)る川端で、棹の雫か濡手で泡、思いがけなく手に入る百両」・・・黙阿弥の代表作の一つ『三人吉三廓初買』の冒頭の台詞である。「八百屋お七等の説話を背景としたお嬢吉三、お坊吉三、和尚吉三の三人吉三の盗賊物語に、文里、一重の情話をないまぜた世話狂言である。
大川端で夜鷹を蹴落として手に入れた百両に満悦のていのお嬢吉三(おじょうきちさ)、だがそれを見ていたお坊吉三(おぼうきちさ)はその金をよこせと横車、二人はたちまち立ち回りを演じる。その間に割って入ったのが和尚吉三(おしょうきちさ)、いずれも腕一本に生きる無頼の徒、たちまち意気投合して血盃(ちさかずき)をかわすが……金と欲にくわえて因果のしがらみに翻弄される人々をリアルに描いた黙阿弥の「白浪物」の代表作である。これも面白いが、私の好きなものに「弁天小僧」がある。
「知らざあいって聞かせやよう。浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、その白波の夜働き・・・」ご存知弁天小僧が朗々とうたい上げる七五調の名せりふ。これもいいね~。
美貌の武家娘に変装した盗賊の弁天小僧は、仲間の南郷力丸を共侍に仕立て、雪ノ下の呉服問店は浜松屋へ行き、万引きしたように見せてわざと咎めさせ、盗人の悪名を着せた上に額に疵をつけたと言いがかりをつけたて、百両の金をゆすり取ろうとする。しかし、来合わせた玉島逸当と名乗る黒頭巾の武家に男と見破られ引き上げる。ところが、その武家は実は、盗賊の頭領日本駄右衛門が弁天小僧の化けの皮をはがして見せたのは、主人をはじめ店の者を信用させるものだったとわかる。この芝居には、もう一つどんでん返しが用意してあるが、見せ場は弁天と南郷のゆすりのみごとさ・おもしろさ、可憐な美女と思ったのが腕に桜の彫物を入れた盗人だったという意外性、島田髪に女性の化粧のまま、肌もあらわに尻はしょり大あぐらをかき、煙管をもてあそびながら男の声で七五調のセリフをうたい上げるという、何とも倒錯的、官能的な悪の華の賛美などにある。
黙阿弥の歌舞伎の特徴は、これらの舞台に見られる「黙阿弥調」と称される七五調でリズム感のある華麗な台詞にある。「世話物」に本領を発揮した。内容的には白浪物(盗賊が主人公となる)を得意としたが、そこに登場する悪人たちは、むしろ小心で因果に翻弄される弱者である。鶴屋南北と比較されることが多いが、ふてぶてしい悪人が登場する南北の歌舞伎との大きな相違点である。市井の底辺社会を写実的に描く反面、下座音楽や浄瑠璃を駆使した叙情性豊かな作風である。
誰が見ても楽しめる面白さから、これらは、歌舞伎の世界だけでなく演劇や映画などでも多くの俳優によって演じられてきた。又、見たいね~。
※このブログは2007-01-23 に書きましたが、忌日を22日を23日と勘違いしたため、2008年の今日前のものを取り消し、今日22に振り替えました。すみません。
(画像は、歌舞伎画。「弁天小僧菊の助:市村羽左衛門」。「おぜう吉三 :岩井 粂三郎」いずれも、絵師::豊国。以下参考の演劇博物館所蔵「浮世絵閲覧システム」より借用)
歌舞伎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E
歌舞伎
http://www.palette532.com/~inui/folklore/j-maturi19.html
私立PDD図書館
http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/biography/kawasa.htm
歌舞伎事典 目次
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc_dic/dictionary/index.html
歌舞伎素人講釈
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/index.htm
北野天満宮 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE
演劇博物館所蔵「浮世絵閲覧システム」
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/default.htm


腹切り問答の日

2008-01-21 | 歴史
今日(1月21日)は、腹切り問答の日。
腹切り問答とは、衆議院本会議中に立憲政友会浜田国松代議士と寺内寿一陸相との間で起こったやりとりで、結果的に広田弘毅内閣の瓦解に繋がった事件で、割腹問答ともいう。
