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100のエッセイ・第9期・85 音楽会の後

2014-06-22 10:24:15 | 100のエッセイ・第9期

85 音楽会の後

2014.6.22


 

 室生犀星に「音楽会の後」と題する詩がある。犀星というと、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」の詩句があまりにも有名だが、それ以外の詩は、今ではほとんど忘れられているのではないかと思うので、全文を引用してみる。

人人の心はかなり深くつかれて
濡れてでもゐるやうに
愉しいさざなみを打つてゐた
人人は音楽が語る言葉の微妙さについて囁いてゐた
階段から芝生に
芝生の下萌えをふんで
もはや街燈のついた公園の方へ歩いてゐた
美しい妹をもつひと
たのしい女の友をもつひと
妻をもつひと
それらはみな一様な疲れのうちに
ふしぎと生き生きした昂奮を抱いて歩いてゐた
私もそれらの群のあとにつづいて
寂しい自分の靴音を感じながら
春近い公園の方をあるいてゐた

 この音楽会の会場はきっと日比谷公会堂に違いないと今まで思っていたのだが、よく調べてみると、日比谷公会堂の竣工は昭和4年のことだった。この詩が載っている「第二愛の詩集」の刊行は大正8年なので、明らかに違うことが判明。ではどこだったのだろうか。その頃、音楽会は、どこで行われていたのだろうか。

 階段があって、芝生を踏んで公園へと向かうような会場。ぼくの中では依然としてあの日比谷公会堂のイメージしかない。

 この詩は、音楽を聞いたあとの気分の高揚のようなものを、見事に表していて、初めて読んだ高校時代から、心の中にしっかりと根付いてしまって、ときどき意識の表面に浮かびあがってくる。しみじみとしたいい詩である。

 この前の木曜日、埼玉県の西川口にあるキンダースペースの公演を見て、その後劇団の人や、仲間の人たちと一杯飲んだあと、10時半ごろ西川口駅から京浜東北線に乗った。ここから磯子駅まで、80分近くかかるけれど、まあ、座っているだけだからそれほど疲れない。だいたいこんな夜遅くの南行で(京浜東北線は、東京駅を挟んで通っているので「上り」「下り」とはいわない。埼玉方面へ向かうのが「北行」、神奈川方面へ向かうのを「南行」という。)しかも、西川口あたりから乗れば、車内はガラガラである。楽勝だ。

 と思っていたのが大間違い。その日の電車は、ほぼ満席状態だった。それでも、優先席がひとつ空いていたので、何とか座ることができたのだが、いったいこれはどうしたことだろうと、車内を見回すと、これが、ほとんど若い女性たちである。京浜東北線の深夜の南行は、東京あたりまでくると、もう酔っぱらいですし詰め状態になるのだが、それとはまったく違う混雑である。

 ぼくの前の席に座っている二人の女の子をよく見ると、二人ともスポーツタオルを羽織っている。きれいな色をしていて、英語の文字も書いてある。「PERFECT」という部分が何とか読めた。ふと他の女性たちに目をやると、ほとんどが同じスポーツタオルを羽織ったり手に持ったりしている。

 さすがに勘の鈍いぼくでも気づいた。埼玉スーパーアリーナだ。そこでだれかのコンサートがあったんだ。いったい誰だろう。「AKB48」だろうか、いや、それならいかにもといった男のはずだ。「嵐」か? 福山雅治か? いや、なんか違う、なんて思っているうちに、そうだネットだと思って、iPhoneに「埼玉スーパーアリーナ」で検索。一発で分かった。「EXILE」だった。「EXILE TRIBE PERFECT YEAR 2014 SPECIAL STAGE」とかで、10日間の連続公演。その日は、19日だったので、「三代目J Soul Brothers VS GENERATIONS」ということだった。分からないところもあるが、まあ、だいたい分かる。

 そう分かって改めて彼女らを見ると、みんなきれいな子たちばかりで、ファッションもスポーティ。そして、タオルのせいか、みんなシャワーでも浴びたようにうっすらと上気していて、さっぱりとしている。上野あたりからのってくる、焼き鳥臭いよっぱらいのオヤジたちとはエライ違いだ。

