今日(1月22日)は、歌舞伎狂言作者・河竹默阿彌(2世河竹新七) の1893(明治26)年の忌日。『三人吉三廓初買』『青砥稿花紅彩画』等の人気狂言を書き、近松門左衛門、鶴屋南北とともに、三大歌舞伎作者の一人とされている。
歌舞伎 の語源はカブく(「傾く」が原義)の連用形からとされている。異様な振る舞いや装いをカブキといい、それをする人物をカブキ者と言った。歌舞伎の醍醐味はケレン味のある演出だといわれるのは、こういった背景にも由来する。つまり歌舞伎というのは当て字であるが、歌い、舞い、伎(技芸、芸人)を意味しており、この芸能を表現するのには最も適切な文字だといえる。
歴史的には、1603(慶長8)年に、北野天満宮で興行を行い、京都で評判となった出雲阿国(いずものおくに)が歌舞伎の発祥とされている。
歌舞伎は成立の過程から歌舞伎踊りと歌舞伎劇に分けられるともいう。前者は若衆歌舞伎までを言い、流行の歌に合わせた踊りを指す。また、その後に創作された踊り主体の演目も含める場合もある(歌舞伎舞踊参照)。一方、後者は江戸時代の町民に向けて製作されるうちに、現代に見られるような、舞踊的要素を備えた演劇となった。
江戸時代の中期までは、上方で創作された歌舞伎狂言の比重は大きい。それは、上方が中心であった人形浄瑠璃から移植された演目の数からもわかる。
元禄期(1688~1704年)、京都では洗練された公家文化の伝統の上に「和事」と呼ばれる優雅な様式が生まれる。初代坂田藤十郎はその代表である。一方、江戸でも初代市川団十郎が創始したとされる「荒事」が、武士階級を中心として形成された新興都市の荒っぽい気風にあって喜ばれた。享保から宝暦にかけて、歌舞伎は沈滞の時期を迎えるが、これに代わり、大坂で、人形浄瑠璃が隆盛した。近松門左衛門の『国性爺合戦(こくせんやがっせん)』が成功してからと言うもの、人形浄瑠璃の当り狂言をすぐに歌舞伎に移して上演する傾向があらわれる。この結果歌舞伎は人形浄瑠璃の繁栄の陰に押しやられていた。『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』など、現代の歌舞伎における「丸本物(まるほんもの)」の代表的なものの名作はこのころ創作され、直ちに歌舞伎に移された作品である。この頃、初代瀬川菊之丞、初代中村富十郎ら名女形の活躍により「所作事」が確立される。宝暦の末頃、人形浄瑠璃の力が衰えると、歌舞伎は再び活気を取り戻した。特にこの時期には、部隊構造が発達、せり上げや廻り舞台が生み出されたため、多彩な変化に富んだおおがかりな作劇や演出が可能になった。上方の名作者初代並木正三の功績が大きいという。明和以降安永、天明を得て寛政に至る時期は、江戸の庶民文化が最高潮に達した時期であり、初代中村仲蔵を代表とする天明歌舞伎が開花した。天明の末頃から、江戸歌舞伎に写実的な演技が流行し、次の時代の「世話物」を生み出す基盤となる。上方の作者初代並木五瓶は写生的・合理的な作劇にすぐれていた。五瓶は、1794(寛政6)年江戸に下り、上方風の合理的な作劇法を江戸にもたらした。そのことにより、長い間の江戸歌舞伎の伝統だった構成法を使いながら、写実的な手法を徹底させるという、極めて独創的な作劇法を生み出したのが、4代目鶴屋南北であった。
「世話物」と呼ばれる南北劇の主人公は、社会の最下層を生きる人達であった。彼は、封建道徳や社会秩序に縛られて窮屈に生きねばならない人間の悲しさ・むなしさを描く反面、本能的欲望の赴くままに、自由奔放に生きる人間の強靭さ、したたかさを描いた。その結果、濡れ場、殺し場、責め場など官能的な演技が写実的に繰り広げられ亡霊の登場する怪奇の世界も大胆に舞台化した。「東海道四谷怪談」などはその特徴を良くあらわしている。1841(天保12)年、天保の改革の一環として、江戸三座は浅草の猿若町に移転を命じられた。これ以降の歌舞伎界を代表する作者が、河竹黙阿弥である。
彼は、1816年3月1日(文化13年2月3日) 、江戸日本橋の商家に生まれ、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者で、本名は吉村芳三郎という。
