今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

自然薯の日

2009-11-16 | 記念日
日本記念日協会の今日(11月16日)の記念日の中に「自然薯の日 」があった。
冬が来るのにそなえて、体に良い自然薯を食べて体力をつけてもらおうと、自然薯の食事処「麦とろ童子」を静岡県熱海市で営む清水元春氏が制定したものだそうだ。日付は、11月16日を「いいいも」(6=もの字に似ている)と読む語呂合わせと、自然薯の最盛期であることから。 ・・・だそうだ。
以下参考に記載の※:「麦とろ童子」を見てみると、その店の写真・地図等が見られるが、この店は、海側の一面は全面ガラス張りにしてあり店内からの眺めも素晴らしく相模湾を見下ろしながら食事を楽しむことがが出来るそうだが、なかなか店の雰囲気もよさそうだ。ただ店の説明の中に”麦とろ童子では店主のおじさんが注文の前にいろいろと料理の内容を説明してくれます、親父ギャグを織り交ぜながらメニューの選び方や食べ方の講義のあと注文を受けます。そのあともお茶を運んで来てはお茶と器の説明、箸と漬物を運んで来ては漬物の説明とすべてのお客さんに丁寧におなじ話を繰り返しています。”・・とある。これを、親切にありがたいことと受け取るか、いろいろとおせっかいなことと受け止めるかは、人それぞれだろうな~。
静岡といえば、江戸時代後期の十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の弥次さんと喜多さんが旧東海道鞠子宿(現静岡県静岡市駿河区丸子)の名物とろろ汁を食べるところがあり、このことは、以前にこのブログ6月16日「麦とろの日」でも書いたことがあるが、丸子宿のとろろ汁や「丁子屋」は今も健在とか。このとろろ汁には、麦飯がよくマッチしたから、「麦とろ」として、現代にまで伝えられており、麦とろご飯は麦飯にすりおろした自然薯(ヤマノイモ)の汁をかけて食べる料理で、静岡は自然薯が有名だよね。
自然薯(ジネンジョ)とは、ヤマノイモ科ヤマノイモ属のつる性多年草ヤマノイモ(山の芋、学名:Dioscorea japonica)の一名(ヤマイモ【山芋】とも云う)であり、この植物のいもとして発達したもののことをいう。Wikipediaでは、このいもとして発達したものを担根体としているが、百科事典-担根体 では、”ヤマノイモのいもも一種の担根体と考えられてきたが、発生過程をみると、これは胚軸(はいじく)や茎の基部が異常成長したものである。"・・・としている。以下参考の※:「担根体とは何か 」でもそう書かれており、こちらが正解なのだろう。
「いも」の漢字は難しい。漢字で普通に「芋」とだけ書くと、これは里芋のことで、「藷」は蕃藷(さつま芋)を意味し、「薯」は馬鈴薯(じゃが芋)をいい、「蕷」は山の芋(自然薯)をさしていた(漢字については以下参考の※:「漢字辞典ネット」参照)。
「ヤマノイモ(山の芋)」は、元来、日本原産の野生の植物である天然山芋であり、自然生(じねんじょ)が転じ「自然薯」(薯とはいものこと)と言われるようになったが、かつては山へ行って掘ってくるものだった。フランス料理にも使う、世界三大珍味の1つ「トリュフ」(セイヨウショウロ属のきのこの総称)は養殖が困難なため、訓練された犬又犬並の嗅覚をもつ豚などによって楢・樫の林に自生しているものを探し当てるというが、自然薯の場合も豚と同類の猪の方が探すのは上手で、人よりも先を越して掘り返えし、人に遺されたのは深いところの部分だけ・・・といったことも多かったともいう。
中国原産で17世紀に日本に移入されたナガイモ(長芋)(D. batatas)やダイショ(大薯)(D. alata)のことをヤマノイモ、ヤマイモと呼ぶことがある。又、古くは「薯蕷」と書いてヤマノイモと読んでいたようだが、これも誤りで、「薯蕷」はナガイモのことであることを指摘したのは、「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である植物学者・牧野富太郎 であり、それを指摘したのは、1927(昭和2)年12月31日発行の『植物研究雑誌』第四巻第六号での「やまのいもハ薯蕷デモ山薬デモナイ」の中であると、自身の随筆集『植物一日一題』の中で書いている(以下参考の※:「牧野富太郎: 植物一日一題【青空文庫】」の中の”薯蕷とヤマノイモ”、”ナガイモとヤマノイモ”のところを参照)。
山の芋によく似た長芋、は、中国原産の渡来種であったが、いつのまにか自生化し、長芋は自然薯と違って栽培しやすいことから栽培種となった。本来ちがう種が、この時指摘されるまでずっと混同されていたようである。
牧野の同随筆集の中で、”このジネンジョウはやはり「野に置け」の類でその天然自然のものが味が優れているので、これを圃(圃【圃場=作物を栽培する田畑。農圃】)につくってその味を落とすようなオセッカイをする間抜け者は世間にないようだ。やはり山野を捜し回ってジネンジョウ掘りをすることが利口なようである。”と記している。日本の山に自生している自然薯は、ナガイモよりも細く長く成長し、くねくね蛇行し地中深く直下して、時には1m以上も下に伸びており、これを掘るにはなかなか労力を要するようだ。
田山 花袋の『現代日本紀行文学全集 東日本編』の中におさめられている「日光」(青空文庫参照)には、以下のような記述がある。
“日光の山の中には種々な自然生の食物がまだ澤山に殘つてゐた。山獨活(うど)、山人參、山蕗(ふき)、ことに自然薯が旨かつた。秋の十月の末から初冬の頃になると、山の人達は、それを掘つたのを背負籠に負つて、そして町の方へと賣りに來た。寺の坊などではそれを待ちつけて買つた。髮を棕櫚箒のやうにした山の上(かみ)さんが、「そんなことを言つたつて、中々掘るが難儀だでな……」などと言つて、白い衣を着た莞爾(にこ/\)した老僧と相對してゐるさまは到る處で見懸けた。”・・と。
栽培種の長いもとはちがい、天然ものの自然薯は非常に粘りが強いのが特徴で、とろろ汁のようにすりおろして食べるのに適している。近年は自然薯も栽培もされているようだが、収穫に手間がかかるため流通量が少なく、貴重な食材で、高価であることにはちがいない。
