今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

自縄自縛内閣

2009-11-05 | ひとりごと
今朝(11月5日)の朝日新聞のやくみつるの政治漫画は「自縄自縛内閣 苦闘す」・・・であった(冒頭画像参照)。
又、4面政治欄には「政務三役以外は暇・小沢氏が右と言えば右」の見出しで、民主党の前最高顧問であった渡辺恒三氏が、昨4日福岡市で講演し「与党になったと張り切ったはいいが、忙しいのは大臣・副大臣・政務官。それ以外はみんな暇で」と今の党内の様子を紹介したという。そこには「小沢一郎君が右と言えば右。左と言えば左。5足す5は15といえば『はい』といっていればいい」と語り、小沢幹事長への献言集中を皮肉ったそうだ。そして、党所属議員を地元回りに専念させ陳情の政府への取次ぎを党本部が仕切る仕組みにも不満を示した。「陳情は党(幹事長室)1本。議員は家に帰って毎日戸別訪問しているのかな。私は、体力ももたないし、困ったな」・・と。
民主党において、党首である鳩山由紀夫小沢一郎(幹事長)の関係に、権力の二重構造が起らないかについては、政権発足当時からマスコミや評論家の間で心配されていたことだが、「これだけは、絶対に無くさなければいけない。」・・・ことを、心配して書いたのが、9月27日のこのブログでのひとりごと「二代目は熱意で勝負」の中であったが、なにか、もう、それが現実となって現れてきたようであり、しかも、権力の二重構造と言うよりも、鳩山首相は単なる小沢氏の操り人形で、小沢院政 内閣の様相を呈し始めてきたようで、民主党に暗雲が漂い始めたといってもいいだろう。
前の「ひとり言」の中で、私は、”政権交代したことについて、世間やマスコミでは、「民主党には経験と実績がないので心配」・・・などと言っているが、何を、ナンセンスなことを言っているのかと、ただ、呆れるばかりだ。今まで、政権に就いたことの無い党が、初めて、政権について、最初から、何事も無く、上手く行くはずが無いのは当たり前ではないか・・・。先進の西欧諸国、イギリス、ドイツ、フランスなどでも、変革の痛みを味わいながら、それを何度も繰り返して今の時代に至っている。痛みを伴なわない変革などあるものか。”・・と、もう少し、長い目で、じっくりと民主党のやることを見守ってやらないといけない旨を書いてはみたものの、正直、私自身も内心では心配していたことではあった。
民主党政権への国民の期待は大きく、政権発足当時より世論調査での支持率も大変高く、民主党自身が国民との公約であるマニフェストを果たすべく一生懸命取り組んでいる姿を見て、頑張れ・・と応援もしていたし、政権交代により、これまで、自民党がいかに国民に見えないところで政治をしていたかと言う事が明らかになったことは非常に良い結果なのであるが、いざ実際に政権をとって公約に取り組もうとしてみると、外から見るのと中から見るのでは大違い・・・そう簡単なことことではなく、今頃、民主党が戸惑っているであろうことは想像に難くない。
しかし、民主党は時のマニフェストブームに乗せられて、マニフェストに具体的に細かいことを書き過ぎたともいえる。大体、マニフェストなどを真剣に読むでいるのは、マスコミ関係者や評論家などを主に民主党に対立する政党政治家ぐらいのものだろう。細かいことを書けば書くほどに利害関係者を意識したことを書かざるを得なくなる。選挙において、多くの国民にとっては、今後の日本をどのような方向へ導こうとしているのか、今の自民党政権のどういったところをどう変えようとしているのかが分ればそれで十分なのだ。しかし、「選挙に勝つ」ことを目的に、マニフェストを大々的にアピールしようとすれば、当然、有権者の歓心を買うものばかりが書き連ねられることになるのはいたし方ないことだろう。
曰「子ども手当や高速道路の無料化、農業の戸別所得補償だけでなく、高校・高等教育の無償化、介護サービスの基盤拡充、医療従事者の不足解消、若者の雇用就労支援、中小企業支援、商店街の活性化等々・・」、いずれも有権者の関心を買うものばかりでなる。だが、「その財源はどうするのか!」・・・。このことは、当時政権を担っていた与党議員の指摘であるが、マスコミや評論家ばかりでなく、理性ある多くの国民も心配していたところではあった。
