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日本近代文学の森へ (13) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その2

2018-05-19 10:33:05 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (13) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(1)発展』その2

「泡鳴五部作[上]発展・毒薬を飲む女」新潮文庫

2018.5.19


 

 岩野泡鳴の生涯を簡単にたどってみようなんていっても、とても「簡単」というわけにはいかない。だから適当に端折ってやってみる。参照は、「現代日本文学全集29」の巻末にある「岩野泡鳴年譜」である。これは、泡鳴の次男薫の作成したものが元になっている。

 泡鳴は、明治6年(1873年)、淡路国洲本(すもと)(現在兵庫県)に生まれた、とある。廃藩置県は明治4年だけど、「淡路国」なんて言い方の方が薫が年譜を作ったころは通りがよかったのかもしれない。

 父直夫(ただお)は、洲本警察署の邏卒(らそつ)だった。「邏卒」というのは、明治初期の警察官の名称で、後に「巡査」と改称された。母がどういう人だったかの記述はない。

 明治17(1884)年、10月、洲本日新小学校を卒業。これより、20年まで、私塾で漢学と英語を学んだ。どんな「私塾」なのか分からないが、洲本にあったようだ。

 明治20年(1887)15歳の時に、大阪に出て、キリスト教の学校泰西学館に入学し、「英語を以て普通学を修む」とある。「普通学」って何だろう、よく分からない。この年、弟巌が生まれている。

 泰西学館に入ったこの年、泡鳴は、さっそくキリスト教信者となっている。これは明治にはよくある話で、多くの近代文学者は、若い頃にキリスト教信者、それもプロテスタントの信者になっている。島崎藤村、国木田独歩、有島武郎、正宗白鳥など、挙げればきりがない。その多くは、やがて信仰を離れるが、それでも、その文学にはその刻印がはっきりしるされている。

 泡鳴も、20歳になると、キリスト教から離れるが、彼の思想はキリスト教と密接なつながりがあるはずだ。一切の世俗的な道徳を否定し、刹那に生きることを主張するその思想は、キリスト教と相容れないように見えて、実はその裏返しともいえるのだとぼくは思う。

 明治20年の項の「年譜」はこう続く。

十月、父洲本署巡査を辞し、一家を挙げて東京に移り、麻布区新網町に仮寓し皇宮巡査となる。美衛(泡鳴の本名)遅れて上京、明治学院に入る。十二月、歴史小説「サイラス王物語」を書く。全部で二百五十枚七五調なり。洋行費を作る目的なりしも、出版を春陽堂に交渉して成らず、火中に投ず。これ新体詩を作る動機なり。

 う〜ん、不思議なことばかりだ。岩野一家は、そろって上京し、父は「皇宮巡査」となるのだが、この「皇宮巡査」というのは、今でも存在する「皇宮護衛官」の中の一番下の位。どういう事情でそうなったのだろう。父は、何とか東京に出て出世したいと思ったのか。その後に上京した泡鳴は、キリスト教信者らしく明治学院に入っているが、250枚もの歴史小説を、「洋行費を作る目的」で書いたというのが理解に苦しむ。たった15歳の少年が、外国に行く費用を作るために、小説を書いて出版社に持ち込み、断られたからといって、それを燃やしてしまい、以後、詩を書くことにした、というのだから、なんとも理解しがたい。エキセントリックな泡鳴の片鱗がうかがわれる。

 250枚の歴史小説を「七五調」で書いたというのだから、内容はどうであれ、大変な力業には違いなく、並の才能ではできることではないから、泡鳴は確かに一種の天才なのだろう。しかし、いくら天才でも、そう簡単に小説で金をとれるものじゃない。今の世の中だってそうだけど、明治の時代でもそうだろう。ただ、案外、今よりはハードルは低かったのではないかとも思われる。小説の需要が、今よりは格段に大きかったのではなかろうか。

 ここで分かるのは、泡鳴は、最初小説を書いたけど、受け入れられず、まずは新体詩を書いた。つまりは、詩人として出発したということだ。いろいろな雑誌に評論などを載せているが、彼の最初の出版物は自費出版だったけれど、詩集だったのだ。藤村も、花袋も、詩人として出発している。自然主義の作家の多くが詩から出発しているというのも面白い。自然主義と詩というテーマは、高校時代か大学時代に、ちょっと聞きかじった気がする。

 泡鳴は、その後、どのような学校に行ったのか。15歳で、明治学院に入ったが、16歳では、「神田専修学校」で経済学と法律学を学んだとある。明治学院はどうしたのだろうか? 20歳の時、仙台に行って東北学院に入り、明治27年まで在学とある。この辺の記述も引用しておく。