 改めて音楽の効用と素晴らしさを思った。彼女たちは、しばし日常を離れ、思い切り踊り、音楽に首まで浸り、諸々の嫌なことや垢のようにたまったストレスを洗い流してきたのだろう。みんなきれいなのも当然だったのだ。

 若き犀星の生きた時代から、すでに100年近くの月日が流れている。犀星が聞いた音楽と、今の音楽はまるで違うだろう。けれども、音楽を聞いたあとの「一様な疲れのうちにふしぎと生き生きした昂奮を抱いて歩いてゐた」という情感には、少しも変わることがない。

 



■本日の蔵出しエッセイ 「妖精たちの言葉」(2/99)

京浜東北線と女の子つながりで。

 

 


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100のエッセイ・第9期・84 嫌な感じ

2014-06-14 14:48:43 | 100のエッセイ・第9期

84 嫌な感じ

2014.6.14


 

 毎年夏休みになると、夕食後に家内と1時間ほどウォーキングをする習慣になっているのだが、今年は、既にもう夏休み状態なので、もう始めるかということになり、この木曜日に開始した。

 家から坂道をおりていって、上大岡駅周辺の大岡川の川べりを歩くのだが、歩き始めが7時ごろなので、駅の近くとなると、通勤帰りの人が非常に多い。今は日が長いので、結構目立ってしまう。目立ってもかまわないが、何か明るいうちから申し訳ないような気がして、それで、なるべく人目の少ない道をそそくさと歩く。

 川べりに、一軒、割と大きな居酒屋がある。友人と二度ほど行ったことがあるのだが、二度目に行ったとき、従業員のオネエサンが、カウンターにいた中年の太ったオヤジの客の隣にベッタリ座って酌をし始めたのを見て、なんだかゲンナリしてしまって、それから二度と行かなくなった。スナックとか、そういう類の店ならともかく、ただの居酒屋で、そんなことはありえないはずなので、嫌な感じだった。ひょっとしたら、その店のオーナーなのかもしれなかったが、それにしても、嫌な感じには違いなかった。

 その店の前を通りかかったとき、店の前の、細い道の端、川べりのフェンスに二人の男女が抱き合ってもたれかかっているのが目に入った。瞬間、それが、初老の男女であることを、ぼくも家内も見て取った。背の小さいかなり太ったオヤジ(あるいはジイサン)が、更に背の小さなこれもかなり太ったオバサン(あるいはバアサン)に何か尋常でない力を入れて覆い被さっていて、どうもキスをしているらしい。女の方は、男の影になって顔も確認できなかったが、とにかくぼくらは、そこからなるべくはやく離れようとしたが、彼らから2メートルも離れていないうちに、ブチュっというようなキスのような音がした。もう、あまりの気持ち悪さに、逃げるようにその場を離れた。

 たぶん、この居酒屋で、しこたま飲んだ後なのだろう。でも、まだ7時半にもなっていない。いったい何時から飲み始めたのか。彼らから20メートルほど離れたところに、彼らと同年ぐらいの男女が5人ほど入り乱れて、千鳥足で歩いている。ひとりのジイサンはもうロレツが回らずに、わけもわからないことをわめき散らしている。あの二人の男女も、この集団の一員なのかもしれない。

 まったく、近ごろの老人ときたらいったいどうなっているのか。もちろん、退職してヒマをもてあましているなら、何時から飲もうと勝手だし、60を過ぎたらキスをしてはいけないなんてこともないし、太っているからキスはだめだというわけでもさらさらない。不倫だろうが何だろうが、勝手にすればいい。日本は自由の国だ。しかし、それにしても、なんたる醜態であろうか。

 夏休みなると、この川べりでは、高校生の男女が暗闇に紛れてケシカラヌことをしているのをよく目にするようになる。それだって、決して勧められたことではないが、それでも、そこには、気持ち悪さ、薄汚さはあんまりない。(ときどきある。)もちろん、思わず、ヤメナサイ! さっさと家に帰って勉強しなさい! と叱りつけたくはなるが、ひょっとすると自分の中に青春に対する嫉妬が含まれているのかもしれないという反省の気持ちもまざる。