1881(明治14)年10月、「国会開設の詔」が発せられ、10年後の国会開設が約束され、その4年後に内閣制度が発足。帝国議会開設は1890(明治23)年と決定し、議事堂建設の取り組みが始まったが、計画は設計の段階から難航し、財政難を理由に当面は仮議事堂で急場をしのぎ、新議事堂建設計画などもあったが度重なる火災や震災などで建設は遅れ、やっと、新議事堂の完成も押し迫った1936(昭和11)年2月26日には、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げてニ・ニ六事件が発生、陸軍武装青年将校の一群が永田町一帯を占拠した。29日早朝に武力による鎮圧が決定されると、東京湾御台場沖には海軍の軍艦40隻が集結、永田町に艦砲射撃の照準を合わせて反乱軍を威嚇。反乱部隊は同日抵抗もせず帰順し、反乱は敢え無く失敗に終わった。そして、二・二六事件の責任をとり岡田啓介内閣が総辞職した。当時の総理大臣は最後の元老であった西園寺公望が天皇の御下問を受けて推薦していた。このとき西園寺はまず近衛文麿を推し、初めに近衛に組閣命令が下ったが、近衛は、病気を理由に辞退。そのため西園寺は岡田内閣の外相であった広田弘毅を候補に挙げ、天皇から広田に組閣大命が下ったのが1936(昭和11)年3月5日のことであった。組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平がでたという。好ましからざる人物として指名されたのは吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直(法相)、下村海南中島知久平である。吉田は欧米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務し、小原、下村らも辞退、川崎を商工相に据えることになり3月9日、広田内閣が成立した。
就任後はニ・ニ六事件当時の陸軍次官、軍務局長、陸軍大学校長の退官・更迭、軍事参事官全員の辞職、寺内ら若手3人を除く陸軍大将の現役引退、計3千人に及ぶ人事異動、事件首謀者の将校15人の処刑など大規模な粛軍を寺内寿一に実行させた。しかし軍部大臣現役武官制を復活させ、軍備拡張予算を成立させるなど軍部の意見を広範に受け入れることとなる。
1937年(昭和12年)の今日・1月21日、着工から実に17年を経て昨年11月に完成した新議事堂(現・国会議事堂)で、第70通常国会が開催された。
この日午後におこなわれた衆議院では、立憲政友会の長老浜田国松が代表質問者として登場。五・一五事件以来の軍部の政治関与を厳しく批判した。これを聞いた寺内陸相は答弁に立って、「軍人に対して聊(いささ)か侮辱するかのようなごとき感じ」と応じたが、浜田は、「軍隊を侮辱した言葉があったら、割腹して君に謝する。なかったら君割腹せよ」と迫った。そして、政党と陸軍が正面衝突、寺内寿一陸相が広田に衆議院解散を要求、広田は議会を解散するつもりがなかったため閣内不統一を理由に内閣総辞職を行なった。
広田の後任として、元老・西園寺公望は、政党内閣の陸相を長く勤めた宇垣一成を次期首相に推薦した。しかし、宇垣の政治力を恐れた陸軍が軍部大臣現役武官制をたてに陸相を出すのを拒んだため、宇垣は組閣を断念。替わって元陸相林銑十郎に組閣大命が下り、2月2日に林内閣が成立した。林内閣は、政治綱領で、国体観念の明徴(めいちょう 。はっきりと証明すること)、敬神尊皇をうたい、「祭政一致」の神がかり内閣と呼ばれた。しかし、軍事費中心の予算を無修正で可決するなど、抵抗らしい抵抗もしなかったが、軍部や右翼の政党批判に推されて、林内閣は議会最終日の3月31日に抜き打ち解散をする。国民はあっけにとられて、「食い逃げ解散」と呼んだ。しかし、この解散はこれまでの政党にかわる親軍的政党を作り出そうとしたようだが、総選挙で未曾有の敗北を喫し、西園寺ら宮廷グループ、陸軍も林内閣を見放し、5月31日、僅か4ヶ月で林内閣は総辞職した。その後を受けて、6月4日、国内の「対立・相克」の緩和をはかるべく近衛第1次内閣が成立する。この時点では、総力戦体制を急速につくろうとする軍部、革新官僚、既成政党分派、その体勢の中で社会的格差の解消をはかろうとする無産政党一部の勢力と、経済統制(以下参考に記載の※統制経済参照)に反発する財界主流、既成政党の「自由主義」勢力と、それらと「強調」する一部の無産運動などが整理されないまま存在していた。しかし、近衛内閣成立1ヵ月後の7月7日に起きた盧溝橋事件は、総力戦体制を急速につくろうとする軍部などの方向を決定的なものにし、やがて、国を挙げての翼賛体制(大政翼賛会参照)の中に政党は消滅していった。日中戦争(支那事変、日華事変)が始まると近衛内閣は、9月11日、国民精神総動員大演説会を日比谷公会堂で開き「時局に慮する国民の覚悟」を呼びかけた。こうした動きに対して、政友会民政党は内紛、党略などから反対運動を起こせず、社会大衆党も戦争協力の姿勢を明らかにするなど、時局への影響力を失っていた。(アサヒクロニクル「週間20世紀」)