牧野の随筆集には、”昔から山ノイモが鰻になるという諺があって、それが寺島良安( Yahoo!百科事典参照)の『倭漢三才図会』(以下参考に※:倭漢三才図会【九大デジタルアーカイブ】参照)に書いてある。しかしこれはまじめなこととは誰も信じていないだろうが、””鰻もヤマノイモも共に精力を増す滋養満点の物だからその両方の一致した滋養能力から考えてそういったのだろう””トロロにするにはヤマノイモの方がまさっている。ナガイモの方には粘力が比較的少なくて劣っている。そしてこのように生のまま食う根は他にはない。”・・とあるように、日本人は古来よりヤマノイモを苦労して掘ってきて、擂り下ろして「とろろ」にしてご飯(麦が合う)に掛けて食べ、滋養・強壮の食としてきたのだろう。又、食用としてではなく、薬用としても用いられてきたというが漢方薬である「山薬」を、牧野は、”「やまのいもハ薯蕷デモ山薬デモナイ」、つまり、中国産のナガイモであったとしているようだが、日本では、今は自然薯の根茎の外皮を除去して乾燥したものも使われているようだ(以下参考の※:「山薬:漢方・中医学用語説明【生薬】参照)。
今昔物語』や『宇治拾遺物語』にその出典が見られる芥川龍之介の短編『芋粥』に”五位は五六年前から芋粥(いもがゆ)と云ふ物に異常な執着を持つてゐる。芋粥とは山の芋を中に切込んで、それを甘葛(アマヅラ)の汁で煮た、粥の事を云ふのである。当時はこれが、無上の佳味として、上は万乗(ばんじよう)の君の食膳にさへ、上せられた。従つて、吾五位の如き人間の口へは、年に一度、臨時の客の折にしか、はいらない。"(以下参考の※:芥川龍之介 「芋粥」【青空文庫】及び、※:書評『芋粥』など参照)とある。
現代は、サツマイモを用いても芋粥と言うことが多いが、さつま芋やじゃが芋など、外国の芋が日本に入ってきたのは江戸時代のことであり、それ以前の日本の芋といえば、ヤマノイモとサトイモ、つまり、山で獲れた「山の芋」と里でとれた「里芋」があっただけであり、外来種の芋が入る以前の芋粥は採るのに非常な苦労を要するヤマノイモを、これまた当時は貴重品であった甘葛で煮込んだものであり、無上のよい味だが、摂政藤原基経( Yahoo!百科事典参照)に仕えている五位のような身分のものでは普段は食べることの出来ない高級な食べ物だったのだ。『今昔物語集』と『宇治拾遺物語』に、藤原利仁将軍が下級役人をわざわざ自分の任地の敦賀(つるが)まで連れて行き、いも粥を御馳走(ごちそう)したと書いてある。
納豆とか概して粘るのものは身体に良い。特に、自然薯は長芋より、粘りがあって良いことは分かるのだが、自然ものの自然薯は、品質にも差があるようだが何れにしても今の時代でも非常に高く、庶民の我々でもなかなか普段口にすることが出来ない。時々、進物でいただくが、それ以外は大概スーパーで買ってきた長芋で間に合わせている。
自然薯は、やはり、「麦とろ」が一番良いが、皮をむかずに食べるのが風味を活かすこつのようだ。自然薯のつるにできるムカゴ(零余子)をごはんに炊き込んだ、零余子飯もいけるそうで、俳句では、晩秋の季語にもなっているそうだが、私は、残念ながら食べたことがない。どこかで、見たら、一度食べてみよう。
(画像は自然薯)
参考:
※:麦とろ童子
http://homepage2.nifty.com/koaji/shokujitokoro/ito/warabe.htm
※:担根体 - Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%8B%85%E6%A0%B9%E4%BD%93/
※:担根体とは何か
http://www.mus-nh.city.osaka.jp/tokuten/2002plantevo/virtual/3/3_4.html
※:牧野富太郎: 植物一日一題【青空文庫】
http://www.aozora.gr.jp/cards/001266/files/46820_29303.html
※:倭漢三才図会【九大デジタルアーカイブ】
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/wakan/
※:山薬:漢方・中医学用語説明【生薬】
http://www.hal.msn.to/kankaisetu/chuyaku058.html
※:芥川龍之介 「芋粥」【青空文庫】
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/55_14824.html
※:書評『芋粥』
http://www.geocities.jp/npowaro/raku-100.htm
※:漢字辞典ネット
http://www.kanjijiten.net/index.html
牧野富太郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E5%AF%8C%E5%A4%AA%E9%83%8E
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
東海道中膝栗毛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%B8%AD%E8%86%9D%E6%A0%97%E6%AF%9B
芋粥 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%8B%E7%B2%A5
自然薯のうんちく【(株)波賀メイプル公社】
http://www.haga-net.co.jp/jinenjyo/jinenjyo.html
いも-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%81%84%E3%82%82/
田山花袋 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B1%B1%E8%8A%B1%E8%A2%8B
芋粥 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%8B%E7%B2%A5
季語・零余子飯
http://cgi.geocities.jp/saijiki_09/kigo500c/432.html

プロ野球で活躍した鉄腕・稲尾和久の忌日

2009-11-13 | 人物
今日・11月13日は、プロ野球の元西鉄ライオンズの黄金期を担った鉄腕・稲尾和久の2007(平成19)年の忌日である。