 けれども、この、いい歳した男女のフルマイは、ただただ薄汚く、嫌な感じである。老いらくの恋というのなら、もっと、違った形があるはずではないか。酔った勢いで、あやしげな居酒屋の前で、あんまりきれいとはいえない川っぺりで、高校生みたいな欲望を丸出しにして、人目もはばからずコトに及ぶなんて、あまりに貧しすぎる。哀しすぎる。

 亡くなった渡辺淳一は、老年の恋をやたらと推奨していたようだが、こんな光景を目にしたら、どうコメントしただろうか。自分は、ひたすら若くてきれいな女優なんかを相手にしていたのに違いないのだから。(実際のところは知りません。あくまで推測です。)

 



■本日の蔵出しエッセイ あやしい二人」(4/30)

こちらもとある男女のお話です。


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100のエッセイ・第9期・83 紙媒体信心

2014-06-08 09:30:55 | 100のエッセイ・第9期

83 紙媒体信心

2014.6.8


 

 ホームページに連載していた「100のエッセイ」を、ブログに移行したとき、長年の友人から、これでは印刷できないではないかと文句を言われた。彼は、ぼくのエッセイをプリントしてためていたらしいのだ。ブログだってプリントできるよと言ったが、確かに、ブログの場合は、プリントすると余計な所まで入ってしまい、文章だけすっきりというわけにはいかない。それで、いずれ、エッセイはホームページの方にも載せるからと言ったまま、サボっていた。

 ブログの方でエッセイを書き続けているうちに、いつの間にやら57編にもなってしまい、しかも、そのエッセイが、「一日一書」やら「つれづれフォト」やらといった、何となく始めたシリーズの中にゴチャゴチャに紛れ込んでいるので、たとえば、入院中のことを書いたエッセイはどこだっけと探すとなると、結構大変なことに気づいた。

 もちろん、「このブログの中で検索」という機能を使えば、「宇宙」で検索すると、「宇宙からの帰還?」というエッセイはすぐに出てくるが、その次に書いたエッセイにすぐにはとべない。といって、「カテゴリー」から「100のエッセイ」を選んでクリックすれば、「100のエッセイ」だけがずらりと順番に出てくるが、20も30も前のエッセイに行くには、スクロールを繰り返さなければならず、メンドクサイ。

 そういうわけで、自分の必要性もあって、「目次」のページを作った。こうすると、エッセイの題名が一覧できて、読みたいエッセイに一発でとべる。これならいいかと思っていると、件の友人が、「目次、ありがたい。ブログも、手軽(なの?)だけど、工夫が必要で、たいへんやなあ。しかし、うらぎりもの! 以前、『100のエッセイ』、プリントアウトができないと嘆いたら、いずれ纏めてYOZ HOME PAGEに移し、一覧も印刷もできるようにすると約束してくれたではないか。」という苦情が来た。

 ここまで執着する人間なんて、彼ぐらいのものだろうから、「へへ、ごめん、ごめん。」と笑ってスルーしてもいいのだが、考えてみれば、そういう人間がこの世に一人でもいるということは、作者としては、もって瞑すべしともいうべき有り難いことなので、「約束」は守らねばと思い直した。

 それで、以前のYOZ HOME PAGEの方へ、ブログの57編を全部コピーするという作業を二日がかりで行った。出来上がってみると、やっぱり、こっちのほうが一覧性に優れていて、読みたいエッセイがすぐに見つかるし、「NEXT」とか「BACK」をたどれば、次々と本を読むようにエッセイを読んでいける。ブログよりよほど楽だ。

 「本を読むようにエッセイを読んでいける。」なんて書いたが、実は、作者であるぼく自身が、自分の書いたことをすっかり忘れてしまっていて、自分の書いたエッセイを読んで思わず笑ったりしているのだから、いい気なものだ。