何か、当時の政治でも、内紛や党略などによって、混迷した時局の政治的解決が出来ない状況を見ていると、もし今の日本の政治家などでは当時のような状況ではやはり何も出来なかった。いや、それ以上に、頼りにはならなかったのだろうな~。今の独断専横の自民党や体制にへばり付いている公明党、頼りにならない民主党、反対ばかりしている共産党など見ていると、これからの日本がどこへ行くのやら見当ももつかない感じがするね~。1人ぐらいは、私の言っていることが間違っていれば腹を切る。貴様が言っていることが間違っていれば腹を切れ」ぐらいいえる奴はいないだろうか。自分の言った事や約束事を出来なかったり非難されると、べそをかいたり、直ぐ方向転換したりしている頼りない政治家を見ていると本当に軽蔑したくなるよね。
(画像は、「割腹問答」時の険しい表情で浜田議員に反駁する寺内陸相、奥が広田総理。フリー百科事典Wikipediaより)
腹切り問答 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B9%E5%88%87%E3%82%8A%E5%95%8F%E7%AD%94
国会議事堂 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E4%BA%8B%E5%A0%82
政党内閣 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E5%85%9A%E5%86%85%E9%96%A3
祭政一致 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%AD%E6%94%BF%E4%B8%80%E8%87%B4
総力戦研究所- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E5%8A%9B%E6%88%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80
総力戦体制 - naow
http://www.wikiroom.com/naow/?%C1%ED%CE%CF%C0%EF%C2%CE%C0%A9
(強まる戦時体制) 日中戦争の勃発と戦時体制(1937年のうごき )
http://www5b.biglobe.ne.jp/~leaper/senjitaisei.htm

二十日正月

2008-01-20 | 行事
今日(1月20日)は「二十日正月」
「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」
これは、室町時代臨済宗で、京都の大徳寺を本山とする大徳寺派を復興させた禅僧一休宗純・・・などというよりも、あの「一休さんの頓知咄」で有名な僧が詠んだ句 (『狂雲集』) である。
前に、本来お正月というのは、年の初めにあたって、一年間家を守ってくれる歳神さま〈お正月さま〉を迎える行事で、門松は歳神さまの依代(よりしろ)であり、神さまが降りてくる目印と考えられていた。また、鏡餅は歳神への供え物であり、各家で歳神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに歳神への供え物を供えた(歳徳神参照)。
正月」とは、中国から来た言葉で本来は、旧暦1月の別称だが、現在では新暦正月の事を意味し、旧正月をわざわざ旧と断っている程である。現代では通常1月1日から1月3日まで(三が日=さんがにち)、または「松の内」を指すことが多いが、1月7日(七日正月、人日の節句)、1月11日 (鏡開き)、14日また15日(小正月)までとすることが多いが、1月20日までを正月とすることもあり、1月20日を「二十日正月」と呼ぶ。(本来はいずれも旧暦)。
明治時代まで、色町でも町家でも盛んにうたわれた手まり唄で、1年12月の季節の変化や大阪の年中行事を読み込んだ「ジュウニツキ【十二月】」というものの最初の正月に以下のように歌われている。
「トントトントントトン二上り 
   先ず初春の、暦開けば心地よいぞや皆姫はじめ、
   ひとつ正月年を重ねて、弱いお客はつい門口で、
   お礼申すや、新造かむろは例のかわらけ取りどり、
   なずな七草囃し立つれば、心いきいきついお戎と、
   じっと手に手を〆の内とて、
   奥も二階も羽根や手まりで拍子そろえて、
   音もドンド(左義長、大阪でトンド)と突いてもらえば、骨正月や」
以下参考に記載の世紀末亭【上方落語メモ第6集】その290 「狸茶屋」より抜書きさせてもらった。