1950年代に、無名の高校球児が、水星の如くプロ野球界に登場すると西鉄ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズの前進)を率いた三原修監督(故人)やマスコミ、ファンなどから、「神様、仏様、稲尾様」と評されるような大活躍をし、その現役時代は正に伝説の連続だった。稲尾は、大分県別府市出身。1956(昭和31)年、別府緑丘高校(現・大分県立芸術緑丘高等学校)から、かって、福岡市中央区の平和台に本拠地のあった西鉄ライオンズに入団。高校時代補欠の選手から投手に転向した全く無名の選手であり、監督の三原は、「バッティング投手(打撃投手)として獲得した」と言っていたようだが、その彼が、バッティング投手としての練習の中で力をつけ、チームのベテラン選手たちから推薦されオープン戦で使われたときに良い結果を出し、開幕を一軍で迎えた。そして、開幕戦(対大映ユニオンズ)で11-0と西鉄が大量リードで迎えた6回表から、先発の河村英文(故人)の後を継いで2番手としてプロ初登板し4回を無失点に抑えた。その後もしばらくは敗戦処理などで登板していたが、投手陣の故障などから登板機会が増え、シーズンが終わってみると、なんと、21勝6敗、防御率1.06という驚異的な成績を挙げて新人王を獲得していた。
三原は、高校時代、無名選手であった稲尾の足腰の強さには一目おいていたという。彼は、漁師の家の7人兄弟の末っ子として生まれたが、漁師を継がせたいと考えていた父親の意向で、幼い頃から(ろ)を仕込まれ、海に出て親の漁の仕事を手伝っていたことから、足腰が鍛えられ丈夫であったようだ。又、「戸板一枚地獄の底」と言われる危険な漁船での漁をした経験からマウンド上でも何事にも動じない度胸がついたと本人も後年述懐している。いずれにしても、高校時代無名であった者が三原に見出されたことは、スターへの足がかりとなった。
彼は、翌2年目もジンクスを破る35勝をマーク、特にシーズン20連勝という日本プロ野球新記録を打ち立て(巨人:松田 清 (故人)が、20連勝を果たしているが、これは、 1951年~52年【1951年19連勝+1952年1勝】に亘って達成したもの)、史上最年少でのリーグMVP(最優秀選手)に選出されたている。
その翌・1958(昭和33)年には、33勝し、リーグ三連覇に貢献。巨人と対戦した日本シリーズでは、チームが0勝3敗からの奇跡の逆転優勝を果たすが、この日本リーグでの優勝は稲尾なくして起らなかったであろう。
この年のオールスター以降17勝1敗と大車輪の活躍を見せた稲尾は日本シリーズ直前に原因不明の高熱に襲われ、フラフラの状態で後楽園での第1戦に先発するも巨人打線に捕まり敗戦。第2戦も島原幸雄投手他で敗戦し、西鉄は2敗目を喫した。ホームグラウンドである平和台球場に移動しての第3戦にも三原は稲尾を先発で投入したが、稲尾は3回広岡達朗の右翼線へのタイムリー3塁打で先制された1点以外、4回以降は9回まで無失点で抑えたものの味方打線が点を取れずにこの1点で負け投手となり、これで、三原・西鉄は宿敵・水原茂(故人)監督率いる巨人に3連敗と絶対絶命のピンチに追い込まれた。
その翌日が雨により試合が順延となると、三原監督は第4戦にも稲尾を3度目となる先発投手に起用し、シリーズ初勝利を挙げると、第5戦も4回表から稲尾をリリーフ登板させるが稲尾はシリーズ史上初となるサヨナラホームランを自らのバットで放ち勝利投手になる。
そして、続く後楽園球場での第6戦も、稲尾は先発し、2-0で勝利するが、9回2死、この年巨人に鳴り物入りで入団し華々しくデビューした大物新人の長島茂雄(この年新人ながらセリーグのホームラン王・打点王の2冠を取り打率も2位だった)を迎え、一発食らうと逆転負けの場面で、三原監督は稲尾に「敬遠して次の打者藤尾茂で勝負」を支持したが、珍しく稲尾はこれを拒否。「一度諦めかけていた日本シリーズ。長島と勝負させてくれ」と言って、内角速球で勝負をし長島を討ち取った。これには、東京六大学出身のエリートに負けてたまるかの気概があったとおう(2007・11・14朝日新聞記事)。その後の3試合も、稲尾1人が投げ抜いて、4連勝し奇跡の逆転優勝をし、日本一を成し遂げた。実に、7試合中6試合に稲尾が登板し、第3戦以降は5連投。うち5試合に先発し4完投しているのである。当然稲尾が最高殊勲選手に選ばれた。このとき「神様、仏様、稲尾様」が流行語になった。冒頭掲載の向かって左画像が、この時の日本シリーズでの優勝パレードでの稲尾選手である又、右は力投する稲尾の英姿である。日本のプロ野球史上忘れることの出来ない1958年日本シリーズのことについて詳しくはここを参照されるとよい。又、この日本シリーズ優勝の翌・1959(昭和34)年には、早々と、西鉄の全面協力により、稲尾の半生を描いた映画『鉄腕投手 稲尾物語』(東宝、本多猪四郎監督。以下参考の※:goo 映画参照)が制作・公開され、稲尾が自分自身の役で主演している。
稲尾は、この翌・1959(昭和34)年にも30勝を挙げ、史上唯一の3年連続30勝を記録した。そして、1961(昭和36)年には元巨人のスタルヒン(故人)と並ぶ年間最多勝タイの記録となる42勝を挙げている。
その後も獅子奮迅の活躍で、西鉄入団1年目~8年連続で20勝以上を挙げ、234勝を稼ぎ出した。7年目には投手の
日本名球会界入りの条件とも言われる200勝を突破(200勝達成時年令:25歳2ヶ月)し、名球会入りを果たしているが、これは金田正一に次ぐ年少記録である。
2006(平成18)年ポスティングシステムを利用して、約60億円もの独占契約料が支払われ、ボストン・レッドソックスへ移籍した松坂大輔 は、高校時代「平成の怪物」と呼ばれた超大物選手であったが、その彼が、西武ライオンズへ1998(平成10)年に入団し、その後、2006年まで、西部時代の8シーズンで残した勝ち数は108勝である。稲尾はこの松坂選手の2倍以上の早さで白星を稼いできたのである。そんな男・稲尾には、「神様、仏様、稲尾様」に加えて「鉄腕」の称号もファンから与えられた。そんな彼は動物のサイに似てスケールが大きく、目が細いことから「サイ」ちゃんの愛称でも慕われていた。
しかし、1964(昭和39)年には、それまでの酷使がたたって肩を故障し、シーズン6試合に登板するが、プロ入り後初めて1勝も挙げられないシーズンとなった。これを機に1966(昭和41)年リリーフに転向、同年最優秀防御率のタイトルを獲得したが、1969(昭和44)年限りで現役を引退(実働14年)した。稲尾の早期引退がきっかけとなって先発ローテーション制度が導入されたと言われるほど当時の衝撃は大きいものがあった。