 件の友人からはさっそくメールが来て、そのメールの題に「目次、収蔵整理、蔵出し、みな、ありがたや」とあり、本文には、「やはり紙媒体信心は消しがたく、プリントアウトできるのは、心強いのです。」とあった。そうか「蔵出し」という言葉があったなあと思って、次回から、「蔵出しエッセイ」と銘打つことにしたが、それにしても、確かに「紙媒体信心」というのは、やはりある程度の年代以上の人間にとっては、抜きがたい傾向であることを実感した。

 数日前、久しぶりに大学時代の友人と会って飲んだのだが、その友人からも、「ヤマモトのエッセイだけどさあ、あれ、パソコンでいつでも読めるとはいっても、なんだか、ああいう形でしか存在しないというのは、どうもなあ。やっぱり、本という形にすべきなんじゃないかなあ。」と言われた。「そんなこと言ってもねえ、第1期、第2期は自費出版したけど、その度に50万ぐらいかかるわけでさ、しかも、それをいちいち郵送したりするわけで、そんな金はないよ。」と言ったけれど、確かに、ネット上に存在しているものの「頼りなさ」は否定できないところだ。

 それにしても、2人もの友人が、「紙の本にしろ」と言ってくれるのは、やっぱり有り難いことだ。といって、第3期からもうすぐ完結しそうな第9期までを全部本にしたら、それこそ大変なことだから、まあ、「蔵出し」を続けていって、それが100編ほどたまったら、ささやかな本にしてもいいかなあなどと考えないでもないが、家に行き場のない在庫が山ほど残ることを考えると、やっぱり、ネット上にはかなく存在するだけでいいやとも考える今日この頃である。

 


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100のエッセイ・第9期・82 団塊の世代への応援歌?

2014-06-01 11:45:16 | 100のエッセイ・第9期

82 団塊の世代への応援歌?

2014.6.1


 

 たまたまつけたラジオから、「ブラザーズ5」と名乗る連中がしゃべっているのが聞こえてきて、そんなのいたか? と思って聞いていると、かつてのフォーク系の歌手の仲良しが集まって作ったグループらしかった。ネットで調べると、メンバーは、杉田二郎、堀内孝雄、ばんばひろふみ、高山厳、因幡晃の5人である。この中で、高山厳が、意外だと思われる方も多いかもしれない。今から20年ほど前に、「心凍らせて」という演歌の名曲で一躍有名になった人で、ぼくもこの歌に魅せられてカラオケでもずいぶん歌ったものだが、彼がフォークグループの「ばんばん」のメンバーだったことは、その時は知らなかった。

 この高山厳が1951年生まれ、ついでに言うと、ばんばひろふみは1950年生まれ、杉田二郎は1946年生まれ、堀内孝雄は1949年生まれ、因幡晃は1954年生まれである。堀内孝雄がぼくと同い年となるわけだ。

 さて、彼らが何で今更グループを作って、コンサートを開いているのかしらないけれど、ラジオで杉田二郎(だったと思う)が言うには、「団塊の世代を応援したい」という思いがあるのだという。「団塊の世代」という言葉には敏感なので、え? って思った。

 言うまでもないことだが、「団塊の世代」というのは、堺屋太一の命名によるもので、1947年から1949年、つまり昭和22年から24年までに生まれた世代のことを指す言葉である。つまり第一次ベビーブームで生まれた世代のことだ。なんで、この時期にベビーブームが起きたのかなどというのは、問うも愚かなことだけれど、男が戦争から続々と帰ってきて、結婚したからに他ならない。だから「ブーム」というのとはちょっと違うと思うのだ。別に子どもを産むことが「流行した」わけじゃない。「はやりだから、産もう。」って思ったわけじゃないだろう。ま、いいけど。