二十日正月は、「松納め」、「正月送り」また、「あがり正月」などともいい、正月の終りとなる節目の日であり、かつては正月の祝い納めとして仕事を休む物忌みの日であった。万事のんびりした昔の人もこの日の行事をもって正月を終了したようだ。
「鏡開き」は、正月に年神様にお供えした鏡餅を雑煮や汁粉にしていただくことによって、一家の今年1年の円満と無事息災を願う行事であり、鏡餅は神棚や床の間などに飾った。
京阪神地方では、二十日正月に、正月に供えた鏡もちを食べたり、正月に用いた(ブリ)の骨や頭を酒粕・野菜・大豆などと一緒に煮て食べる風習があったことから、前の歌にも出てくる「骨正月」ともまた「頭正月」とも言っていた。鰤(ブリ)は、小より大に至るに従って次第に名を変える出世魚。人も師の教によって心の徳が増し成長する。そこで、縁起のよい魚偏に師(鰤)の字をあてたと言われている。昔は年末に、正月用の鰤を一尾まるごと買い荒縄で縛って、はしり(台所の流し)などに吊るしておき、少しずつ切り取り料理した。20にもなるともう、身もほとんどなくなるがそのような頭や骨ばかりになったような鰤や神棚からのお下がりの硬くなった餅や串刺しの干し柿などを食べ尽くした。そして、この日に小正月の飾り物も取り納め仕事始めとする。当日、乞食正月と称して、乞食が家々を回って残り物をもらうという地方も昔はあったようだ。他の地方でも正月の御馳走や餅などを食べ尽くす同様な風習があるようだ。
このブログ1月11日「鏡開き」でも書いたが、現在は11日を「鏡開き」をするが、今のような「鏡開き」(行事)は、近世に始まり、もともとは武家社会の風習だったものが一般化したもののようで、この風習は室町時代(14世紀頃)から行われていたようである。武家では「具足開き」と言い、男性は具足(鎧や兜のこと)にお供えした「具足餅」を、女性は鏡台にお供えした「鏡餅」をそれぞれ雑煮にして食べたことが始まりのようである。民間では諸日あったようであるが、古来、正月は、20日が祝い納めであったようだ。武家では一般 に20日に鏡餅をおろし「20日祝い」と言っていたようである。しかし、徳川3代将軍家光の忌日が20日(慶安4年4月)であったために、11日に改められめられたと伝えられている。武家社会では”切る”は切腹を連想させるため忌み、刀で餅を切ることはせずに槌などで割った。だから「鏡開き」の「開き」は「割る」の忌み詞でもある。
パーティーなどで酒だるのふたを木づちで割ってあけることことを鏡割りとも言うよね。皆さんは、鏡開きはどうされましたか?
「松過の又も光陰矢の如く」   高浜虚子
いや、この年になると、日の経つのが早いこと。年々早くなり、それは、まさに、光陰矢の如しだよ・・・・(×_×)。
(画像はぶり大根。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
Wikipedia - 二十日正月
http://ja.wikipedia.org/wiki/二十日正月
歳神
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E7%A5%9E
オキナワカルチャーアーカイブ/二十日正月
http://www.culture-archive.city.naha.okinawa.jp/html/b_contents/10042000.html
1月11日「鏡開き」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/42cfc37f1ef9cf838bd1740e9bf16faa
一休宗純 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%91%E5%AE%97%E7%B4%94
松岡正剛の千夜千冊『狂雲集』一休宗純
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0927.html
鏡開き - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E9%96%8B%E3%81%8D
「鏡開き」をまるごと解明! - [暮らしの歳時記]All About
http://allabout.co.jp/family/seasonalevent/closeup/CU20070102A/
世紀末亭【上方落語メモ第6集】その290 「狸  茶  屋」
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug290.htm
高浜虚子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%B5%9C%E8%99%9A%E5%AD%90
高浜虚子 新年の句
http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/haiku/kyoshisinnen.html


