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100のエッセイ・第10期・91 ゴマメの歯軋り

2016-07-10 16:05:27 | 100のエッセイ・第10期

91 ゴマメの歯軋り

2016.7.10


 

 大西巨人の『神聖喜劇』をなんとか読了して、今は、伊藤整の『日本文壇史』を読み始めたところである。『神聖喜劇』以前は、ずっと海外の長編小説を読んできて、それなりにおもしろかったのだが、やはり、ロシアなりフランスなりに暮らしたこともない外国人のぼくにとっては、いまいち分からないところも多々あり、議論の深刻さに見合うだけの、こちら側の共感という部分においては隔靴掻痒の感を免れなかった。

 それが『神聖喜劇』となると、いわば、「日本人とは何か」「日本という国家とは何か」といった根本的な問題をするどく突き詰めているわけだから、戦後70年経った今でも(いや、昨今のきな臭い政治状況にあればこそか)、いちいち胸に突き刺さるものがあった。

 

「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。」ないし「軍ハ天皇親率ノ下二皇基ヲ恢弘シ国威ヲ宣揚スルヲ本義トス。」が軍隊諸法規の根元に不動の最上法源として厳存する限り、私の内部の(おそらくブルジョア法治主義の限界あるいは当代国家権力にたいする合法闘争の限界についての認識の類に由来せるはずの)恐怖もしくは憎悪は、消え失せるはずがなく、消え失せることができない。しかもこの最上法源が実存する以上、この領域(軍隊)に行なわれているのは、ブルジョア法治主義以前また以下の特種の法治主義でしかなく、この領域を支配しているのは、ブルジョア制定法以前または以下の特種の制定法でしかない。それならば、この最上法源にたいして、この領域の法治主義•制定法主義にかかわる私のあれこれの固執もどれそれの拒絶も、ついにただ「鱓(ごまめ)の歯軋り」に過ぎぬのではなかろうか。

『神聖喜劇』第4巻・384p(光文社文庫版)

 

 要は、天皇をいただく軍隊である以上、何を言ったって、どう反抗したって、所詮「ゴマメの歯軋り」でしかないという主人公東堂太郎の認識は、今の日本人にまったく無縁のものではありえない。戦時中の悪夢とはとっくの昔に縁を切ったはずなのに、なんのことはない、70年も経った今、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」という文言が、自民党の憲法改正案「前文」に飛び出してくる始末である。つくづく嫌になる。

 まあ、ぼくなどは、かの大学紛争時代の全共闘世代のど真ん中で、しかも、その「闘争」に加わらず(加われず)、そのことで、周囲の友人たちからさんざん非難もされ、ののしられ、ほんとに立つ瀬もない大学時代を送ってきた超ノンポリの人間だから、今更どの面さげて政治問題(ぼくにとっては、むしろ「感情の問題」なのだが)に口出すのかと言われたらそれこそグウの音もでやしない。

 けれども、ヘルメット被って、ゲバ棒もって、教授を「お前呼ばわり」してつるし上げたその同級生が、卒業すると、舌の根も乾かぬうちに寝返ってしまうのを苦々しく思いつつも、ゲバ棒持たなかった罪滅ぼしというわけでもないけれど、その後の教師のとしての生き方の中で、とにかく権力側にはつくまいとぼくなりにがんばってきたことは確かである。

 『いちご白書をもう一度』なんて歌を歌って、よくもぬけぬけと「体制側」に寝返っていけたものだ、恥ずかしくないのかって、当時のぼくは思ったし、『いちご白書をもう一度』を、もし当時の全共闘のヤツがカラオケなんかで歌ったら、一発ぐらい殴ってやりたい気分は今でもある。それほど、あの頃のことは、深い傷としてぼくの中に残っている。

 しかし、それとても、あまりにセンチメンタルな愚痴にしかならない話で、「ゴマメの歯軋り」ですらない。今日の参議院選挙の結果は、まるで目に見えるかのようで、そうなったらもうほんとに「世捨て人」として生きるしかないとすら思う。というか、とっくの昔から「世捨て人」であったわけだが。

 『神聖喜劇』は、昭和17年のたった3日間の出来事だが、『日本文壇史』は、明治の文学史すべてを覆う。その最初の明治10年前後の日本の状況のなんたる混沌。そうした混沌とした状況の中に次々と登場する「そうそうたる面々」は、みなまだ10代である。その10代の「子供」がすでに学校で教鞭をとっていたりする。恐るべき早熟の時代である。そうした時代の空気に触れると、18で選挙権が与えられた(というか、意図的に与えた)なんてことで大騒ぎしていること自体、時代の退廃をしか感じない。

 さっきテレビを見たら、午前中の投票率が13パーセントとか。前回より低いらしい。今頃、あちこちの観光地は人でごった返しているだろうし、もうすぐ大相撲中継も始まる。選挙速報は、大はしゃぎの特番ばかりだろう。まったく憂鬱の極みである。

 こんな柄にもない文章は、書くのよそうかとも思ったが、今、この時でなければ書けない一瞬の感慨であることは確かなので、後の反省材料として書きとどめておく。

 

 


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一日一書 932 市中の巻 4・(芭蕉・去来・凡兆)

2016-07-10 13:51:53 | 一日一書

 

連句集「猿蓑」より 「市中は」の巻

 

半紙

 

 

【本文】

13 立ちかかり屏風を倒す女子供  凡兆

14 湯殿は竹の簀子(すのこ)侘(わび)しき  芭蕉

15 茴香(ういきょう)の実を吹落(ふきおと)す夕嵐  去来

16 僧やや寒く寺にかへるか  凡兆

 

【口語訳】

13 立て回した屏風の中を見ようとして、女子どもがよってたかって、屏風に寄りかかったりしているうちに、とうとう屏風を倒してしまった。

14 竹の簀子を敷いた風呂場はがらんとして侘しい。

15 夕嵐に吹かれて、茴香の実がパラパラと落ちている。

16 秋も肌寒さを感じる頃、一人の僧が寒そうに寺に帰っていく。

 

 

ますます難解。

 

13は前の12との続きで、小御門から入ってきた恋人との逢瀬を、使用人の女たちが、

よってたかって屏風の中をのぞき込もうとして屏風が倒れてしまって、

あら〜ってな感じ。なんか、よくありそうな場面です。

13-14は、その「屏風」を、こんどは旅の宿の湯殿の周りに張り巡らしてある垣根と見なし、

のぞき込んだ湯殿のがらんとしたわびしさを表したのでしょうか。

14-15は、その侘しい湯殿の周囲にある茴香の実が夕嵐にパラパラと落ちるさま。なかなか美しい情景です。

15-16は、そうした夕嵐の中を、一人トボトボと寺へと帰っていく僧を描いています。

 

 

こうして、36句までえんえんと続くわけですが、今回はこれでオシマイ。

 

 

 


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