最近では、先発投手は中4日の登板が常識であるが、当時「エース」と呼ばれる投手は先発・リリーフの双方をこなすことが当たり前で、週2~3回の登板や連投も珍しくなかったが、そんな当時でも稲尾の連投に次ぐ連投の投球回数の多さは別格だった。42勝を挙げた1961(昭和36)年など、登板78試合(パ・リーグ記録)のうち先発で30試合、リリーフで48試合に登板している。当時は中3日で「休養十分」とみなされていたが、この年の稲尾は中3日以上空けて登板した試合がわずか18試合しかなく。逆に3連投4回を含め連投が26試合ある。
このような連投に次ぐ連投の中でも、2000イニング以上投げて通算防御率が1点台という凄い成績を残している。今の投手のように大事に使われていたら、どれだけの成績を残していただろう。
現役を引退した翌・1970(昭和45)年から、西鉄の監督に就任。32歳での監督就任は専任監督として最年少であった。
しかし、前年からの「黒い霧事件」の中で監督として指揮をとったが、永久追放者を出した西鉄は特に主力を失うこと著しく、稲尾が監督となった1970(昭和45)年から3年連続最下位と云う屈辱的な結果になり、観客動員も激減して球団経営が完全に行き詰まり、1972(昭和47)年シーズン終了後に、球団は西日本鉄道から福岡野球株式会社へ身売りされることになり、球団名も太平洋クラブとなる(太平洋クラブは、ネーミングライツによる冠スポンサーで、実質は当時のロッテオリオンズのオーナー中村長芳の個人会社)。稲尾は監督を引き継ぐが2年間5割に満たない勝率に終り、1974(昭和49)年限りで監督を退任。ユニホームを脱いでからは、評論家として野球界の発展に寄与。1993(平成5)年には野球殿堂入りも果たし、2006(平成18)年からは委員長に就任していた。
私など特別な野球ファンでもなく、野球の試合と言えば、セ・リーグの阪神か巨人の事ぐらいしか知らなかった者でも、現役当時の稲尾の活躍ぶりだけは、鮮明に記憶に残っている。思い起こせば、稲尾が活躍していた当時は、西鉄だけでなく、パ・リーグの各球団には良い選手が居り、それぞれ良い試合をして人気もあったが、黒い霧事件などで西鉄が低迷を始めると同時にパ・リーグの人気そのものも下降することになったよね~。
稲尾のことは以下参考の※:稲尾和久特集ページ : nikkansports.com が詳しい。
(画像左:1985年日本シリーズに勝ち優勝パレードする西鉄の稲尾。右:は力投する稲尾。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
稲尾和久 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%B0%BE%E5%92%8C%E4%B9%85
日本プロ野球名球会
http://www.meikyukai.co.jp/index.html
日本野球機構オフィシャルサイト
http://www.npb.or.jp/
平和台野球場 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%8F%B0%E9%87%8E%E7%90%83%E5%A0%B4
松田清 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E6%B8%85
松坂大輔 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%9D%82%E5%A4%A7%E8%BC%94
日本プロ野球名球会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E7%90%83%E4%BC%9A
※:稲尾和久特集ページ : nikkansports.com
http://kyusyu.nikkansports.com/baseball/inao/rensai_top.html
※:鉄腕投手・稲尾物語 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD26182/index.html

断酒宣言の日

2009-11-10 | 記念日
日本品記念日協会の今日・11月10日の記念日に「断酒宣言の日」 があった。
制定したのは、社団法人・全日本断酒連盟。連盟の結成記念大会が1963(昭和38)年の11月10日に開催されたことと、「もう、飲ベンバー(ノヴェンバー=11月)、酒、止まる(10日)」の語呂合わせからこの日としたものだそうで、全国各地にある断酒会では例会を開き、機関誌などで断酒の精神をアピールするなどの活動を行っているそうだ。
「酒は飲め飲め、飲むならば、日の本一のこの槍を、飲み取るほどに飲むならば、これぞまことの黒田武士・・・」
民謡「黒田節」
働き蜂といわれ、仕事仕事に追いまくられていた私達が若かった昭和30年代頃、今の時代のように、スポーツや音楽などを楽しむ 余裕もなく遊びと言えば気のあった仲間と談笑しながら酒を飲むくらいであった。盆、正月、会社の忘年会や同窓会、それにハレの日など何かの機会があると酒宴を催していた。酒の宴席では、必ずと言って良いほど誰かがこの歌を唄っていた。これは九州福岡の民謡であるが、雅楽越天楽のメロディーにさまざまな歌詞を当てはめて歌う越天楽今様が元になっており、元々は筑前今様と呼ばれ、福岡藩の武士(黒田武士)たちに愛唱されていたものに藩主をはじめとする黒田武士達が填詞(てんし=新しい詞を作る)して興じていたものが、明治になって俗謡の影響も受けて、陽旋律から陰旋律に変わったものだそうだ(※:日本古謡はもともと五音階で、陰旋律と陽旋律に分かれていた。 陰旋律は「ミファラシドミ」、陽旋律は「ソラドレミソ」ヨナ抜きともいう。 西洋音楽で言えば前者が短調、後者が長調になる)。
1928(昭和3)年NHK福岡放送局が開局時の放送の際に、この唄が『黒田節』と名を替え全国に放送されたという。又、電波に乗った初期の頃は「黒田武士」と表記されていたようだ。
以下で曲が聞ける。又、その全詩が掲載されているが、私達が知っているのはその一部であることが分る。
福岡県民謡:黒  田  節(筑前今様)
http://www.geocities.jp/kushino1jp/kurodabusi.htm