そんな鳩山政権に、「直ぐにで着手してもらいたいことは何か?」また、「やってもらわなくても良いことはなにか?」といったことを、10月初旬頃、マスコミが世論調査をしていたのを思い出す。詳しいことは覚えていないが、直ぐにやってほしいことの断トツは、「官僚の天下りの根絶」で国民の70%以上が挙げていたはずであり、逆に、特にやってもらわなくて良いと思うことの中には、「高速道路の無料化」や「高校・高等教育の無償化」などは、今の大変な経済状況のなかで、無理して行うことにより、それがいずれ増税となって跳ね返ってくることを心配してまで望んではいなかったのである。
しかるに、来年夏の参議院選のことを考えてか、しっかりと政治を行うことよりも小沢氏は、”党所属議員を地元回りに専念させ陳情の政府への取次ぎを党本部が仕切る”体制をとり、鳩山内閣は、マニフェストに自縄自縛となり、財源の問題を抱えながら敢えて余り国民が望んでもいない、「高速道路の無料化」や「高校・高等教育の無償化」)「八ッ場ダム、川辺川ダム等の建設中止」といったことにこだわり、加えて外交の舞台でも、首相自ら海外に向かって「CO2など、二酸化炭素25%削減 」などを公約してしまった。まさに、冒頭掲載の風刺漫画の通り、公約(マニフェスト)の自縄自縛内閣となってしまったようである。
そのくせ、国民が最も望んでいた「官僚の天下り根絶」については、斉藤次郎元大蔵次官を郵政の社長に任命。これを公約反古と指摘されると天下りではないと反論しているがこの人事については国民の信頼をなくしかねない問題だという気がする。又、全国学力テストの予算削減など民主党の支持団体とも言われる日教組(日本教職員組合)の意向を踏まえての措置とみられているが、これも、参議院選を考えてのものかなにか知らないが、次第に、民主党の政治が左傾化しているのは、日本の今後にとっていささか心配されるところである。
確かに、沖縄の軍事基地問題にしても八ッ場ダム建設問題にしても、年金問題等多くの問題が今までの自民党政権のやって来たことの後始末であり、どれ1つとっても、簡単に解決できる問題はないが、何に取り組むのか優先順位をつけ、あせらずに、1つ1つ、じっくりと取り組んで解決して行って欲しい。景気の先行きも明るいところは見られず、最も心配されるデフレスパイラルに入らんとしているとき、税収にも限度がある中で公約(マニフェスト)を金科玉条にして無理をしない方が良いだろう。なにはともあれ、景気の回復と公務員改革を最優先にしてもらいたいものだ。
参考:
時事ドットコム:鳩山内閣の検索結果
http://www.jiji.com/jc/z?key=%C8%B7%BB%B3%C6%E2%B3%D5&submit=%B5%AD%BB%F6%B8%A1%BA%F7
民主党-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC_1998-)
院政 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E6%94%BF
民主党の政権政策Manifesto2009
http://www.dpj.or.jp/special/manifesto2009/
日本教職員組合(日教組) - Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/japan_teachers_union/
日本教職員組合 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%95%99%E7%B5%84
デフレーション - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

レコードの日

2009-11-03 | 記念日
日本レコード協会(RIAJ)が1957(昭和32)年に制定。「レコードは文化財」ということから、文化の日を記念日とした。
レコードの語源は記録という意味の英語"record"である。円盤状の樹脂等に凹凸を刻むことで音楽などの音響情報を記録したメディアの一種であり、音盤と呼ばれることもある。
音の再生にはレコードプレーヤーと針を用いる。レコードの回転とともに、そのレコードに刻まれた溝の凹凸が針に振動を与え、それが電気信号に変換されて増幅回路を通してスピーカーから音が発せられることになる。レコードプレーヤーの登場以前は蓄音機で再生された。