皇室会議において皇太子徳仁親王の婚姻の相手を外交官の小和田雅子と決定

2008-01-19 | 歴史
1993年(平成5年)1月19日、皇室会議において皇太子徳仁親王の婚姻の相手を外交官の小和田雅子と決定。同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。
徳仁親王(なるひと しんのう)は、1960(昭和35)年2月23日、当時皇太子であった今上天皇明仁)と皇太子妃であった皇后美智子の第一皇子として、宮内庁病院で誕生した。
同年2月29日には、命名の儀が執り行われ、名は徳仁(なるひと)、称号は浩宮(ひろのみや)とされた。「徳仁」は四書五経の『中庸』を典拠として祖父昭和天皇が命名した。
美智子さまは、1959(昭和34)年4月10日、皇太子明仁親王(今上天皇)と結婚、明治以降初めての民間(士族以下)出身(日清製粉社長令嬢)で皇太子妃となっ方である。明仁親王と出会ったときから非常に話題を呼び、皇太子妃に迎えられることが発表されたときから、ミッチー・ブームが起こった。
美智子妃が、ご懐妊に際しては母子手帳が発行され、皇居宮殿内の御産殿で出産を行わないなど、それまでの皇室の慣例によらない、戦後初の内廷皇族の皇子誕生も、広く国民に注目されたが、そんな 皇太子夫妻による子育ても、国民の関心の的となった。
天皇家には、子供を生後間もなく両親の元から離し、しかるべき臣下の家に預けられる習慣があり、昭和天皇は生後70日で枢密顧問官伯爵川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育された。そして、1908(明治40)年、学習院初等科に入学し、学習院院長・乃木希典(陸軍大将)の厳格な教育を受けた。初等科在学中の1912(大正元)年、皇族身位令(皇族身位令については、以下参考に記載の「中野文庫 - 皇族身位令」参照)の定めにより陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第一連隊および第一艦隊附となった。1914(大正3)年3月、学習院初等科を卒業した。父・明仁陛下も生後3ヶ月ではなかったものの満3歳で両親のもとを離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって育てられる。 1944(昭和19)年、戦火の拡大により、はじめは栃木県日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光・湯元の南間ホテルに疎開し、当地で敗戦を迎え、終戦後帰京。しかし、皇太子は陸海軍少尉に任官するのが常であり、軍部からも要請があったようだが、昭和天皇の意向で任官していないため、軍歴はない。 また、1946(昭和21)年10月から昭和1950(昭和25)年12月まで、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ぶ」という方針に従い、アメリカ合衆国の著名な児童文学者にして、狂信的でないクリスチャンであるクエーカー教徒のエリザベス・グレイ・ヴァイニング(ヴァイニング夫人。以下参考に記載の「ヴァイニング夫人の思いで」参照)が家庭教師として就き、民主主義の教育を受けられた。
このような、皇太子夫妻(明仁皇太子と美知子妃)は、長年にわたる宮中の因習を改め、乳入制度も廃止し、「あづかれる宝にも似てあるときは吾子(わご)ながらかひな畏れつつ抱く」1960年、徳仁親王を生まれたときの皇后陛下のみ歌)と徳仁親王(今上天皇の第一皇子であるため、現在の身位は皇太子であり、(皇室典範による、皇位継承順位第1位である)に、専任の養育係を置かず、しっかりと自分の胸に抱き、夫妻のみによって子育てを行った。皇太子夫妻の元で、弟の礼宮(秋篠宮文仁親王)、妹の紀宮(黒田清子)とともに育つ浩宮たちの様子は、マスコミを通じてしばしば公表され、一般国民の感覚に近い戦後の幸せな家庭像を描くとともに、新しい皇室像の形成にも大きく寄与した。又、徳仁親王は学業についても、幼稚園から大学院までを一般学生と同じコースで一緒に学んだ。そして、それまでの皇族が、生物学を中心とした自然科学を専攻したのに対して、徳仁親王は史学、中世の交通・流通史という人文科学・社会科学に近い分野を専攻したライフワークとして歴史学を学んだ。