 ぼくは1949年生まれで、団塊の世代の掉尾を飾る(?)のだが、なぜ最後になったかというと、父がシベリアに抑留されて、昭和23年の夏まで帰ってこられなかったからだ。それでもまだ帰ってこられたからいいようなものの、シベリア抑留になった日本人はは100万人ほどで、そのうち30万人が亡くなったと言われている。(諸説ある。)父は復員して、すぐに見合いをして結婚。翌年24年の10月にぼくが生まれたというわけだ。

 で、何で、えっ? と思ったかは、おわかりいただけると思うのだ。「ブラザーズ5」の面々の中には「団塊の世代」に属する人は堀内孝雄だけなのだ。そういう5人が、なんで「団塊の世代」を応援するのだろうか。「共感」からではないだろう。ぼくより5歳も年下の因幡晃などは、ベビーブームも去ったあとの、どちらかというと「白け世代」の人間だから、とても「共感」なんてできっこない。とすれば、結局、「団塊の世代」が多いから、そこをねらえば売れるということなんじゃないかと勘ぐってしまうわけだ。なにしろ、この世代は、806万人もいる(いた)のだから、巨大な市場である。wikiによれば、1947年(昭和22年度)は267万8792人で、1948年(昭和23年度)は268万1624人で、1949年(昭和24年度)は269万6638人、ということで、1949(昭和24)年がトップである。ちなみに、少子化が叫ばれている現在はどうかというと、2013年が約103万人だから、いかに1949年がすさまじいかが分かろうというものである。

 これもついでに言っておくと、ぼくが横浜市立日枝小学校に入った時は、教室が足りず、午前・午後の二部授業だった。いつそれが解消されたか記憶にないが、とにかく、クラスが8クラスもあるのに、それでも二部授業というのは、すごい。学校の近くには、母子家庭専用の寮もあって、そこから通ってくる友達もたくさんいた。なぜ母子家庭専用の寮なのかということは、そのころは分からなかったが、当然、父親が戦死した家族が多かったからだろう。

 まあ、そんなこんなの「団塊の世代」であり、やがて、その連中が全共闘運動の中核となり、更には、その後の日本の中でどうも劇的に寝返って、今のヒドイ社会の根幹を作ったということらしく、今や「団塊の世代」は、決して快く思われている世代ではない、どころか、蛇蝎の如く嫌われている世代なのではないか。それなのに、「団塊の世代」が一人しかいない「ブラザーズ5」が、どういう風の吹き回しで、「団塊の世代」の応援歌を歌う気になったのか、やっぱり理解に苦しむわけである。

 その歌というのが、「漕げよマイケル」の替え歌で、ちょっと聞いただけだからよく覚えていないが、「お花が咲いた~、うれしいな~。」とか「お腹が出てきた~、いいじゃないか~。」てな風の歌詞だった。まったく、なに考えてるんだか。いい加減にしてほしい。


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100のエッセイ・第9期・81 黄色い電車の功徳?

2014-05-24 12:07:35 | 100のエッセイ・第9期

81 黄色い電車の功徳?

2014.5.24


 

 いつものように金曜日は、「出勤日」である。東京の王子まで出かけるのだが、最近は、ほとんど必ず寄り道をする。で、昨日も、家を2時半近くに出て、まずは京急の快特に乗ることにして、駅でぼんやりと電車の来るのを待っていたら、向かいの下り線に、ほわんと来た電車が、黄色い京急。5月から2年間限定で運転される「KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN」である。たった、1編成しかないから、めったにお目にかかれない。もっとも、この電車の写真を撮ろうと思ったら、京急に電話すると、詳しい運行時間を教えてくれるから、その気になれば撮ることも乗ることの簡単なのだが、偶然に出会うということはやはり珍しい部類となる。だからまあこれをみたらハッピーになれるということだろう。

 ぼくは、カバンに入っていたカメラを慌てて取り出して、数枚の写真を何とか撮った。これで、今日はハッピーに違いない。

 やって来た快特電車は空いていたので、ちょうどぼくが座った席の真ん前が車椅子用のスペースになっていて、そこに電動車椅子に乗った若い女性がいた。スマートフォンを持って操作する手にも麻痺があるようだった。大変だなあ、でも偉いなあとつくづく思う。こうやって車椅子に乗って、電車に乗り込み、遠くまで行こうという意志。ぼくにそんな強い意志があるだろうか。