レコード(音声記録)は、長い間、発明王ともいわれたアメリカの科学者トーマス・エジソン の発明に始まるものとされてきた。それは錫(スズ)箔を貼った真鍮の円筒(シリンダー)に針で音溝を記録するという方式であった。そして、そして、この溝を針で再びたどらせることにより、音を再生した。この発明の公開実験では直径 8 cmの錫(スズ)箔のシートにマザーグースの「メリーさんの羊」の詩一節を朗読したものが刻み込まれていたという。それ以来、彼が録音という技術を生み出した最初の人と考えられ、日本オーディオ協会は1994(昭和19)年に、この発明を記念して、12月6日を「音の日」に制定している。
しかし、世界初のレコードは、エジソンより、20年も前の1857年、フランスのエドワード=レオン・スコット(Edouard-Leon Scott)が発明した「フォノトグラフ」であることが2008年、レコーディング・エンジニアのデビッド・ジョバンノーニ(David Giovannoni)によって明らかとなった(以下参考の※1また※2参照)。
スコットは、振動板に豚の毛をつけ煤(すす)を塗り、音声を紙の上に記録させたという。再生装置が無かったため、フォノトグラフは実用にはつながらなかった(しかし、後に再生は可能であることがわかったという。)が、1876(明治9)年、グレアム・ベルが電話機を発明したことにより再生の目処がつき、複数の研究者が再生可能なレコードの発明に取り掛かった。エジソンが最初に作ったものは錫箔を巻いたものを記憶媒体に使用していたが、後に製造が容易な蝋(ロウ)管になっていき、この基本原理は後のレコード盤の原型となった。ついで、1987(明治20)年にアメリカのエミール・ベルリナーがワックスを塗った平円盤に音の波を記録する方式のレコードと蓄音機を発明、「グラモフォン」(以下参考※3:「Music・Boxののここ参照)と命名し、特許、出願。レコードの大量生産を可能にした。
日本に蓄音機が輸入さるようになったのは、1897(明治30)年ごろから。1910(明治43)年、には、レコード会社日本蓄音機商会(現日本コロンビアミュージックエンタテインメント)が設立され、当時流行っていた>長唄や、謡曲常磐津浪花節などのおもに邦楽を録音して売り出した。
レコード盤の片面に3分程前後吹込みをしたSPレコードで、回転数はメーカーによって違い、78、80、82回転などがあった。以下参考に記載の※:「自分史をまとめたい人の20世紀年表」の1910(明治43) 年物 価を見ると、“レコード1 円25銭。銀行の初任給40円(大卒) ”・・とあり、※:「初任給 業種、学歴でどれだけ違う?[マネー]All About」とを見ると、金融業・保険業の2007(平成19)年の初任給が185,1千円とあり、これから換算すると、この当時のSPレコード1枚は、5,784円・・と言うことになり、結構高いものだ。
この当時、つまり、SPレコード初期の頃は、集音器(ラッパ)の奥に取り付けられた振動板で直接針を振動させてレコード原盤にカッティングする、“ラッパ吹き込み“(機械式吹き込み=
アコースティック録音)という原始的な方法で録音された。そのため声が小さいと録音がないので、歌手の口が少しでもラッパに密着するように後ろから身体を押す役目の人がいたという。「八木節」の録音の時などは、歌手はふんどしひとつ、気合いを入れて録音に臨んだそうだ(以下参考の※:「おんがく日めくり | YAMAHA」【レコードの日】参照)。八木節は栃木県の八木宿において、 初代堀込源太(本名渡辺源太郎)が歌っていた歌がそのルーツと考えられており、当初は「源太節」と呼ばれていたものが、レコーディングの際に「八木節」と命名されたそうだ。以下で詳しい八木節の説明と「八木節」が聞ける。
桐生市|八木節
http://www.city.kiryu.gunma.jp/web/home.nsf/0/d5008f957ca1cae749256b6d000edcba?OpenDocument
1925(大正14)年に、ラジオ放送が始まるとラジオのスピーカーから流れる雑音のない音の方が良いので、レコードが売れなくなるのではないかと、レコード会社は戦々恐々となったという。ところが、その前年・1924(大正13)年にアメリカでマイクロホンによる電気吹き込み方式(電気録音)が開発され、1927(昭和2)年には日本のレコード会社でも採用されるようになった。この電気吹き込み方式により、それまでの録音とは比べものにならない高音質のレコードが作られるようになった。ちょうどこのころ、レコード界も大きな転機を迎えていた。それまでは、巷で流行っていた歌を録音して売り出していたが、この頃から、レコード各社は、専門の作詞家、作曲家によってつくられた新曲、それも邦楽ではなく、当時「ジャズソング」とか「流行小唄」と呼ばれた「流行歌」を売り出すようになったことである。