14歳のときに道楽が過ぎて実家から勘当され、その後貸本屋の手代となり狂歌、茶番、俳句などで活躍。1835(天保6)年に、五代目鶴屋南北の門下となり勝諺蔵(かつげんぞう)となる。抜群の記憶力で、「勧進帳」の台詞を暗記して舞台の後見を努め、七代目市川団十郎が、立作者になってからはしばらくヒット作に恵まれなかったようだが、1853(嘉永7)年名優市川小團次に書いた『都鳥廓白波(みやこどりながれのしらなみ)』(通称:忍の惣太)が出世作で、以後、幕末期には小團次と提携し『三人吉三廓初買 (さんにんきちさくるわのはつかい)』や『小袖曾我薊色縫(こそでそがあざみのいろぬい)』(通称:十六夜清心(いざよいせいしん))など数々の名作を発表する。また、三代目澤村田之助には『処女翫浮名横櫛(むすめごのみうきなのよこぐし)』(通称:切られお富)、十三代目市村羽左衛門(のちの五代目尾上菊五郎)には『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』(通称:弁天小僧)『粋菩提悟道野晒(ごどうのざらし)』(通称;野晒悟助)を書いている。
1866(慶応2)年の小団次死後から明治になっても創作力は衰えず、「團菊左」(九代目市川團十郎・五代目尾上菊五郎・初代市川左團次)という三人の名優を擁した歌舞伎界の重鎮として活躍。生涯に発表した作品数は300余といわれる。
坪内逍遙は、黙阿弥のことを「江戸演劇の大問屋」「明治の近松」「我国のシェークスピア」と高く評価したという。急激な演劇の近代化に限界を感じ、1881(明治14)年團菊左のために書かれた散切物(ざんぎりもの)の大作『島鵆月白浪( しまちどりつきのしらなみ)』(通称:島ちどり)を一世一代として発表後、引退し黙阿弥と改名。晩年は自作脚本を全集本「狂言百種」として発売し歌舞伎の普及に努めた。
「月も朧(おぼろ)に白魚の篝(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに心持よくうかうかと、浮かれ烏のたゞ一羽塒(ねぐら)へ帰(けえ)る川端で、棹の雫か濡手で泡、思いがけなく手に入る百両」・・・黙阿弥の代表作の一つ『三人吉三廓初買』の冒頭の台詞である。「八百屋お七等の説話を背景としたお嬢吉三、お坊吉三、和尚吉三の三人吉三の盗賊物語に、文里、一重の情話をないまぜた世話狂言である。
大川端で夜鷹を蹴落として手に入れた百両に満悦のていのお嬢吉三(おじょうきちさ)、だがそれを見ていたお坊吉三(おぼうきちさ)はその金をよこせと横車、二人はたちまち立ち回りを演じる。その間に割って入ったのが和尚吉三(おしょうきちさ)、いずれも腕一本に生きる無頼の徒、たちまち意気投合して血盃(ちさかずき)をかわすが……金と欲にくわえて因果のしがらみに翻弄される人々をリアルに描いた黙阿弥の「白浪物」の代表作である。これも面白いが、私の好きなものに「弁天小僧」がある。
「知らざあいって聞かせやよう。浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、その白波の夜働き・・・」ご存知弁天小僧が朗々とうたい上げる七五調の名せりふ。これもいいね~。
美貌の武家娘に変装した盗賊の弁天小僧は、仲間の南郷力丸を共侍に仕立て、雪ノ下の呉服問店は浜松屋へ行き、万引きしたように見せてわざと咎めさせ、盗人の悪名を着せた上に額に疵をつけたと言いがかりをつけたて、百両の金をゆすり取ろうとする。しかし、来合わせた玉島逸当と名乗る黒頭巾の武家に男と見破られ引き上げる。ところが、その武家は実は、盗賊の頭領日本駄右衛門が弁天小僧の化けの皮をはがして見せたのは、主人をはじめ店の者を信用させるものだったとわかる。この芝居には、もう一つどんでん返しが用意してあるが、見せ場は弁天と南郷のゆすりのみごとさ・おもしろさ、可憐な美女と思ったのが腕に桜の彫物を入れた盗人だったという意外性、島田髪に女性の化粧のまま、肌もあらわに尻はしょり大あぐらをかき、煙管をもてあそびながら男の声で七五調のセリフをうたい上げるという、何とも倒錯的、官能的な悪の華の賛美などにある。