この歌には、「日の本一のこの槍を、飲み取るほどに飲むならば・・・」とあるが、黒田家の家臣母里太兵衛福島正則から名槍日本号を呑み獲った逸話が題材となっている。太兵衛は黒田二十四騎の1人で、又兵衛と並ぷ豪傑であった。文禄・慶長の役の際黒田長政に従って従軍し、休戦中に、京都伏見城に滞留中の福島正則の元へ、長政の使者として使わされたが、太兵衛が黒田家家中でも酒豪で知られた人物であったことから、正則は大杯に並々と酒を注ぎ、「これを飲め」と執拗に一気飲みを勧め、固辞すると、なおも絡んできて、「黒田武士は酒に弱い、酔えば何の役にも立たないからだ」、などと家名を貶める発言をし、ついには、「飲み干したら、何でも好きな物をやる」と言いだしたことで、ついに、太兵衛は腹を決め、「それでは」と言って、そのまま、一気にその大杯を飲み干すと、そのまま、正則が豊臣秀吉から拝領した名槍「日本号」を所望した。「これだけは!」と言って蒼くなる正則に対し、「武士に二言はござるまい!」と云われ、しぶしぶ褒美に差し出した・・・という実話に由来するものだそうだが、Wikipediaによれば、“泥酔して家臣に切腹を命じ、翌朝になって間違いに気付いたがもはや取り返しがつかず、その家臣の首に泣いて詫びた”という逸話もあるというから正則の酒癖は相当悪かったのだろう。
「酒は百薬の長」とは中国古代の史書『漢書』から出た言葉らしいが、それぞれの酒を飲むのに適した温度で、香りとコクを楽しみつつ、ゆったりとした気分で適量を飲めば、ストレスを解消し、心を安らかにしてくれるので大昔は、お酒を薬として使っていたこともあったそうで、実際にそのようなデーターもあるという(以下参考の※:「酒は百薬の長」ってホント?参照)。しかし、世の中には、適量を越して飲酒し、悪酔いし、又、その酒癖の悪さで、いろいろと失敗もし、引いては身を滅ぼす人も結構多い。最近も元財務大臣某氏がG7の財務大臣・中央銀行総裁会議終了後の会議において、ろれつの回らない二日酔いのような様子で記者会見を行った様子が海外も含めたメディアで放送され、猛批判を浴び、3日後に大臣職を辞任していたよね~(ここ参照)。
酒の歴史は非常に古く、有史(文字の歴史)以前から作られており、中国において、殷・周のころ、酒は国家の重要事である祝祭において重要な意味を持っていたようであり、非常に手の込んだ器である殷代青銅器のうち、多くのものは酒器である。
論語』(郷党第十)には、「郷人飮酒」(町内の宴会で、村の人たちと酒を飲む)」などの記述があり(以下参考に記載の※印の「論語」の解説が3種類あるので参考にされると良い)、紀元前5世紀頃に酒は一般的な飲み物になっていたらしい。
同じく『論語』(郷党第十)に「唯酒無量。不及亂」(ただ酒は量なし、乱に及ばず=酒は定量がなかったが、酔いつぶれるほどには飲まなかった)とあり、孔子は、四角四面の堅物ではなく、仕事や学問はもちろん、お酒や音楽など、人生の楽しむべき面は大いに楽しんだ人物だったことが『論語』からも分る。
酒は、五臓六腑にしみわたる」などといった言い方をするが、酒に含まれるアルコ-ル(エタノール)は酒を飲むと直接、胃や腸から吸収され、酸化されてアセトアルデヒドとなり、それが血液にとけ込み、体中に回る。しかし、一度に大量のアルコールを摂取すると代謝が間に合わず、血中アルコール濃度が上昇を始める。血中のアルコールは中枢神経系を麻痺させ、酩酊急性アルコール中毒を引き起こす。通常、飲酒すると「ほろ酔い期」「酩酊(めいてい)期」「泥酔期」「昏睡期」という順で、徐々に血中アルコール濃度が上がるので、本人も酔ってきたという自覚がある。また、飲みすぎると足元がふらつく、吐き気がするなどの症状も出るので、自分自身である程度は飲酒量をコントロールできる。しかし、飲酒開始から血中アルコール濃度の上昇までには時間差があるため、短時間で大量の酒を飲むと、酔っているという自覚なしに危険な量のアルコールを摂取してしまうことがある。この場合、一気に「泥酔期」や「昏睡期」に到達してしまう。
ところで、人によっては飯より酒の好きな人もいれば嫌いな人もいる。又、酒を飲んで歌ったり踊ったりして騒ぐのを好む人もいれば、静かに嗜むのを好む人も居るが、あなたはどのタイプかな?私など、若い頃はやはり、無茶飲みしてわいわい騒ぐのが好きだったが、今は、晩酌を楽しむだけだ。
それは、中世でも同じ事で、酒を飲んで騒いでいる人々を見ることが出来る。『酒飯論』(しゅはんろん。以下参考の※:酒飯論 - Yahoo!百科事典参照)という16世紀の絵巻で中世の風俗が窺える。冒頭掲載の画像はその中の1枚で、南北朝時代の酔っ払い。酔い散らし吐いて解放される武士の光景を描いたもの。(三寺知恩院蔵、週間朝日百貨「日本の歴史」63、宴と贈り物より)
この絵巻の内容は、酒好きの上戸(じょうこ)酒造正糟屋朝臣長持と、飯好きの下戸(げこ)の飯室津師好飯、そして酒も飯もほどほどに好む中戸(ちゅうこ)の中左衛門大夫中原仲成の三者が三様に、それぞれの効用を主張し合うといった内容だが、その裏には、さまざまな宗派が覇を競っていた時代、上戸が念仏宗、下戸が法華宗、中戸が天台宗で、中庸を説く天台宗の優位を描いているそうだが、そのようなことはさておき、三者の主張を見てみよう。以下参考に記載の※:「TeaPot - Ochanomizu University Web Library - Institutional RepositoryTitle」が、詳しい。そこから、上戸と下戸の論争部分を引用させてもらおう。
上戸の酒造正糟屋朝臣長持の弁:その主張の中心は、飲酒の楽しみであり、漢詩における風流な飲酒や宴席の酒、本朝の物語に登場する酒にまつわる話、酒の余興の数々、四季折々の酒の楽しみを並べ、人生を享受することを述べる。最初に漢詩を挙げ、中国における飲酒の風流をうたう。引用されたのは李白の「瓊筵を開いて以て花に座し、羽觴を飛ばして月に酔う」、白居易の「林間に酒を煖めて紅葉を焼く」であった。日本の宴席では、元服や詩歌の会、結婚式、勝負の席、中国の例では春の曲水の宴と秋の重陽の節句を挙げ、盃が無ければこうした雅な遊びはできないと指摘。そして、上戸は「酒は憂いを消す」、「酒に酔った上での失敗は許される」と述べ。「酒飲みは金持ちである」としている。いわく「好みて酒を飲む人は昔は封戸(ふこ)もましましき」、「生まれつきたる貧福は下戸のたてたる蔵なし」・・と、上戸の主張は酒の楽しさに集中し、下戸に対する嫌味はせいぜい共に語るに足りないというようなもので僅か数行に過ぎないそうだ。