まずビクター(日本ビクター蓄音器。現:日本ビクター)が、1928(昭和3)年時雨音羽作詞、佐々木紅華作曲による「君恋し」を、ついで、1929(昭和4)年に西条八十作詞、中山晋平作曲による「東京行進曲」を出して大ヒットを飛ばした。一方のコロンビアは1931(昭和6)年に高橋掬太郎作詞、古賀政男作曲による「酒は泪か溜息か」、島田芳文作詞、古賀政男作曲による「丘を越えて」などのヒット曲を送り出した。
こうした流行歌が巷に流れる一方、満州事変を機に「卑俗な流行歌を撲滅せよ」という声も高まり、1934(昭和9)年に、出版法が改正されると、レコードも検閲の対象となり、強権の下に曲がチェックされるようになった。おびただしい数の歌が検閲されるなかサトウハチロ作詞、万城目正作曲のリンゴの唄「リンゴの唄」が「戦時下に軟弱すぎる」という理由で検閲不許可とされ、戦後になって日の目を見た作品である。可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌う歌詞が、戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの解放感とうまく合っていたのと、敗戦によって憔悴しきった国民の心を癒される楽曲と評価され、空前の大ヒットとなった。レコードは1946昭和21年1月に日本コロムビアから発売されたが、3ヶ月で7万枚を売りつくし、17円50銭のレコードに100円の闇値がつくほどだったという。私の父もいつも歌っていたので、私も子供ながらいつの間にか覚えて歌っていた。しかし、こんな曲のどこが悪いのか一度知らない人は、以下で、聞いてみるとよい。流行歌や風俗が取り締まられるようになって以降、終戦まで、歌は、軍歌のようなものが中心となった。尚、以下の「二木紘三のうた物語」では先に挙げた「君恋し」、「酒は涙か溜息か」、「東京行進曲」、「丘を越えて」などの名曲も聴けると共に、その解説もされている。
リンゴの唄: 二木紘三のうた物語
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/04/post_5b00.html
しかし、日本のレコード文化は世界にまれにみる発展を続けてきたといえる。振り返ると、エジソンが発明した音を記録する技術は世界中に広がりをみせたが、レコードを文化として日本ほど高めた国はない。デモクラシーの時代といわれた大正時代は、外国音楽の吸収が盛んな時期でもあった。1914 (大正3) 年、近代演劇胎動の中、「復活」で主演女優の松井須磨子がうたった劇中歌「カチューシャの唄」は、西洋的なメロディをとりいれた最初のレコード流行歌となり作曲家の中山晋平が注目された。日本は、世界からクラシック・ロックなど西洋音楽を次々と取り入れると共にそれらを日本固有の伝統的な音楽と融合させ新しい日本の音楽を創りだしてきた。そして、日本人の豊かな感受性と共に世界をリードしてきた録音やオーデイオ機器の技術がレコードの普及を加速するという相乗効果を生み、世界に誇れるレコード文化を形成してきた。
しかし、音楽が販売される媒体として、レコードは長い間、非常にポピュラーであったが、現代、レコードそのものはデジタル情報を記録するためのメディアであるコンパクトディスク (CD) 等にとって代られたが、販売する会社は今でも「レコード会社」と呼ばれている。
レコーそのものの歴史は以下参考の※:日本レコード協会レコード産業界の歴史を見られると良い。
(画像は、日本ビクターなどのトレードマークで知られているニッパー 【犬】。左画像:画家フランシス・バラウドが最初に描いた絵では、ニッパーはフォノグラフ【円筒型蓄音機】を覗いていたが、後に、右画像:グラモフォン【円盤型蓄音機】を覗いている姿に修正された。Wikipediaより)
参考:
※:社団法人 日本レコード協会:レコード産業界の歴史
http://www.riaj.or.jp/chronicle/index.html
※:Music・Box
http://musical.jp/box/
※:自分史をまとめたい人の20世紀年表
http://www7.ocn.ne.jp/~volonte/015.html
※:初任給 業種、学歴でどれだけ違う?[マネー]All About
