不雨花猶落 無風絮自飛
禅語
半紙
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雨ならずして花猶(なお)落つ 風無くして絮(いと)自(おのず)から飛ぶ
雨が降らなくても花は散るし、風が吹かなくても柳の糸は飛ぶものだ。
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『禅語百選』(祥伝社新書)で松原泰道はこのように言っています。
「無常」というと、とかく花の散るのを雨風の所為(せい)と感じるのですが、それは誤りです。花は咲いたとき、すでに散るときへの一歩を踏み出しているのです。散る因は内に実存しているので、雨風は助縁(間接的表現)にすぎないことを、この語句が教えています。
しかし「花は咲くからには必ず散るものだ。人も生まれたら必ず死ぬものだ」と淋しさや悲しみに超然として、涙一滴こぼさず、一片のいたむ心も持たないのを、けっしてさとりとは申しません。「不雨花猶落 無風絮自飛」の中に胸のうずきを改めて実感してこそ師の示しに通じるのです。西行法師は、詠います。
「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり」
咲く花自身がすでに散る必然性を持っているので、春風が花を散らすと思うのは誤り(夢)である、と気づいても、なお胸がさわいで落ち着けぬ──と。この「さめても胸のさわぐなりけり」が尊いのです。