黙阿弥の歌舞伎の特徴は、これらの舞台に見られる「黙阿弥調」と称される七五調でリズム感のある華麗な台詞にある。「世話物」に本領を発揮した。内容的には白浪物(盗賊が主人公となる)を得意としたが、そこに登場する悪人たちは、むしろ小心で因果に翻弄される弱者である。鶴屋南北と比較されることが多いが、ふてぶてしい悪人が登場する南北の歌舞伎との大きな相違点である。市井の底辺社会を写実的に描く反面、下座音楽や浄瑠璃を駆使した叙情性豊かな作風である。
誰が見ても楽しめる面白さから、これらは、歌舞伎の世界だけでなく演劇や映画などでも多くの俳優によって演じられてきた。又、見たいね~。
※このブログは2007-01-23 に書きましたが、忌日を22日を23日と勘違いしたため、2008年の今日前のものを取り消し、今日22に振り替えました。すみません。
(画像は、歌舞伎画。「弁天小僧菊の助:市村羽左衛門」。「おぜう吉三 :岩井 粂三郎」いずれも、絵師::豊国。以下参考の演劇博物館所蔵「浮世絵閲覧システム」より借用)
歌舞伎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E
歌舞伎
http://www.palette532.com/~inui/folklore/j-maturi19.html
私立PDD図書館
http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/biography/kawasa.htm
歌舞伎事典 目次
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc_dic/dictionary/index.html
歌舞伎素人講釈
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/index.htm
北野天満宮 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE
演劇博物館所蔵「浮世絵閲覧システム」
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/default.htm
歌舞伎 の語源はカブく(「傾く」が原義)の連用形からとされている。異様な振る舞いや装いをカブキといい、それをする人物をカブキ者と言った。歌舞伎の醍醐味はケレン味のある演出だといわれるのは、こういった背景にも由来する。つまり歌舞伎というのは当て字であるが、歌い、舞い、伎(技芸、芸人)を意味しており、この芸能を表現するのには最も適切な文字だといえる。
歴史的には、1603(慶長8)年に、北野天満宮で興行を行い、京都で評判となった出雲阿国(いずものおくに)が歌舞伎の発祥とされている。
歌舞伎は成立の過程から歌舞伎踊りと歌舞伎劇に分けられるともいう。前者は若衆歌舞伎までを言い、流行の歌に合わせた踊りを指す。また、その後に創作された踊り主体の演目も含める場合もある(歌舞伎舞踊参照)。一方、後者は江戸時代の町民に向けて製作されるうちに、現代に見られるような、舞踊的要素を備えた演劇となった。
江戸時代の中期までは、上方で創作された歌舞伎狂言の比重は大きい。それは、上方が中心であった人形浄瑠璃から移植された演目の数からもわかる。
元禄期(1688~1704年)、京都では洗練された公家文化の伝統の上に「和事」と呼ばれる優雅な様式が生まれる。初代坂田藤十郎はその代表である。一方、江戸でも初代市川団十郎が創始したとされる「荒事」が、武士階級を中心として形成された新興都市の荒っぽい気風にあって喜ばれた。享保から宝暦にかけて、歌舞伎は沈滞の時期を迎えるが、これに代わり、大坂で、人形浄瑠璃が隆盛した。近松門左衛門の『国性爺合戦(こくせんやがっせん)』が成功してからと言うもの、人形浄瑠璃の当り狂言をすぐに歌舞伎に移して上演する傾向があらわれる。この結果歌舞伎は人形浄瑠璃の繁栄の陰に押しやられていた。『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』など、現代の歌舞伎における「丸本物(まるほんもの)」の代表的なものの名作はこのころ創作され、直ちに歌舞伎に移された作品である。