詩歌の森へ (9) 立原道造『わかれる昼に』
2018.5.30
わかれる昼に
ゆさぶれ 青い梢を
もぎとれ 青い木の実を
ひとよ 昼はとほく澄みわたるので
私のかへつて行く故里が どこかにとほくあるやうだ
何もみな うつとりと今は親切にしてくれる
追憶よりも淡く すこしもちがはない静かさで
単調な 浮雲と風のもつれあひも
きのふの私のうたつてゐたままに
弱い心を 投げあげろ
噛みすてた青くさい核(たね)を放るやうに
ゆさぶれ ゆさぶれ
ひとよ
いろいろなものがやさしく見いるので
唇を噛んで 私は憤ることが出来ないやうだ
立原道造というと、熱狂的なファンがいる一方で、ロマンチックすぎて、ついていけないという感じがする人も多いだろう。詩人というものは、多かれ少なかれ、ロマンチックなもので、散文的な詩人などというものは、熱い雪のようなもので、実際にはありえない。
しかし、ロマンチックということとセンチメンタルということには、かなりの違いがあって、生ぬるいロマンチックがセンチメンタルということなのかもしれない。センチメンタルっていうのは、結局のところ、感情の表面だけで酔ってるようなもので、なんら魂の奥底まで染み渡る情緒がない。
夕暮れに、別れた彼女を思い出して悲しくなるのがセンチメンタルで、夕暮れに、死んだ恋人の行方に思いを馳せるのがロマンチックである、なんていうのは間違いだろうか。センチメンタルは、感情の揺らめきにすぎないから、その場にとどまるけれど、ロマンチックは、なにか目に見えないものへの「あこがれ」だから、常に現実を越えていこうとする。
そんなふうに考えてみると、立原の詩を読んで、その甘い情緒に心ひかれはするが、どこか不満が残るのは、やはり根本的に彼の詩がセンチメンタルにとどまるだからだろう。
そこへいくと、萩原朔太郎の詩は、どうしようもなくセンチメンタルであるように見えながら、常に、彼の思いは「ここではないどこか」を激しく希求している点で、極めてロマンチックなのである。
そうした道造のセンチメンタルな詩の中でも、この「わかれる昼に」は、彼には珍しい口調の激しさで、おっ! って思わせる。「ゆさぶれ」「もぎとれ」「弱い心を投げあげろ」などの命令口調は、いつもは優しいイケメンが、突然激しい怒りをあらわにしたような、魅力がある。
自分の中の弱い心を自ら懸命に叱咤するのだが、それでも、詩人は「憤ることが出来ない」。それを周囲のやさしさのせいにする。そこにこそ詩人の弱さがあるのに、それに気づかない。しかも、「憤ることが出来ないやうだ」と、自分の心情を曖昧にしてしまう。本当なら、自分の「憤り」はどこにあるのかを徹底的に追究すべきなのだ。それをしないから、この詩はロマンチックであるまえに、センチメンタルで終わっているのではなかろうか。そんな気がする。
ぼくが、昔から立原道造に、それほど共感できなかったのは、その辺に理由があるのかもしれない。