1989(昭和64)年1月7日、昭和天皇の崩御により、今上天皇が践祚。これに伴い、徳仁親王は皇太子に就いた。今上天皇の即位の礼などを経て、1991(平成3)年2月23日、満31歳となった日に立太子の礼(以下参考に記載の宮内庁ホームページ「用語について」参照)が執り行われた。そして、1993(平成5)年の今日(1月19日)、皇太子徳仁の婚姻に関する皇室会議は、時の宮沢首相以下10人の議員が出席し、全会一致で外交官の小和田雅子を婚姻の相手に決定。同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。皇太子はお妃選びは『自分で決める』という思いをたびたび口にされて、そして、自分を信じる両親に対しても「自分が『この人なら』と紹介するひとなら喜んでくれるはず」と強い信頼感を示していたという。そして、出会い。小和田雅子さんと始めてあったのは1986(昭和61)年10月東京・元赤坂の東宮御所(現赤坂御所)で開かれた茶会の席だった。1987(昭和62)年秋までに4回顔を合わせたがその後5年間交際は途絶えたが「プロセスが大切。お互いが何回か合うことが必要」の言葉どうり、機が熟すのを待ち、1992(平成 4)年夏再会。同年冬思いを遂げられた。きっとご両親や周辺の人達も早いご成婚を願っていただろうが、マスコミや国民も長い時間を要したことに、少々、イライラさせられたものであったが兎に角、目出度し、目出度しであった。
2001(平成13)年12月1日には、長女・愛子内親王が誕生。
2004(平成16)年5月10日、ヨーロッパ歴訪前の記者会見において皇太子徳仁の「人格否定発言」が報道機関に大きく取り上げられ(人格否定発言参照)、皇室及び宮内庁が問題を抱えていることを浮き彫りにした。また、そのことから実父である今上天皇や実弟である秋篠宮文仁親王宮内庁からの批判も受けた。
その後、雅子妃の健康問題、皇太子の公務に対するご発言に様々な意見が出た。とりわけ、男子の誕生がないことなどから、皇室典範改正問題(皇位継承問題 参照)などが取沙汰されることとなった。
そして、昨・2006(平成19)年9月6日、雅子妃に先駆けて秋篠宮妃紀子悠仁親王を出産した。現在のところ、悠仁親王が皇位継承順第3位であり、今上天皇の孫の世代では唯一の皇位継承権者である。皇太子徳仁、雅子妃には複雑な心境であろうが、とりあえず、天皇の皇位継承問題については、今しばらくの時間的猶予が出来たといううことか。
皇太子徳仁・雅子妃及び皇室関係のことに関することはこれ以上述べるつもりはない。
最後に、先に、美知子妃(皇后)の子育てについて述べたが、その中でも、1960(昭和35)年9月22日~10月7日、生後7ヶ月の徳仁親王から離れて皇太子夫妻は、幕末より数えての日米修好百周年を記念し、アメリカ合衆国より招待された。その訪米をする際に、美知子妃が側近の世話係へ書き置いた育児メモ「ナルちゃん憲法」が、子供を預けて働く母親たちの子育て指針として大きな共感を呼んだ。「ナルちゃん」とは、もちろん浩宮徳仁(なるひと)親王の“なる”から名づけられたもので、子供の躾の方針を示した手記であるが、それが、40余年の時を超えて、昨・2006(平成19)年9月、悠仁親王誕生に合わせたように、 日本文芸社 より同じ「ナルちゃん憲法」(松崎 敏弥 著)のタイトルで出版されている。私達の年代の女性なら知らない人はいないだろう「ナルちゃん育児法」であるが、美智子さまから紀子さまへの育児メッセージとして囁かれているのが本書である。今の時代に小さな子を持つワーキングウーマンンの育児書としても役にたつだろう。子育て中の若い女性なら一読しておくと良い。以下参考に記載の「美智子さまのナルちゃん憲法 - [幼児教育]All About」など参照されるとよい。
(画像は、1月19日、ご婚約が決まり東宮仮御所で記者会見をされている皇太子と雅子さま。アサヒグラフ・臨時増刊アルバムより)
参考:
徳仁親王 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
中野文庫 - 皇族身位令
http://www.geocities.jp/nakanolib/kou/km43-2.htm
ヴァイニング夫人の思いで
http://subsite.icu.ac.jp/prc/bird/bird-song/72.html
つれづれなるままに /愛しの増田恵子様の日記
http://plaza.rakuten.co.jp/pinkladylove/diary/?PageId=1&ctgy=10
日米修好通商条約 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E9%80%9A%E5%95%86%E6%9D%A1%E7%B4%84
用語について(宮内庁ホームページ)
http://www.kunaicho.go.jp/language/language-06.html
美智子さまのナルちゃん憲法 - [幼児教育]All About