 その子は、川崎駅で降りた。駅にはちゃんと京急の駅員が降車用のボードを持って待機していて、やさしく面倒を見ている。駅のホームにはエレベーターもある。こういう支援態勢が整っているからこそ、彼女も遠出できるわけだ。

 品川で乗り換えて、鶯谷まで行く。先週訪れた子規庵が、4時閉館で入れなかったので、今度は3時前に着いた。今度はちゃんと入ることができた。品の良い知的な女性が受付にいて、丁寧に応対してくれた。ここは、子規が亡くなるまでの8年ほどを過ごした家で、空襲で蔵を残して焼失したが、昭和25年に再建されたとのこと。子規の過ごした6畳間から見える庭には、今も変わらず糸瓜が植えられている。この地は、前田家の屋敷跡だったが、今ではこの子規庵周辺の土地は売却され、ラブホテルだらけになっている。

 子規庵から国立博物館へ行く道の案内のパンフレットを家に忘れてきてしまったので、受付の女性に尋ねると、それまでその女性と話をしていた初老の男性が、あ、私がご案内しますといって、外までサンダル履きで出て、詳しく道を教えてくれた。子規庵は、「一般財団法人子規庵保存会」が管理運営しているということで、この男性もその一員であるようだ。苦労がしのばれる。子規を愛すればこその苦労だろう。

 子規庵からちょっと歩いた所に、JRの線路をまたぐ陸橋がある。その陸橋にあがるためのエレベーターがあったので、自転車にのった初老の男性と一緒に乗り込んだ。その男性は、にっこり笑って、「暑くなりましたねえ。」と言った。地元の人なのだろか。それとも、レンタサイクルでの文学散歩なのだろうか。今日は、黄色い電車のおかげで、いいものばかりに出会うなあと思いながら、寛永寺を初めて見ながら、国立博物館へ行った。

 先週見た、書道博物館の「美しい隷書」との連携展示が、国立博物館であるというので行ったのだが、博物館のどの館だったか忘れてしまった。国立博物館というのは、大きな建物だけでも、平成館、本館、東洋館の3つがあるのだ。取りあえず平成館に行ってみた。今は、企画展のない時期であることは知っていたが、ここには隷書のレの字もない。ここじゃないんだと思ったが、もうかなり歩いていて腰の方も限界だし、隷書は来週でいいやということで、「日本の考古」という常設展を見た。これがなかなかすごかった。半端じゃない充実ぶりである。中でも埴輪の展示が素晴らしくて、写真撮影もOKであるというのも嬉しかった。こんなに美しい埴輪を実際に目にしたのは初めてだ。歴史の教科書や、美術全集などですっかりおなじみになっていた埴輪だが、実物は意外に大きいものが多くて、その優しい表情に魅了された。ほんとうにこれらの埴輪の美は、ギリシャの彫刻をしのぐものではなかろうか。

 そんなこんなでちょうどいい時間になったので、王子へと向かったわけだが、なんでこんなことをダラダラと書いたかというと、黄色い電車の功徳を証明したいからではなくて、大袈裟にいうと、人生というものがどういうものかということが、この半日でちょっと分かったような気がしたからだ。

 ぼくは、基本的には、今の世界に絶望している。大きな観点からみれば、これからの世界に明るさを見出すことができない。日本の状況も悪化の一途を辿っているようにしか思えない。それでも、ぼくらが生きて行くことができるのは、今日出会ったような、小さな出来事のなかに、人間の細やかな心遣い(つまり「愛」)や、「美」があるからだろう。ひとりの人生というものも、ごく限られた時間をさまざまに拘束されて生きられるしかない、はかないものだが、それでも、何とか生きていられるのは、小さな出来事に少しずつ励まされているからだろう。うまくまとまらないし、まとめるつもりもないが、ちょっとだけ光が見えたような気がする半日だった。

 やっぱりハッピートレインの功徳なのだろうか。

 


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