http://allabout.co.jp/finance/gc/12054/2/
※:おんがく日めくり | YAMAHA【レコードの日】
http://www.yamaha.co.jp/himekuri/view.php?ymd=19981103
※:[デジタルレコーディングの基礎知識]All About
http://allabout.co.jp/entertainment/dtm/subject/msubsub_series_dtm06.htm
日本オーディオ協会
http://www.jas-audio.or.jp/index.php
音ナビ:オーディオとは?オーディオの歴史
http://www.oto-navi.jp/audioguide/index-aud2.html
日本の流行歌 - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161536422_2/content.html
アレグザンダー・グレアム・ベル- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB
コロムビアミュージックエンタテインメント - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%A0%E3%83%93%E3%82%A2
邦楽 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A6%E6%A5%BD
流行歌 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E8%A1%8C%E6%AD%8C
レコードの回転数
http://www1.pbc.ne.jp/users/hmv78rpm/page081.html
出版法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E7%89%88%E6%B3%95

顔見世

2009-11-01 | 行事
「顔見世」は、歌舞伎の年中行事で、11月1日~12月10日頃に至る興行のこと。
出雲阿国に始るとされる歌舞伎の常設の芝居小屋が江戸府内に出来たのは1624(寛永元)年頃とされるが、歌舞伎が泰平の世の町人の娯楽として定着しはじめると、府内のあちこちに芝居小屋が立つようになった。しかし奉行所は風紀を乱すという理由で遊女歌舞伎 (1629年) や若衆歌舞伎 (1652年) を禁止、野郎歌舞伎には興行権を認可制とすることで芝居小屋の乱立を防ぐ方針をとった。こうして府内の芝居小屋は次第に整理されてゆき、延宝の初めごろ (1670年代) までには中村座・村山座[後に市村座]・ 森田座山村座に限って幕府公許の印である「」をあげることが認められるようになった。これらを江戸四座といった。
天保年間に老中首座である水野忠邦を中心に行われた天保の改革は、逼迫した幕府の財政を立て直すことを目的としたものだったが、水野はこれと同時に倹約令によって町人の贅沢を禁じ、風俗を取り締まって庶民の娯楽にまで掣肘を加えた。特に歌舞伎に対しては、七代目市川團十郎を奢侈を理由に江戸所払いにしたり、役者の交際範囲や外出時の装いを限定するなど、弾圧に近い統制下においてこれを庶民へのみせしめとした。
そして、それまで堺町にあった中村座、葺屋町の市村座、木挽町の森田座(当時は河原崎座)等の歌舞伎座ほか、操り人形の薩摩座、結城座など江戸市中に散在していたものを1842 (天保13 )年に浅草聖天町(現在の台東区浅草6丁目)に移転させ、そこを猿若町と名づけて芝居町とした。山村座は、1714(正徳4)年1月におきた有名な、絵島生島事件を起こして取り潰されため、以後は中村、市村、森田の三芝居だけで、「江戸三座の制」と呼ばれて1872(明治5)年まで続いた。江戸時代末期の江戸の芝居町は猿若町では、幕府公許の芝居小屋が公許の印である「櫓」を座の定紋を染め抜いた幕で囲った物を芝居小屋の入口上方に取り付け、かつてはそこで人寄せの太鼓を叩いた。