この頃、初代瀬川菊之丞、初代中村富十郎ら名女形の活躍により「所作事」が確立される。宝暦の末頃、人形浄瑠璃の力が衰えると、歌舞伎は再び活気を取り戻した。特にこの時期には、部隊構造が発達、せり上げや廻り舞台が生み出されたため、多彩な変化に富んだおおがかりな作劇や演出が可能になった。上方の名作者初代並木正三の功績が大きいという。明和以降安永、天明を得て寛政に至る時期は、江戸の庶民文化が最高潮に達した時期であり、初代中村仲蔵を代表とする天明歌舞伎が開花した。天明の末頃から、江戸歌舞伎に写実的な演技が流行し、次の時代の「世話物」を生み出す基盤となる。上方の作者初代並木五瓶は写生的・合理的な作劇にすぐれていた。五瓶は、1794(寛政6)年江戸に下り、上方風の合理的な作劇法を江戸にもたらした。そのことにより、長い間の江戸歌舞伎の伝統だった構成法を使いながら、写実的な手法を徹底させるという、極めて独創的な作劇法を生み出したのが、4代目鶴屋南北であった。
「世話物」と呼ばれる南北劇の主人公は、社会の最下層を生きる人達であった。彼は、封建道徳や社会秩序に縛られて窮屈に生きねばならない人間の悲しさ・むなしさを描く反面、本能的欲望の赴くままに、自由奔放に生きる人間の強靭さ、したたかさを描いた。その結果、濡れ場、殺し場、責め場など官能的な演技が写実的に繰り広げられ亡霊の登場する怪奇の世界も大胆に舞台化した。「東海道四谷怪談」などはその特徴を良くあらわしている。1841(天保12)年、天保の改革の一環として、江戸三座は浅草の猿若町に移転を命じられた。これ以降の歌舞伎界を代表する作者が、河竹黙阿弥である。
彼は、1816年3月1日(文化13年2月3日) 、江戸日本橋の商家に生まれ、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者で、本名は吉村芳三郎という。
14歳のときに道楽が過ぎて実家から勘当され、その後貸本屋の手代となり狂歌、茶番、俳句などで活躍。1835(天保6)年に、五代目鶴屋南北の門下となり勝諺蔵(かつげんぞう)となる。抜群の記憶力で、「勧進帳」の台詞を暗記して舞台の後見を努め、七代目市川団十郎が、立作者になってからはしばらくヒット作に恵まれなかったようだが、1853(嘉永7)年名優市川小團次に書いた『都鳥廓白波(みやこどりながれのしらなみ)』(通称:忍の惣太)が出世作で、以後、幕末期には小團次と提携し『三人吉三廓初買 (さんにんきちさくるわのはつかい)』や『小袖曾我薊色縫(こそでそがあざみのいろぬい)』(通称:十六夜清心(いざよいせいしん))など数々の名作を発表する。また、三代目澤村田之助には『処女翫浮名横櫛(むすめごのみうきなのよこぐし)』(通称:切られお富)、十三代目市村羽左衛門(のちの五代目尾上菊五郎)には『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』(通称:弁天小僧)『粋菩提悟道野晒(ごどうのざらし)』(通称;野晒悟助)を書いている。
1866(慶応2)年の小団次死後から明治になっても創作力は衰えず、「團菊左」(九代目市川團十郎・五代目尾上菊五郎・初代市川左團次)という三人の名優を擁した歌舞伎界の重鎮として活躍。生涯に発表した作品数は300余といわれる。
坪内逍遙は、黙阿弥のことを「江戸演劇の大問屋」「明治の近松」「我国のシェークスピア」と高く評価したという。急激な演劇の近代化に限界を感じ、1881(明治14)年團菊左のために書かれた散切物(ざんぎりもの)の大作『島鵆月白浪( しまちどりつきのしらなみ)』(通称:島ちどり)を一世一代として発表後、引退し黙阿弥と改名。晩年は自作脚本を全集本「狂言百種」として発売し歌舞伎の普及に努めた。
「月も朧(おぼろ)に白魚の篝(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに心持よくうかうかと、浮かれ烏のたゞ一羽塒(ねぐら)へ帰(けえ)る川端で、棹の雫か濡手で泡、思いがけなく手に入る百両」・・・黙阿弥の代表作の一つ『三人吉三廓初買』の冒頭の台詞である。「八百屋お七等の説話を背景としたお嬢吉三、お坊吉三、和尚吉三の三人吉三の盗賊物語に、文里、一重の情話をないまぜた世話狂言である。