それに対して、下戸の飯室津師好飯の弁は、その主張のほぼ半分が飲酒による失態や醜態をあげつらうことで占められているそうで、下戸は先ず、飲酒は五戒の1つである(不酤酒戒」=酒をうることと飲むことの禁止)として、酒によって身をを滅ぼした故事を中国と本朝から引いて述べる。中国の古典からは項羽と劉邦の「鴻門会」、殷の紂王の「酒池肉林」の故事などである。劉邦は宴席を抜け出して命拾いし、紂王は酒の為に国を滅ぼした。本朝では源氏物語から、光源氏が須磨に流された話、今昔物語から藤大納言の北の方が大臣に奪われた話しを挙げて酒による失態や悪事を避難する。これを皮切りに下戸は飲酒の罪を延々と数え上げる。曰く、酒飲みは酒屋に入り浸って、酒を飲み、酒代を取り立てられれば逆切れする。人に逢えばすねたり管をまいたり。千鳥足でふらふらと歩き、厠に落ちて全身糞まみれなる。酒飲みの赤ら顔がどす黒くなる。生臭い口臭は周りの人間を辟易させる。酔っ払いの醜態は物笑いの種になるばかりか、他人を害したり自分の命を失うことさえある。さらに、酔いつぶれて正体不明になり、人に解放されるみっともなさ。翌日は二日酔いで仮病を使う羽目になるのだ。等々。この後、四季折々の飯まで、総動員して、その美しさを褒め称え、下戸は、上戸の挙げる宴会の余興や漆塗りの盃に対して美々しい茶器を並べて「静かに遊ぶ茶の会は、酒盛りより面白い」のだと反論しているそうだ。そして、最後に、中戸の中左衛門仲成が登場し、万事ほどほどが良いと「中庸」「中道」を説く。
因みに、今、酒を多く飲む人を上戸、飲めない人を下戸というが、この『酒飯論』の中で、上戸の長持が「酒飲みは金持ちである」いわく「好みて酒を飲む人は昔は封戸もましましき」と関係がある。701(大宝元年)年に発令された大宝律令の家制度として、賦役に服する義務をもつ者が6人以上いる家を上戸、4人ないし5人の家を中戸、3人以下の家を下戸とする、納税額による階層のようなものが定められた。次第にこの呼び名も別の意味をもつようになり、働き手の多くいる家とそうでない家という発想から、経済的な豊かさの違いを表すようになり、さらにその意味が発展して、家の経済力に伴って「酒を多く振る舞える上戸と、あまり振る舞えない下戸」そして「酒を多く飲む人が上戸、飲めない人が下戸」となったといわれている(以下参考の※:上戸・下戸 - Yahoo!百科事典)。
いやはや、それにしても、下戸さんの批判は痛烈そのものだね~。確かに、酒も度が過ぎると身体に良くないことは百も承知だし、中戸さんの言うとおり、万事ほどほどが良いのはわかってはいるのだが・・・・。
♪お酒呑むな、酒呑むなのご意見なれど ヨイヨイ、
 酒呑みゃ酒呑まずにいられるものですか ダガネ、
 あなたも酒呑みの身になってみやしゃんせ ヨイヨイ、
 ちっとやそっとのご意見なんぞで酒やめられましょか、
 トコ姐さん酒持って来い。
「ヤットン節」1952(昭和27)年( 作詞:野村俊夫 、作曲:服部レイモンド、唄:久保幸江)。
宴会場から三味線の音と供に聞こえてきこの俗曲も、私たちが若い頃よく流行っていた曲だが、歌の歌詞通り、酒を呑むな!呑むな!と言われても、酒好きにはなかなか酒は止められないものだ。しかし、ストレス発散の手段として、又、飲みニケーションとしての効用もあり、仕事の後に酒を飲んで酔っ払うといったケースがあるが、酔っ払いは他者への迷惑行為、嘔吐などを起こす可能性が高いため、嫌われることが多いだけでなく、普段気弱な人もトラになり、喧嘩・口論を始めたりする。
会社の慰安会等で、地位や身分の上下にこだわらず楽しむ酒宴のことを“無礼講”と呼び、これらの酒席での争いごとはその場限り「酒の上でのこと」と、すべてを水に流そうという慣習は、日本では昔からあった習慣で、酒宴の場を一種のアジールとみなしていたものが、現在にも生きているのだが、これは、後白川法皇が平氏打倒の陰謀を鹿が谷の酒宴の席上で計画(鹿ケ谷の陰謀参照)し、後醍醐天皇の反乱(正中の変参照)の計画が、世をあざむく為の無礼講・破礼講といわれる宴席で練られたのも、宴席の場がアジール的性格を持っていたからで、恐らく、それは、このブログ「歳暮 」でも書いたことがあるが、“酒宴が神々と共食する場”であったという古くからの慣習にその起源があると思われる。後醍醐天皇のこの時の「無礼講」と呼ばれる宴席が、今言われているものの語源だろう。
しかし、宴席の始めに、今日は「無礼講」などと言われてもそれは、「楽しんで欲しい」という意図から、形式的に述べられるだけの場合が殆どであり、会社などの宴会で、酔っ払って、上司に好き勝手なことを言っていると、その付けは必ず返ってくるものと覚悟していおいた方が良いだろう。これは、経験者が言うのだから間違いない(^0^)。
飲酒後の頭痛・不快感などの原因となるアセトアルデヒドには発がん性も有り、飲酒によって膵臓がん、口腔がん、食道がん、咽頭がん、大腸がんなどの発症が高くなるそうだ。又、酒を控えなくてはいけないとわかっていても止められない人に見られるように、恒常的に飲酒を繰り返していると、アルコール依存症となり、肉体(主に肝臓・神経系)、精神双方に多くの疾患が発生することとなる。又、このごろは、飲酒をして車に載ると、例え酔って居なくても、それだけで犯罪になるように、とかく、飲酒に対して、世間の目は厳しくなって来ているので、自分のためにも、世間のためにも、悔しいけれども、中戸の言うことを聞き入れた方が良いだろうね~。
一応、今日は、「断酒宣言の日」なので、酒が止められなくて困っている人達は、(社)全日本断酒連盟-HPの”断酒のすすめ”など見ておいた方がよいだろう。
(画像は、南北朝時代の酔っ払い。『酒飯論』から、酔い散らし吐いて解放される武士の光景。三寺知恩院蔵、週間朝日百貨「日本の歴史」63、宴と贈り物より)
このブログの字数制限上、参考は別紙となっています。以下をクリックしてください。このページの下に表示されます。
クリック ⇒ 断酒宣言の日:参考

断酒宣言の日:参考

2009-11-10 | 記念日
参考:
※:酒飯論 - Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%85%92%E9%A3%AF%E8%AB%96/
※:上戸・下戸 - Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%B8%8A%E6%88%B8%E3%83%BB%E4%B8%8B%E6%88%B8/
※:久保幸江 トンコ節 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/cd/CDDORID79105-1/index.html
※:書評より_『博多放送物語』 NHK福岡を語る会編
http://www.shimoda-print.co.jp/database/review/c10_045.htm
※:「酒は百薬の長」ってホント?