上方の京、大坂とは違い、江戸の歌舞伎で、幕府から芝居の興行の権利権を与えられたのは個人であり、興行権を与えられた人は、その名義を代々世襲して受け継いだ。それが「座元」であり、興行権を所有する芝居小屋の座元との雇用関係で、役者・狂言作者(以下参考の※:「歌舞伎座公式ホームページ」のここ参照)・囃子方との契約は原則として1ヵ年と定められており、雇用期間は11月より翌年10月迄となっていた。又、興行のシステムも1年間を1サイクルとして行われていた。10月に契約の更改や更新があった後、毎年11月が新年度の初めで、芝居の正月に当たる。各座とも初めて新年度の顔ぶれで興行。文字どおり「うちの芝居小屋ではこれから1年間はこの新しい座組・座頭、つまり、座付き役者となった顔ぶれでやっていきますよ」と観客に俳優の「顔を見せる」機会であったことから、「顔見世」というが、古くは「面見世(つらみせ)」とも呼ばれていたようだ。
その起源は明らかではないが、Wikipediaでは、上方(京阪地方)においては村山又兵衛(※現:市村羽左衛門の初代となる 市村宇左衛門=村山又三郎の京で座元をしていた兄)にはじまり、初代嵐三右衛門が1年間の興行の順序、期間、式例などをさだめ、江戸においては中村勘三郎が万治年間に四季に応じた狂言を選ぶことにしたという。寛文年間ごろから恒例化し、元禄ごろに制度化したらしい。上方でも行なわれたが、江戸では特に重要な行事となった。
年度最初の興行が「顔見世興行」、年が改まると「初春興行」、以下3月の「弥生興行」、5月の「皐月興行」というように、興行は一種の年中行事のような約束を踏まえて運営されていた。それは、興行者の側から言えば、興行を成功に導くための計画的な仕掛けに違いなかったが、芝居を愛好した大衆の側から言えば、日常生活のリズムをととのえて生きる格好の節目にもなっていた。芝居小屋は、ハレの日の歓楽の為に、各種の看板・提灯・積物・造り物で所狭しと飾り立て、わくわくするような祝祭の場を作り上げていた。
毎年11月の顔見世興行は、芝居年中行事(以下参考の※:「芝居年中行事-Yahoo!百科事典」参照)のうちの最大規模のものである。その初日をいやが上にもにぎにぎしくはなやかにに迎えるために、興行主である座元は狂言作者や座頭と9月12日の「世界定め」という会合を持ち、顔見世狂言の世界(外題・狂言の方向付け、配役【座組・座頭】)を決めてから始めて、あらかじめ定められている内外の行事を次々と積み重ねていき、芝居茶屋を含む町全体を「まつり」のムードに誘い込んでゆく(「世界定め」については以下参考の※:「歌舞伎の世界構造」を参照)。
「顔見世は世界の図なり夜寝ぬ人」 井原西鶴(道頓堀)「花みち」
「顔見世」は、俳句の季語ともなっており、仲冬(大雪【12月7日ごろ】から小寒の前日【1月4日】ごろまで【太陽暦12月・陰暦:11月】)を表す。
旧暦の11月は、もう真冬の寒い頃であり、師走から正月を控えて庶民の財布の紐も固く芝居見物どころではない時期なのだが、正月を先取りした「顔見世は芝居のお正月」と銘打って、目先の変わった興行を打ち客を集めた。つまり、芝居町には正月が二度やって来るわけであり、これはなかなかの仕掛け上手と言うべきだろう。
江戸時代の戯作者式亭三馬 は、その筆名が式三番叟のもじりであることによっても判るとおり、終生格別の芝居好きであったというが、その著書に『戯場訓蒙図彙(しばいきんもうづい)』(1803年)がある。これは、芝居の世界のあらゆる事柄を分類して採り上げ、それぞれに図を添えて訓蒙(幼童や無知の人を教え導く意)の役を果させようというねらいに立って編まれたものだそうだが、その中の「第二巻 顔見世紋招牌(かおみせもんかんばん)並役者附配出図(やくしゃづけくばりいだしのず)」の中の“顔見世の光景”には、以下のように書かれている。
“積上ぐる蒸駕籠(せいろう)は酒樽の男山(おとこやま)に烈(つらなっ)て。重(てう)重と高きこと江戸っ子の気性に似たり。空には霞みの引き幕一張(ひとは)り。進上の札は風に翻(ひるがへっ)て、ここに陽気を招くかとうあやたまる。夫(それ)長尺(ながじゃく)の提灯は雷の臍(へそ)を貫き。手打の手拍子地震の頭上に響かば。彼は一番太鼓に競ひ。
此は万歳楽をや奏すべき。かかるめでたき俳優(わざおき)なれば。天地も感ずる時至って。一陽来復の今すでに。周の昔の春を知る。正月詞(ことば)は家毎の。礼者に繁き軒ならび。茶屋が飾れる 灯篭の。花の顔見世見ばやとて、おし合う人の山十は。醤油樽の銘に知られ。皆打よりてあたること。炭俵にあらを率(ひきゐ)て弘廂(ひろひさし)にて狂言尽をなせり。“・・・と。
