日本近代文学の森へ (149) 志賀直哉『暗夜行路』 36 「決行」の日 「前篇第一 十一」その1
2020.4.18
謙作が自分から放蕩を始めたのはそれから間もなくであった。或る曇った薄ら寒い日の午前の事だ。彼は現在に少しもそういう衝動なしに、むしろ決めた事を決行するような心持で、深川のそういう場所に一人で出かけて行った。
いよいよ謙作は遊郭へひとりで出かける。「西緑」や「清賓亭」でさんざん遊んだようにみえて、まだ「女郎買い」とは異質な遊びだったのだ。そこでは、いくら相手が遊女まがいの女でも、そこに人間的なつながりを切なく求めていたわけで、そのいわば「不自然」が謙作を悩ませていたといえるだろう。
けれども、ここからは、純然たる「女郎買い」である。しかし、「彼は現在に少しもそういう衝動なしに、むしろ決めた事を決行するような心持」というのがよく分からない。性的な衝動があって遊郭に一人向かったのではなくて、「決めたことを決行するような気持ち」がいったいどこから湧いてきたのかがよく分からない。
登喜子やお加代に心を寄せてきたにもかかわらず、結局、謙作が思い描くような関係にはなれなかった。お加代は、付き合っていくうちに段々下品な本性が見えてきてしまった。そんな下品なお加代なら、いっそそういう女と割り切って肉体関係で決着つければいいじゃないかという気もするのだが、謙作にはそれはできない。そこが謙作の倫理的な姿勢をみることができるともいえる。
その二年ほど前に木場からその辺、それから砂村を通って中川べりに出た事がある。それ故、道は大概分っていた。彼は永代橋を少し行った所で電車を降りると、沈んだ不愉快な顔をしながら八幡前の道を歩いて行った。どれほど陰鬱な、そしてどれほど醜い顔つきであるか、自身でも感じられた。道行く人々が皆、彼の目的を知っているように彼には思えた。彼はそれらの人々に淡い一種の敵意をさえ感じた。そして急いだ。時々空つばを呑み呑み彼は急ぎ足で歩いて行った。
いくつ目かの小さい橋を渡って右へ折れると直ぐ、泥堀をへだててそういう家々が見えた。彼は今更にとうとう来たと思った。登喜子のいる場所へ行く時とは目的が異うだけに彼の気持はぎごちなかった。むしろ非常に不愉快だった。それでいながら、中止しようという気にはならなかった。
大変な緊張感である。どうしても自分は遊郭へ行く。そして遊女を買う。そう決めた。だが、そういう自分が醜くみえてしかたがない。非常に不愉快だが、行くと決めたのだ、行くしかない。そう謙作は思う。道行く人々は謙作など目にもとめないのに、みんなが謙作の「目的」を知っているような気がする。自意識過剰の典型的な事例であろう。そして、こうした心情は、謙作ならずとも、また遊郭通いならずとも、誰もがどこかで経験したところのものだろう。
ぼくなんかの時代は、すでにこうした「悪所」はなかったわけだから、こういう経験はしたくてもできなかったわけだが、それでも、その類いの悪所はそれなりにあったわけだから、その気になればそんな経験のひとつやふたつ、できそうなものだけど、それもなくて、古稀を迎えてしまったことが、果たしてよかったのか、よくなかったのか、とんと見当がつかない。
実地の経験がとぼしい分、かろうじて吉行淳之介の小説なんかを愛読して、そういうもんかなどと分かったつもりになってきたけど、やっぱり、謙作のような緊迫した心情を生で味わってみたかったという気がしないでもない。
まあ、そんなことはどうでもいい。ここに見られる謙作の、マジメすぎる緊張感と罪悪感は、やはり志賀直哉という人について考えるときの重要なポイントなのだろう。
彼方(むこう)から前どよなしに母衣(ほろ)だけをかけた俥が来た。その上の人が黒眼鏡をかけていた。それがかえって彼の注意を惹いた。田島という彼よりも三つ上の級にいた男で、こういう場所で会うにしてはその職業からも誠に思いがけない人だった。謙作はちょっと迷った。二、三間歩く間彼はその男の顔から眼が放せなかった。彼方でも見ているらしかったが、眼鏡の中でよくわからなかった。間もなく彼は眼を反らした。その道は先の養魚場でなければ、曲輪からの一筋道だった。無論曲輪から出て来たのだと彼は思った。普段使わない黒眼鏡でなおそう思われた。
これはお互にいやな所を見たものだと思った。彼は苦々しい、腹立たしい気持になった。しかし自分はまだ中へ入っているのではないと思った。このまま養魚場を抜けて砂村の方へ出てしまえば、それとも西緑のような家へ行ってそのまま帰ってしまえば、というような考もちょっと浮んだ。しかしそれは田島が曲輪を出て来たのでない場合はいいとしても、それを知りつつそういう事をするのは何かしら卑劣な気がした。そして、どうせ今日入らないにしろ、きっと自分はまた来るに違いないと彼は思った。
こういう経験を志賀は実際にしたのだろうか。「思いがけない人」と「思いがけない場所」で出会うということはよくあることで、その場所が場所だけに、このバツの悪い感じはよく分かる。
しかしこの期に及んで、謙作は、「自分はまだ中へ入っているのではない」と思う。「まだ間に合う」というわけだ。けれども、「田島が曲輪を出て来たのでない場合はいいとしても、それを知りつつそういう事をするのは何かしら卑劣な気がした。」という。ここが実に面白い。田島が遊郭から出てこようが別のところから出てこようが、謙作にとってはどうでもいいことなのに、田島の行動を二つに分けて、こっちならいいが、こっちならダメ、というように自分の行動を規制している。
何よりも「卑怯」というところに志賀らしさが出ているのではなかろうか。
まあ、それにしても、早いところ、行くべき所に行ってしまえ、といいたくなる場面ではある。中学高校時代には、ドイツ人神父から「やるべきことをやるべきときにしっかりやれ」と叩き込まれたが、そんなセリフがこんなときに浮かんでくるというのも、皮肉な話である。