http://www.excite.co.jp/News/bit/00091201695598.html
※:論語-日本語訳
http://www.1-em.net/sampo/rongo_lingual/japanese_01.htm
※Web漢文大系-論語 
http://kanbun.info/keibu/rongo00.html
※:「論語に学ぶ会」論語全十巻解説一覧
http://rongo.jp/kaisetsu/list.php
※:TeaPot - Ochanomizu University Web Library - Institutional RepositoryTitle
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/35183/1/83_372-376.pdf#search='酒飯論絵巻'
酒 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%A3%B2%E6%96%99
社団法人・全日本断酒連盟-HP
http://www.dansyu-renmei.or.jp/
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
黒田武士の由来 || 清酒 黒田武士 || 大里酒造株式会社
http://www.kurodabusi.com/kurodabusi.html
服部逸郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E9%80%B8%E9%83%8E
黒田節 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E7%AF%80
久保幸江 トンコ節 - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/cd/CDDORID79105-1/index.html
松若雅優由舞踊研究所 黒田節
http://www2.cc22.ne.jp/~yukihiro/kuroda.htm
論語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E8%AA%9E
中川昭一 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E6%98%AD%E4%B8%80
南北朝時代 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
李白 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%99%BD
※:春夜宴桃李園序:李白 - 壺齋閑 話
http://blog.hix05.com/blog/2009/07/post-1061.html
※白居易 琵琶行一 詩詞世界 碇豊長の詩詞:漢詩
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/r30_xu.htm
白居易 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B1%85%E6%98%93
封戸 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E6%88%B8
五戒 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%84%E8%AA%9E
劉邦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E9%82%A6
帝辛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E8%BE%9B
アジール - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%AB
日本史の出来事一覧-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7
愛媛県歴史文化博物館:戦国展資料紹介 食事の風景(1) 酒飯論絵巻
http://rekihaku.jugem.jp/?month=200710
愛媛県歴史文化博物館:戦国展資料紹介 食事の風景(3)
http://rekihaku.jugem.jp/?eid=171
You-Tube-黒田武士 ~ 黒田節 ~ おてもやん
http://www.youtube.com/watch?v=-qHn60xxnQI

断酒宣言の日 冒頭へ 戻る

荒木又衛門「鍵屋の辻の決闘」

2009-11-07 | 人物
鍵屋の辻の決闘は、寛永11年11月7日(1634年12月26日)荒木又右衛門が数馬の弟の敵(仇)である河合又五郎伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件であり、「伊賀越の仇討ち」ともいう。
日本三大仇討(敵)ちと言えば、「曽我物語」(曾我兄弟の富士の夜襲」)、「忠臣蔵」(赤穂浪士の討ち入り)そして、「伊賀の水月」(伊賀越の仇討ち)である。「水月」とは、兵法における陣立てのひとつで、水に映る月のように双方が対峙している様から。 関連して、「伊賀の水月」は、「荒木又右衛門」とも題される“36人斬り”の名場面で有名な講談である。
「時しも嘉永11年(1634年)11月7日、伊賀の上野は金伝寺(きんでんじ)門前、鍵屋の辻において、柳生流剣士、荒木又衛門源義村---、河合又五郎をはじめ、付き人36人をむこうに回す、三十六番斬り----」。講談師の張り扇からたたき出される鍵屋の辻で颯爽と36人を斬って落とした剣豪荒木又衛門の敵討ちは、講談に、歌舞伎に、時代劇映画にと日本人の国民感情に訴えるものとして脈々と受け継がれてきた。
冒頭掲載の画像は、香蝶楼国貞(初代国定)筆による「伊賀ノ上野仇討ノ図」(国立国会図書館蔵)、である。中央二刀流で戦っているのが荒木又衛門である。又右衛門は伊賀藤堂家の家臣服部平左衛門の二男で幼名丑之助。伊賀(現在の三重県伊賀市)の荒木村で生まれ育った。剣術は柳生十兵衛に学んだ柳生新陰流の達人だったそうだ。
しかし、この又右衛門の「36人斬り」などは、実際と虚像にはかなりの差がある。第1に、日本三大仇(敵)討ちなどと言われているが、実際には、仇討ちではなく、上位打ちの形をとった決闘に過ぎなかった。講談などでは、渡辺数馬が姉婿荒木又右衛門の助太刀を得て、父親、渡辺靭負(ゆきえ)の仇(あだ)を報いたことになっているが、事実は、数馬の弟源太夫が討たれたのが事の起こり。江戸時代、仇討ちとは元々、子が親の仇を、家来が主君の仇を討つ等をさし、このような「兄が弟」の又、「親が子」の仇を討つというようなことは通常許されていなかった。
数馬の弟源太夫は、時の備前岡山藩藩主・池田忠雄(ただかつ)の寵童(ちょうどう)であった。寵童とは、主君などが寵愛(特別にかわいがている)童(わらべ)のことであり、つまりは、男色の対象として側においていた少年のことである。日本では、男色は、平安時代より僧侶や公家の間で営まれ、特に中世に入り女を排除していた武家や寺院では一般的なものであったことが知られており、中でも、少年愛は仏教僧侶と寺院に仕える稚児や、織田信長とその小姓森蘭丸の関係は良く知られているが、名高い戦国武将のなかで男色の嗜好がなかったのは百姓出の豊臣秀吉位でであったとまでいわれているようであり、池田忠雄も例外ではなかった。池田公の寵童・源太夫を殺されて怒った忠雄の上意(主君の命令)を受けて、河合又五郎を斬ったのが真相であり、鍛冶屋の辻の決闘は上位打ちの形をとった決闘であり敵討ちなどではなかったのだ。それに、又右衛門の「36人斬り」も脚色による誇張であり、荒木方は又衛門を筆頭に4人。河合又五郎方は士分、小者ともで、合せて11人であったと藤堂家の公文書「累世記事」にも残っているという。
そもそも、ことの起りは、何故に渡辺数馬宅を、傍輩の又五郎が訪れ、忠雄公の寵愛一方ならぬ美少年源太夫(数馬の弟)と会い、又五郎が源太夫を斬ったかの子細は不明だが、これに激怒する忠雄公を尻目に江戸に逃れ、当時大名とは犬猿の仲であった旗本である安藤家某に保護を求めて匿(かくま)われた。こうして、17歳と19歳の少年の刃傷事件が旗本と大名の争いへと大きく発展したものである。鍵屋の辻の決闘に至る事件は、寛永7年(1630年)から11年にかけての事件であるが、まだ、大阪夏の陣から数えて15年くらいしか経っていない時期である、まだまだ世情不安な中で、旗本と大名の確執が政治問題化していた。そんな中、徳川家康の娘督姫の子である池田忠雄公と旗本が対決するとなると、それだけでも国内は騒然となる。