明治25年(1892)20歳 二月、仙台に赴き、東北学院に入る。二十七年まで在学。希臘語、梵語、独逸語を学びたるも学校は欠席がちにして、「万葉集」「詩経」及びシェクスピヤを研究し、又、エマソンと中江藤樹を愛読し、松島に於て頻りに独禅す。漸くキリスト教を脱し、刹那哲学と新日本主義の思想の基礎を作る。

 明治学院から東北学院という流れは、島崎藤村を思い出させる。藤村は明治5年の生まれで、泡鳴より1歳年上。泡鳴も藤村も、明治20年に明治学院に入学している。泡鳴が東北学院に行ったのが、明治25年だが、藤村は明治学院を明治24年に卒業している。在学がちょっとかぶっているわけだ。在学中に二人は交友があったのだろうか。その後、泡鳴は明治25年に東北学院に行き27年まで在籍するわけだが、その2年後、藤村は明治29年に東北学院に教師として赴任している。あと2年泡鳴が東北学院にいたら、藤村の教え子になっていたのだろうか。なんか、不思議な感じがする。

 泡鳴の学生時代というのは、なんだか勉強していることがバラバラな気もするが、とにかく、勉強家であることは確かだ。泡鳴は、ただ女に狂った遊び人じゃなかったのだ。仙台でのおよそ2年間は、学校は欠席がちだったが、懸命に勉強したという。

 一方、泡鳴の実家は大変なことになっていた。泡鳴の父は、皇宮巡査を3年でやめ、下宿屋を建てて「日の出館」と称していたが、その父が、妻「さと」が病気中にもかかわらず、後家の熊谷まつという女を囲いだしたのだ。泡鳴の女癖の悪さは、父親譲りということだろうか。で、泡鳴は仙台から東京へ戻る。その10月に弟勝が生まれる。そしてその翌年母は46歳で没する。その2ヶ月後に弟勝も没する。

 母と弟の死の年、23歳の泡鳴は、石州浜田藩家老の娘、竹越幸(たけのこし・こう)と親戚の反対を振り切って結婚。なんで、反対されたのか分からないが、幸は幼くして父を失っていたこと、幸の方が年上だったことが原因だったのだろうか。

 その翌年明治29年、泡鳴の父の囲っていた熊谷まつが入籍し、泡鳴の継母となる。この継母が、小説によく出てくる。泡鳴のところには次々に子どもが生まれるが、4男2女のうち、3人は幼くして亡くなっている。何とも複雑窮まる家庭の事情である。
さていろいろあるけど端折って、明治41年(1908)泡鳴36歳の時の年譜の記述。

明治41年(1908)36歳。三月四男貞雄生る。四月、第四詩集『闇の盃盤』を有倫堂より刊行。五月、父直夫没す(六十歳)。よって家督を相続す。家業の下宿屋は妻幸が預るところとなる。小説「毒薬を飲む女」のお鳥(増田しも)を、芝区切通広町に囲い、殆ど家に寄りつかず。しも江は紀州の女にして、職を求めて上京、泡鳴の下宿屋に住みたるものなり。

 そして、その翌年、『耽溺』を発表する。その直後、泡鳴は、下宿屋を抵当にして950円を借り入れ、従弟の小林宰作の奨めた蟹の缶詰事業に乗り出すために、二月、樺太に行くのである。その事業は失敗し、十一月には帰京する。年譜だけ読んでいると、この樺太行きが、いかにも唐突で、どうして? って思うのだが、『発展』を読むと、ああ、そういうことかとよく分かる。『発展』は、泡鳴の父の死から、樺太行きを決意するまでのことが、書かれた小説である。話の中心は、妻「幸」(小説では千代子)との確執と、「お鳥」への恋である。

 ちなみに、『耽溺』の「事件」は、泡鳴35歳の時のこと。この『発展』の話の一年前のことである。

 日光でたまたま見かけた「おからす芸者」「不見転芸者」に溺れたが、彼女が梅毒に冒されていると知って女を捨てた泡鳴は、自分が父から相続した下宿屋に住み始めた若い女にまた溺れたという、「懲りない話」である。

 「年譜」に深入りしてしまったが、泡鳴はその後は省略。女関係は相変わらずで、浮名を流したが、とにかく作家としてしゃにむに書いて、大正9年、48歳で亡くなった。腸チフスだったらしい。

 

 

 


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