大川端で夜鷹を蹴落として手に入れた百両に満悦のていのお嬢吉三(おじょうきちさ)、だがそれを見ていたお坊吉三(おぼうきちさ)はその金をよこせと横車、二人はたちまち立ち回りを演じる。その間に割って入ったのが和尚吉三(おしょうきちさ)、いずれも腕一本に生きる無頼の徒、たちまち意気投合して血盃(ちさかずき)をかわすが……金と欲にくわえて因果のしがらみに翻弄される人々をリアルに描いた黙阿弥の「白浪物」の代表作である。これも面白いが、私の好きなものに「弁天小僧」がある。
「知らざあいって聞かせやよう。浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、その白波の夜働き・・・」ご存知弁天小僧が朗々とうたい上げる七五調の名せりふ。これもいいね~。
美貌の武家娘に変装した盗賊の弁天小僧は、仲間の南郷力丸を共侍に仕立て、雪ノ下の呉服問店は浜松屋へ行き、万引きしたように見せてわざと咎めさせ、盗人の悪名を着せた上に額に疵をつけたと言いがかりをつけたて、百両の金をゆすり取ろうとする。しかし、来合わせた玉島逸当と名乗る黒頭巾の武家に男と見破られ引き上げる。ところが、その武家は実は、盗賊の頭領日本駄右衛門が弁天小僧の化けの皮をはがして見せたのは、主人をはじめ店の者を信用させるものだったとわかる。この芝居には、もう一つどんでん返しが用意してあるが、見せ場は弁天と南郷のゆすりのみごとさ・おもしろさ、可憐な美女と思ったのが腕に桜の彫物を入れた盗人だったという意外性、島田髪に女性の化粧のまま、肌もあらわに尻はしょり大あぐらをかき、煙管をもてあそびながら男の声で七五調のセリフをうたい上げるという、何とも倒錯的、官能的な悪の華の賛美などにある。
黙阿弥の歌舞伎の特徴は、これらの舞台に見られる「黙阿弥調」と称される七五調でリズム感のある華麗な台詞にある。「世話物」に本領を発揮した。内容的には白浪物(盗賊が主人公となる)を得意としたが、そこに登場する悪人たちは、むしろ小心で因果に翻弄される弱者である。鶴屋南北と比較されることが多いが、ふてぶてしい悪人が登場する南北の歌舞伎との大きな相違点である。市井の底辺社会を写実的に描く反面、下座音楽や浄瑠璃を駆使した叙情性豊かな作風である。
誰が見ても楽しめる面白さから、これらは、歌舞伎の世界だけでなく演劇や映画などでも多くの俳優によって演じられてきた。又、見たいね~。
※このブログは2007-01-23 に書きましたが、忌日を22日を23日と勘違いしたため、2008年の今日前のものを取り消し、今日22に振り替えました。すみません。
(画像は、歌舞伎画。「弁天小僧菊の助:市村羽左衛門」。「おぜう吉三 :岩井 粂三郎」いずれも、絵師::豊国。以下参考の演劇博物館所蔵「浮世絵閲覧システム」より借用)
歌舞伎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E
歌舞伎
http://www.palette532.com/~inui/folklore/j-maturi19.html
私立PDD図書館
http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/biography/kawasa.htm
歌舞伎事典 目次
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc_dic/dictionary/index.html
歌舞伎素人講釈
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/index.htm
北野天満宮 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE
演劇博物館所蔵「浮世絵閲覧システム」
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/default.htm