http://allabout.co.jp/children/infanteducation/closeup/CU20020107A/
ナルちゃん憲法
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000031773608&Action_id=121&Sza_id=A0

「熊沢天皇」が出現した日

2008-01-18 | 歴史
1946(昭和21)年の今日(1月18日)、 「熊沢天皇」が出現。
日本は、1945年8月第二次世界大戦で降伏し終戦を迎えた。敗戦後の翌・1946(昭和21)年の元日には、昭和天皇が人間宣言を発し、万世一系の皇室神話も崩壊したが、その直後の1月18日、 もう1人の天皇が出現した。名古屋で洋品雑貨商を営む熊沢寛道 が上京し、「南朝正統を継ぐ神武天皇114代」を自称して名乗りを上げた。最初に米軍の「星条旗( Stars and Stripes=スターズ・アンド・ストライプス)」紙がその存在を紹介し、「タイム」「ライフ」などのアメリカの雑誌がなどにも取り上げられ大ニュースとなった。米紙などに続き日本の新聞各社が彼を「熊沢天皇」と呼んで取り上げたので、熊沢は一躍有名人となった。もっとも、天皇を自称する人は当時そう珍しくはなく、20人近くを数えたという。
熊沢は、「南朝の流れを汲む天皇家の末裔であると養父(熊沢大然=くまざわ ひろしか)に教えられてきたといい、熊沢の主張では、"熊沢家は、足利氏に帝位を追われて尾張国時之島(愛知県一宮市)に隠れ住んだ南朝の後亀山天皇の子孫で、南朝9代目天皇である熊野宮信雅王に始まる家である。 彼自身は分家からの養子だが、系図上は養父とともに南朝の後亀山天皇の実系の男系子孫ということになっている"そうだ(フリー百科事典Wikipedia)。
実際、寛道の父である熊沢大然氏も明治時代から、宮内庁に対し「自分こそが正統な天皇である」という文書を出し続けたが、まともにとりあってもらえず、逆に特高警察にマークされていたという(アサヒクロニクル「週間20世紀」)・・・が、当時、そのようなことをして、単に特攻にマークされていただけ・・・と言うのは何故だろう??
私には南朝の正統天皇を自称する熊沢(寛道)が、本当に後亀山天皇の末裔であるかどうかなどと言ったことは知る由もないが、鎌倉時代末にあたる1246(寛元4)年、後嵯峨天皇の退位後に天皇家皇位継承を巡って大覚寺統持明院統に分裂してしまった。そこで幕府の仲介によって、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく(両統迭立)が取り決められていたが、大覚寺統の後醍醐天皇正中の変(1324年)、元弘の変(1331年)と立て続けに倒幕を企て、後醍醐が幕府によって隠岐島へ流されるが、隠岐島を脱出した後醍醐の挙兵に足利尊氏なども呼応し、鎌倉幕府が滅んだたため、大覚寺統での皇統統一が計られると思われたが、建武の新政の失敗で、尊氏が後醍醐に反旗を翻し、1336(延元元年/建武3)年、持明院統の光厳の弟豊仁親王を光明天皇として擁立した(北朝)。尊氏に幽閉された後醍醐は京を脱出し、吉野で自己の皇位の正当性を主張し(南朝)、ついに皇統が完全に分裂する南北朝並立の時代(南北朝時代)が到来した。1338(延元3年/暦応元)年、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられて室町幕府を開いた。
この並立は、1392(元中9年/明徳3年)年に足利義満の斡旋により、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇三種の神器を渡すことでようやく解消された。この南北朝合一の「明徳の和約」により以後は両統から交互に天皇を擁立することと決められたが、この約束はすぐに反故にされ、以後皇統は持明院統に統一された。このことに反発した南朝の遺臣が、南朝の後裔を担いで北朝の皇室および室町幕府に対する反抗を15世紀半ばまで続けた。これを後南朝という(この三種の神器は偽物という説もある)。
しかし、その後南朝も1457(長禄元)年に南朝後裔の自天王・忠義王なる兄弟が殺害され後南朝は実質的に滅亡した。以降、南朝の系統が歴史の舞台に現れることは二度となく、正式には、北朝系統の天皇が続いていたが、明治維新により孝明天皇を最後に、北朝系の天皇は終わり、南朝系統の明治天皇誕生となっている。しかし、このとき、倒幕派は孝明天皇の子である睦仁天皇をも暗殺し、長州にあった南朝光良親王の末裔である大室寅之祐とすり替え、これを明治天皇として擁立したという説が存在している。以前にこのブログ6月14日幕末最後の天皇「孝明天皇 」誕生日で書いたことがある。