補足すれば、顔見世などの特別興行の時には、役者に贈られた品物を、芝居小屋の木戸の前に積み上げて披露する、積物(つみもの)という慣習が江戸時代からあった。現在は酒樽に限られているが、江戸時代には酒樽のほか、米俵、炭俵、醤油樽、蒸籠(せいろう)などが積まれたそうだ。蒸籠(蒸駕籠)は木の枠の底が簀(す)の子になっている蒸し器で饅頭を蒸すのに使うものだが、芝居小屋は饅頭屋にとって大切な市場なので、中村座、市村座に出入りの、日本橋和泉町の饅頭屋虎屋は両座の特別興行には蒸籠を積むのが慣習になっていたという(以下参考の※:「歌舞伎座公式ホームページ」のここ参照)。尚、式亭三馬の『戯場訓蒙図彙』の翻訳物は以下参考の※:「電子図書 戯場訓蒙図彙」で見ることが出来る。この『戯場訓蒙図彙』の文章は猿若町へ移転する前の芝居町の光景だそうだがが、冒頭の錦絵でも同じような賑わいが見られる。
冒頭の画像は、江戸神田雉子町の名主である斎藤月岑(げっしん)編纂(長谷川雪旦画、長谷川雪堤補画)により、1838(天保9)年に刊行された『東都歳時記』に描かれている中村座の顔見世興業の様子である。向かって右上に見える櫓は中村座定紋「銀杏」を染め抜いた幕で囲われている。中村座の定紋はもともとは鶴が空から舞い降りてくるおめでたいデザインだったが、1690(元禄3)年に、将軍綱吉に姫君が誕生し鶴姫と名付けられたのをはばかり、銀杏にしたが、銀杏の葉は鶴が翼を拡げる様子に見立てられたとも、末広の扇に似た形でめでたいともされている。その向こうの櫓には市村座の定紋の根上り橘らしきものが見える。又、向かって左は、森田座(当時は河原崎座)の定紋らしい。
明治半ばから新歌舞伎を代表する劇作家となった岡本 綺堂の『綺堂むかし語』の中に『島原の夢』が収められている。そこには、
“『戯場訓蒙図彙(ぎじょうくんもうずい)』や『東都歳事記』や、さてはもろもろの浮世絵にみる江戸の歌舞伎の世界は、たといそれがいかばかり懐かしいものであっても、所詮(しょせん)は遠い昔の夢の夢であって、それに引かれ寄ろうとするにはあまりに縁が遠い。何かの架け橋がなければ渡ってゆかれないような気がする。その架け橋は三十年ほど前から殆(ほとん)ど断えたといってもいい位に、朽ちながら残っていた。それが今度の震災と共に、東京の人と悲しい別離をつげて、かけ橋はまったく断えてしまったらしい。”・・・と。
この作品は、1923(大正12)年9月の関東大震災の直後に書かれた作品の1つだが、失われ行く江戸・明治前期に、作品のトーンには悲しみが漂っている(この作品は、以下参考の青空文庫の※:「作家別作品リスト:No.82:岡本綺堂」で読める)。
1867(慶応3)年 暮れに幕府が崩壊すると、翌・1868(慶応4)年は春先から江戸開城・船橋の戦い・上野戦争などの騒擾が続き、猿若町への庶民の足も遠退いて、芝居興行は不振をきわめた。そんな中、新政府は同年9月末、突然猿若町三座に対し、他所へ早々に移転することを勧告。天保の所替えからすでに25年、世代も交替し、猿若町は多くの芝居関係者にとって住み慣れた土地となっていたので、三座の座元はいずれも移転を渋ったが、業を煮やした東京府は、1873(明治6)年 府令によって東京市内の劇場を一方的に十座と定め、猿若町にあった三座は「十座」の中に取り込まれてしまった。布令によって新劇場がいずれも外濠の内側に開店するのに対し、猿若町は歓楽街とはいえ東北に偏った地にあることが重い腰をあげ移転するひとつの理由となるが、三座のなかで最初に猿若町を離れたのは守田座(森田座を改称)で、1872(明治5)年 に新富町(しんとみちょう、現在の中央区新富2丁目)に移転、明治8年 (1875年) にこれを新富座と改称した。新富座の座元・12代目守田勘彌には先見の明があり、1876(明治9)年9月に新富座が類焼により全焼すると、その場は仮小屋でしのぎ、その間に巨額の借金をして、1878(明治11)年6月には西洋式の大劇場・新富座を開場。杮落としの来賓に政府高官や各国公使を招いて盛大な開場式を挙行するというのも前代未聞だったが、なによりも新富座は当時最大の興行施設で、しかもガス灯による照明器具を備えてそれまでできなかった夜間上演を可能にした、画期的な近代劇場だった。以後この新富座で専属役者の9代目團十郎・5代目菊五郎・初代左團次の三名優が芸を競いあい、ここに「團菊左時代」(だんぎくさ じだい)と呼ばれる歌舞伎の黄金時代を築いたが、1910(明治43)年松竹に買収され同社経営下に移り、大正12年の関東大震災で被災するとそのまま再建されず廃座となっている。
