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一日一書 1443 蚯蚓出(七十二候)

2018-05-14 19:14:48 | 一日一書

 

蚯蚓出(みみずいずる)

 

七十二候

 

5/10〜5/14

 

 

冬眠していたミミズが

土の中から出てくるころ、の意。

 

ミミズも冬眠するらしいです。

ところで、雨が降ると

よくミミズが土の上に出てきますが

あれ、どうしてだか知っていますか?

 

下のエッセイに答えみたいなのがあります。

お暇な方は、どうぞ。

ミミズの幸せ

 

 


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日本近代文学の森へ (11) 岩野泡鳴『耽溺』その5

2018-05-14 10:13:17 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (11) 岩野泡鳴『耽溺』その5

「日本の文学 8」中央公論社

2018.5.14


 

 さて、正宗白鳥は、泡鳴の『耽溺』について、こんなふうに言っている。

先生(主人公のこと)と芸者の関係なんか、いかにもバサバサしてゐて、しめやかな情緒と云ったやうなものは、ちっともない。これは、後年まで彼れの作品を一貫した特色である。彼れの作中の男女は、恋を語っても決して蜜のやうではない。「へん、そんなことを知らないやうな馬鹿じゃねい。役者になりたいからよろしく頼むなんぞと白ばっくれて、一方ぢゃ、どん百姓か、肥取りかも知れねいへッぽっこ旦つくと乳くり合ってゐやあがる」と云ったやうなのが、先生のいつもの口吻である。そして吉弥という芸者も「おからす芸者」といふ綽名の通り、色が黒くって、何だか汚ならしい。恋愛小説中の女性は、概して美しく描かれるのを例として、近年の実験記録の小説でも、作者の主観によって色取られて、そこに描かれる女性は、読者を魅するところがあるのだが、泡鳴のにはそれがない。醜男醜女の情事を見てゐるやうで、読者は読みながら羨望の感じを起すことがない。しかし、小説を娯楽品とせずして、人生世相の真実の記録とする立場から見ると、泡鳴の態度には真実性が多いのではあるまいか。

 「醜男醜女の情事を見てゐるやうで、読者は読みながら羨望の感じを起すことがない。」とは的確な指摘。ほんとに、二人の会話は、殺伐としているのである。それなら憎み合っているのかと思うと、どうもそうでもない。なんだか、先生は吉弥に、夢中になっているのだ。けれども、その「恋愛」がちっとも美しくない。蜜のようじゃない。汚らしい。そんな小説を誰が読むか、と今なら思うだろう。けれども、ここで、別の立場が出てくる。

 「娯楽品とせずして、人生世相の真実の記録とする立場」だ。

 現代はエンタテインメント全盛の時代だから、小説も「娯楽品」として扱われることが多い。文学に限らず、スポーツも含めてほとんどの「表現者」は、インタビューなどで、口を開けば「多くの人に喜んでいただけるように頑張ります」と言う。表現の動機が、あくまで、享受者の喜びや幸せとなっていて、自分の表現したいことをただ全力で表現したいと言う者はほとんどいない。まして、それができれば、どう思われたっていいと断言する者など皆無に近い。

 けれども、それでは、享受者は、何をもって「喜び」とし「幸せ」とするというのだろうか。疲れた心を癒やされることを求めている人もいるだろうし、辛い現実を一時でも忘れることを求めている人もいるだろう。求めることは一様ではない。それなのに、どうして享受者の「喜び」が表現の目的となりうるのだろう。スポーツならば、それでもいい。全力でプレイすることは、万人に興奮を与え、感動を与えるだろう。けれども、文学は? 

 エンタテインメントとしての文学を目指す大衆小説は、汚らしい恋愛など描かない。あくまで夢のような恋愛を描くのは、明治の時代から変わることはないのだ。

 しかし、「人生世相の真実の記録とする立場」を小説においてとったとすれば、夢のような恋愛など、真実からはほど遠い。もちろん、「夢のような瞬間」が恋愛にはあるだろうが、それだけで恋愛ができあがっているわけじゃない。打算、性欲、嫉妬、支配欲、などなど、さまざまな醜悪ともいえる要素が入り交じっているのが恋愛である。

 先生と吉弥との関係が、果たして恋愛といえるかどうかは別としても、それがまさしく一つの男女関係であることには間違いない。その男女関係を、正直に書いたのが『耽溺』であるとすれば、やはりそこには「真実性が強くある」のも事実だろう。
更に、白鳥は続ける。

四十歳近い「耽溺」の先生は、自分より年上の、世帯窶れのした、ヒステリーの古女房に倦怠を感じてゐる。その頃、多くの作家の題材とした「中年の恋」を、彼れも求めてゐたので、ふとした機会で接近した田舎の「おからす芸者」によってでも、心の不足を満たそうとした。しかし、平凡人の浮気とは違って、彼れは、自己の抱懐せる人生観を応用して、この単純な「見ず転買」以上の何物でもないのに、深刻らしい意味をつけようとした。「堕落、荒廃、倦怠、疲労──僕は、デカダンと云ふ分野に放浪するのを、むしろ僕の誇りにしようと云ふ気が起った」などと云ひ、あるひは、彼れが読みかけてゐるメレジコフスキーの高尚典雅純潔な生涯を、自分の生涯に比して、「僕の神経は、レオナルドの神経より五倍も十倍も過敏になってゐる」と云ってゐるところなんか、読者に「詰まらん坊」の感じを与える。丹念に書かれてゐるが、作者の苦悶が紙上に現はれてゐない。

 と手厳しいが、ぼくもまったく同感だ。ここまでズバリと言い切れる白鳥に感服してしまう。要するに、この『耽溺』という小説は、「失敗作」なのだ。けれども、それでもなおこの小説は、泡鳴の代表作として紹介されるのは、ここにこそ、泡鳴の「特色」が端的に出ているからだ。その特色とは、白鳥によれば「すべての感傷主義を打破して自我に徹するところ」だ。

 「自我に徹する」というのは、「自分のやりたいようにやる」ということだ。その時の自分の欲望に忠実であること、といってもいいのかもしれない。

 それが恋愛であるか、などということは泡鳴にとってはどうでもいい。吉弥に惚れたなら、とことん惚れる。だからといって、気に入られようとしておためごかしは言わない。吉弥に惚れたことが女房にどんな被害を与えるかも考えない。遠慮はしない。オレはオレだ。オレの道をどこまでも行く。

 『耽溺』に描かれた事件は、ほぼ実際にあったことで、このことが、次の「泡鳴五部作」にも出てくる。この「吉弥事件」の後、泡鳴はどう生きたか、それが「泡鳴五部作」には克明に描かれているらしい。これを読まない手はない。

 

 

 

 


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