武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、承久の乱後、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになるが、鎌倉幕府は朝廷による倒幕計画の再燃を恐れて皇位継承への介入を度々繰り返してきたがそれ以降、北朝が皇位継承を続けてきた。それに対して、明治維新が、実は北朝から南朝への「王朝交替」劇でもあったのではないかとの印象を感じさせるところがあるようにも思われた。
明治時代に入って、明治天皇によって、3人の天皇に大正時代には1名に追号(参照)が奉られたが、明治以降に追号されたこれら天皇は「万世一系」の大義を明確化するために、なされたものであるらしいことも、このブログ10月14日淳仁天皇(淡路廃帝)が淡路島に流される た日で触れてきた。
後亀山天皇の子孫については文献などの資料も曖昧であり、実際の所よく分からないが、以下参考に記載の「異聞歴史観・南朝・後南朝・異聞皇統」などを見ると、西陣南帝・南帝王熊沢廣次王の名が見られるが、これは、応仁の乱のときに山名宗全が、自天皇の従兄弟である後南朝の皇子を西軍の天皇として招いたものと言われ、これが後南朝最後の天皇だとも言われている。その末裔として熊沢家が主張する「信雅王」についても、実際の所よく分からない。しかし、歴史的なものを見ている限り、どの程度の関わりがあるかは別としてその末裔がもしいたとしても不思議はない。
それよりも、敗戦後1945(昭和20)年の9月熊沢はマッカーサーに対し「今の天皇は偽物で自分こそが本物である」と言う手紙を書いたというが、天皇が人間宣言をした直後に「熊沢天皇」などという存在を報じた第一報が米国の新聞であったことを考えれば、第二次世界大戦の戦後処理として、昭和天皇の処遇を決めかねていたGHQとしては、熊沢を取り立てることによって、天皇との本家争いをさせ、国民の反応を見ようとしたのであろう。
一夜にして「天皇」になった熊沢をGHQはわざわざジープで送り迎えし、記者会見まで設定した。1946(昭和21)年、昭和天皇の全国巡幸が始まると、「熊沢天皇」も自らの正統性を訴え、全国行脚を行うが、反応は冷たいものであり、逆に、昭和天皇への国民の支持がゆるぎないことを知ると、GHQは、もはや、熊沢は利用価値はないと放り出した。
自称天皇を称する者は、熊沢寛道 の他に同じ「熊沢天皇」と称する4名が宗家争いをし、そのほか熊沢天皇ではない南朝の天皇を名乗るものなども含め20名ほどが現れた。元祖自称天皇の熊沢寛道 は、1951(昭和26)年、東京地方裁判所に「現天皇は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから天皇に不適格である」との訴えを起こしたが、「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却された(「皇位不適格訴訟」)。以降、世間も熊沢天皇に次第に冷ややかになると、熊沢は側近だけではなく妻子までに見捨てられたが、以降家族と別居し放浪生活を続け、1966(昭和41)年6月東京の板橋病院で膵癌のため死去したが、その死のニュースは外電に配信されたものの、もはや記事に取り上げる海外のマスコミは存在しなかったという。
(画像は、熊沢天皇。アサヒクロニクル「週間20世紀」より)
参考:
熊沢寛道 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93
神武天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
南北朝時代 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
異聞歴史観・南朝・後南朝・異聞皇統
http://www.kakeiken.com/report002.html
Column of the Historyコラム目次
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/h_index.html
特別高等警察 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E9%AB%98%E7%AD%89%E8%AD%A6%E5%AF%9F
今日のことあれこれと・・・・南朝関連
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%C6%EE%C4%AB
南朝の熊沢天皇について -OKWave
http://okwave.jp/qa896831.html
南朝としての北畠氏と論争
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kitabatake6.html