この時、岡山藩主は池田忠雄は、河合又五郎を呼び戻して処罰しようとしたが、かくまった安藤家・某がこれに抵抗したため忠雄公は公儀に訴えた。安藤家・某が直参旗本である以上、こうするよりなかったのだが、旗本グループが安藤のバックにつき、事は外様大名と直参旗本の抗争に発展する勢いとなった。これを何とかしようと老中松平伊豆守が動き出したが、寛永9年(1632年)この事件の解決を見ないまま忠雄公が急死した。一説では、ことを丸く治めようとした老中・伊豆守の差し金で毒殺されたとも云われているらしいが確証はない。それ程にまで当時は幕府は旗本と大名の対立に手を焼いていたのだ。事態の収拾に手を焼いていた幕府も忠雄公の急死を機会にようやくこの事件の終止符を打とうと、先ず、岡山藩の池田家を因幡(鳥取)に国替え、安藤に加担した旗本側の首謀者は百か日の寺入り謹慎処分、河合又五郎を江戸追放処分とした。要するに、喧嘩両成敗であり、表面的には事件は一段落したのだ。
しかし、その後、弟源太夫を殺された兄数馬が主君の遺志を継ぎ江戸追放となった又五郎を討とうと考え出し、大和郡山藩・松平家の剣術指南を勤めていた姉婿の荒木又右衛門に助太刀を求め、荒木はその助太刀を決意した。そして、荒木と同じ大和郡山藩家中の伯父河合尽左衛門にかくまわれていた又五郎を探知したことから、この日を堺に、何事もなければ地方の一剣士として終わっていたかもしれない又衛門が天下の名剣士に生まれ変わっっていく。
「いよいよ待ちに待ったる時節到来、川合又五郎の一門が鍵屋の辻に差し掛かったとみるや、タ・・・・・・・・・タと、飛鳥の如く飛びだした又衛門、いきなり先頭の河合甚左衛門を一刀のもとに切り捨てた。・・・・おなじみの荒木又衛門、三十六番斬り。」・・・の一席。
本当は、藤堂家公文書「累世記事」にもあるとおり、河合又五郎方11人を、“2代目一竜斎貞山が、附人を36人にして、これが当って以来、すっかり、この方が一般的になってしまった(2代目一竜斎貞山ではなく錦城斎典山との節もある。以下参考の※:錦城斎典山- Yahoo!百科事典参照)。この桜井半兵衛の如き、23歳で、立派な武士だが、本当に紹介されていないのは、遺憾である。この時、荒木が斬ったのは、河合甚左衛門と、この桜井半兵衛との2人だけである。”と小説家直木 三十五は、『寛永武道鑑(かんえいぶどうかがみ)』(以下参考の※:「青空文庫:作家別作品リスト:No.216作家名: 直木 三十五」参照)の中で付記している。このように、講談のなかでは桜井半兵衛は登場しない。しかし、河合側の主力は、又衛門と同じ大和郡山藩の上席剣術師範甚左衛門と、尼崎藩槍術師範であった桜井半兵衛の2人だけである。この『寛永武道鑑』では、桜井半兵衛が又五郎の助太刀をした理由について、“河合又五郎の妹の婿故、助太刀に出なくてはならぬ。何故なら、縁も無い旗本が、あれだけ援助しているのに縁につながる者が、出ぬ筈は無い”から、“然し――又五郎が殺したのは、数馬の弟の源太夫では無いか? 弟の仇を討つ――そういう法は無い筈だ。もし荒木と、数馬とが、その法を無視して、又五郎を討つなら濫(みだ)りに、私闘を行った罪として、処分されなくてはならぬし、この明白な事を知りながら、助太刀に出たわしも、処分されなくてはならぬ。そうした場合、主君に対して、何うして、申訳が立つか?“・・・と思いながらも、藩の槍術指南役として、又衛門と同じく二百石を頂いている半兵衛としては、世間からも腕前は又衛門と同格と言われており、将軍家御前試合に加わった荒木又衛門と”同じ二百石であり乍(なが)ら、将軍家の前へ出られるのと、出られぬのと、どんな違いがあるか? それを天下に示したい”・・とそれが、納得行かずに、どうしても腕を競べてみたかったからだと書いている。しかし、鍵屋の辻では、不覚にも、又衛門の奇襲攻撃をうけ槍持ちが襲われ、得意の槍を手にとることが出来ずに戦い結果として、半兵衛は深手を負い戦いの後に死去した。『寛永武道鑑』では、この桜井半兵衛のことを書いたものだ。その中で、将軍家御前試合の「荒木又衛門の対手は、宮本武蔵の忰八五郎だというが・・・」とあるので、これは、寛永御前試合のことだろう。Wikipediaでは、この試合、荒木又衛門【柳生新陰流】対宮本伊織(宮本八五郎)【新免二刀流】とは”あいうち勝負なしに終わった”とあるが、森銑三(もり せんぞう)「宮本武蔵言行録」(1940年)に、三代将軍徳川家光の寛永11年(1634年)9月22日から吹上御覧所で上覧仕合があり、そのとき又衛門と宮本伊織が引き分けたと記されているようだが、この頃には、荒木又右衛門は、奈良あたりで又五郎を追い回していた頃であり、江戸での試合に出場できるはずもなく、又、この天覧試合そのものが眉唾物と言われており、2人が試合をしたはずがないとも言われている(以下参考の※「[武蔵伝記集]武公伝09」参照)。
それに、又右衛門が15歳のころ柳生宗矩やその子柳生十兵衛の門人となったという説も、宗矩は江戸在住であり、又右衛門は物心付いたころからは備前や播州で過ごしている。さらに、又右衛門は十兵衛より8歳年長であり、10歳に満たない子供の門人になるとは考えられないが、武術は優れていたのだろう。寛永年間は、まだ戦国時代の名残りが残っているとはいえ、幕府の体制はがっちり固まっており、武道で名を売ることなど通じない時代になっており、伊賀越え敵討ちは彼にとっても名前を売るチャンスであったのだろう。本来上位討ちを果たした渡辺一馬の方が有名にならなければいけないのだろうが、助太刀をした荒木又衛門の方が有名になったのには、本人の魅力だけでなく、この仇討ち事件そのものが、政治の中で起こった事件であり、物語をストレートに扱うことはできなかったため、浄瑠璃や歌舞伎で扱われるのも事件後100年以上経ってからであり、仇討物語に仕立て上げたのもタブーを避けるためであったろうし、36人斬りの武勇伝を広めたのも講談師の張り扇が生み出したことにはちがいない。
首尾よく鍛冶屋の辻で本懐を遂げた又衛門はその後4年ほど藤堂家に留め置かれた後、寛永15年(1638年)鳥取池田藩に引き取られるが、鳥取到着後2週間でこの世から忽然と姿を消している。41歳の若さで急死したというが、その死因も明確ではなく死亡日までまちまちであり、又衛門の死には謎が多いようだ。
(画像は、錦絵「伊賀ノ上野仇討ノ図」荒木又右衛門の鍵屋の辻の仇討ち、著者名:香蝶楼国貞【初代国定】筆、国立国会図書館蔵。)

参考:
※:深谷克己ホームページ
http://www.f.waseda.jp/fky0/
※:三重県伊賀市街図
http://urano.org/kankou/igaueno/index.html
※:青空文庫:作家別作品リスト:No.216作家名: 直木 三十五
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person216.html#sakuhin_list_1
※:錦城斎典山- Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%8C%A6%E5%9F%8E%E6%96%8E%E5%85%B8%E5%B1%B1/
※:[武蔵伝記集]武公伝09
http://www.geocities.jp/themusasi2de/bukou/b209.html
荒木又右衛門 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E5%8F%88%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
剣聖 暁の三十六番斬り(1957) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD27508/index.html
貴重書画像データーベース(※「伊賀ノ上野仇討ノ図]で検索。錦絵 請求記号: 本別9-28 )
http://rarebook.ndl.go.jp/pre/servlet/pre_com_menu.jsp
歌川国貞 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E5%9B%BD%E8%B2%9E
少年愛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E6%84%9B
直木 三十五-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%9C%A8%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%94
水月 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%9C%88
伊賀の水月
http://www.raizofan.net/link4/movie3/suigetsu.htm
わがスクリーン遍歴78「伊賀の水月」
http://www.nwn.jp/screen/waga1/text1/78.html
森銑三 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%8A%91%E4%B8%89