『島原の夢』の中で、劇場は日本一の新富座のあったときのその周辺の繁栄振りを回想しながら、そこを江戸期の猿若町が芝居町と呼ばれていたのとは違って、”一般に島原とか、島原の芝居とか呼んでいた。明治の初年、ここに新島原の遊廓が一時栄えた歴史を有(も)っているので、東京の人はその後も島原の名を忘れなかったのである。(中略)その島原の名はもう東京の人から忘れられてしまった。”・・・と最後は寂しい言葉で締めている。余り戦争の被害もなかったという現在の新富町の様子は以下参考に※:新富町 明治期の新島原遊郭にはじまる旧花街」を見られるとよい。
(画像は「芝居顔見世の図」『東都歳時記』齋藤月岑・長谷川雪旦画、長谷川雪堤補画。冒頭の画像は、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科「江戸事情」第1巻生活編より)
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2009-11-01 | 行事
参考:
※:歌舞伎座公式ホームページ
http://www.kabuki-za.co.jp/
※ 作家別作品リスト:No.82:岡本綺堂
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person82.html#sakuhin_list_1
※:歌舞伎の世界構造
http://www.furugosho.com/profile/sekai.htm
※:芝居年中行事-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%8A%9D%E5%B1%85%E5%B9%B4%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E4%BA%8B/
※:電子図書 戯場訓蒙図彙(メニュー)
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/ebook01/mainmenu.html
※:新富町 明治期の新島原遊郭にはじまる旧花街
http://www.shurakumachinami.natsu.gs/03datebase-page/tokyo_data/shintomi/shintomi_file.htm
顔見世 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%94%E8%A6%8B%E4%B8%96
顔見世 - 歌舞伎事典
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc_dic/dictionary/dic_ka/dic_ka_01.html
井原 西鶴-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E5%8E%9F%E8%A5%BF%E9%B6%B4
式亭三馬 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E4%BA%AD%E4%B8%89%E9%A6%AC
高浜虚子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%B5%9C%E8%99%9A%E5%AD%90
市村羽左衛門 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E6%9D%91%E7%BE%BD%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
新富座 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AF%8C%E5%BA%A7
岡本綺堂 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E7%B6%BA%E5%A0%82
邦楽ニュース●話の種~顔見世
http://www.otakihogakki.com/news/tane195.htm
斎藤月岑 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E6%9C%88%E5%B2%91
季語・顔見世
http://cgi.geocities.jp/saijiki_09/kigo500b/136.html

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