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日本近代文学の森へ (156) 志賀直哉『暗夜行路』 43 音の情景 「前篇第二  三」その1

2020-06-19 10:46:57 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (156) 志賀直哉『暗夜行路』 43 音の情景 「前篇第二  三」その1

2020.6.19


 

  謙作の尾道での生活が始まった。

 

 謙作の寓居は三軒の小さい棟割長屋の一番奥にあった。隣は人のいい老夫婦でその婆さんに食事、洗濯その他の世話を頼んだ。その先きに松川という四十ばかりのノラクラ者がいて、自分の細君を町の宿屋へ仲居に出して、それから毎日少しずつの小使銭を貰って酒を飲んでいるという男だった。
 景色はいい処だった。寝ころんでいて色々な物が見えた。前の島に造船所がある。其処で朝からカーンカーンと鉄槌(かなづち)を響かせている。同じ島の左手の山の中腹に石切り場があって、松林の中で石切人足が絶えず唄を歌いながら石を切り出している。その声は市(まち)の遥か高い処を通って直接彼のいる処に聴えて来た。
 夕方、伸び伸びした心持で、狭い濡縁へ腰かけていると、下の方の商家の屋根の物干しで、沈みかけた太陽の方を向いて子供が根棒を振っているのが小さく見える。その上を白い鳩が五、六羽忙(せわ)しそうに飛び廻っている。そして陽を受けた羽根が桃色にキラキラと光る。
 六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、また一っ、また一つ、それが遠くから帰って来る。その頃から、昼間は向い島の山と山との間にちょっと頭を見せている百貫島(ひゃっかんじま)の燈台が光り出す。それはピカリと光ってまた消える。造船所の銅を熔かしたような火が水に映り出す。
 十時になると多度津(たどつ)通いの連絡船が汽笛をならしながら帰って来る。紬(へさき)の赤と緑の灯り、甲板の黄色く見える電燈、それらを美しい縄でも振るように水に映しながら進んで来る。もう市からは何の騒がしい音も聴えなくなって、船頭たちのする高話(たかばなし)の声が手に取るように彼の処まで聞えて来る。


 いい文章である。最初の一段落だけで、謙作の住む長屋のあらましがはっきりと分かる。隣の婆さんに食事、洗濯の世話を気軽に頼めるのだから楽なもんである。もちろん、タダじゃないだろうが、それほどの額でもあるまい。謙作が金持ちだからというだけではなくて、何か、こうした生活がごく普通に成り立ってしまうというのんきな世界は、現在ではほぼないだろう。

 松川という「ノラクラ者」にも、そののんきな世界が垣間見える。謙作だって、親の金でこんなところに一人で住んで、小説を書こうというのだから、「ノラクラ者」には違いがない。

 家から見える景色の描写も素晴らしい。特に「音」が効果的だ。造船所から聞こえてくるカーンカーンという金槌の音、石切人足の歌声、千光寺の鐘の音、多度津通いの連絡船の汽笛の音、そして、静かになった町に響く船頭たちの高話(大声で話すこと)の声。それらが、目に入る情景を緊密に結びつけ、また情景に奥行きを与えている。

 それにしても、こうした音が坂道の途中にある謙作の家に聞こえてくるということは、いかに、当時の世の中が静かだったかという証である。「前の島」がいくら近いとはいえ、その金槌の音や人足の歌が聞こえてくるというのは、驚きだ。

 そして特に、静寂が訪れた町に「手に取るように彼の処まで聞えて来る」船頭たちの声が印象的。しずかな町の息づかいが聞こえてくるようだ。

 謙作の部屋はどんなだったか。ずいぶんと細かい描写が続く。

 


 彼の家は表が六畳、裏が三畳、それに士間の台所、それだけの家(うち)だった。畳や障子は新しくしたが、壁は傷だらけだった。彼は町から美しい更紗の布を買って来て、そのきたない処を隠した。それで隠しきれない小さい傷は造花の材料にする繻子(しゅす)の木の葉をピンで留めて隠した。とにかく、家は安普請で、瓦斯ストーヴと瓦斯のカンテキとを一緒に焚けば狭いだけに八十度までは温める事が出来たが、それを消すと直ぐ冷えてしまう。寒い風の吹く夜などには二枚続の毛布を二枚障子の内側につるして、戸外(そと)からの寒さを防いだ。それでも雨戸の隙から吹き込む風でその毛布が始終動いた。畳は表は新しかったが、台が波打っているので、うっかり坐りを見ずに平ったい薤(らっきょう)の瓶を置くと、倒した。その上畳と畳の間がすいていて、其処から風を吹き上げるので、彼は読かけの雑誌ちぎひばしを読んだ処から、千切り千切り、それを巻いて火箸でその隙へ押込んだ。

                             *(注:カンテキ=「しちりん」のこと。関西地方の方言。 八十度=華氏80度。摂氏では26.7度ほど)

 

 外の世界は、あっさりと描きながら、この小さな部屋の様子は、微に入り細に入り書き込んでいる。壁の傷を隠すために、「造花の材料にする繻子(しゅす)の木の葉」なんか持ってくるなんて、芸が細かい。このあたりは、事実をそのまま書いたのだろう。とてもフィクションではここまで書けない。

 こうして、なんとか尾道での生活を始めた謙作は、「計画の長い仕事」にとりかかる。それは、「自分の幼時から現在までの自伝的なもの」であった。つまりは自伝的な小説ということだろう。

 謙作の頭には幼いころの思い出が次々と浮かんでくるのだが、中でも、妙に印象的な思い出がある。


本郷竜岡町の家へ引移ったのは父が帰朝して間もなくの事だった。ある時女中に負ぶさって父の食パンを買いに上野の山下の方へ行った帰途、池の端で亀の子を見ていると、通りすがりの綺麗な奥さんが、彼が女中の背中で持たされていた食パンを包みのままツイと引き抜いて持って行ってしまった事、


 これだけのことだが、なんとも、不思議なことがあるものだ。今の世の中で、背中におぶさった幼児(も、実はほとんどいないが)が持っている食べ物を、「ツイと引き抜いて持って行ってしまう」人なんているだろうか。どう想像力を働かせても、そんな人を思い浮かべることができない。その「綺麗な奥さん」がどうのこうのというよりも、時代の空気みたいなものを感じるといったら大げさだろうか。

 その点、次のようなエピーソードには普遍性がある。そしてこの「暗夜行路」全体の問題にもつながるものがある。


そしてそれらは、何れも毒にも薬にもならないようなものが多かったが、ただ一つ、まだ茗荷谷(みょうがだに)にいた頃に、母と一緒に寝ていて、母のよく寝入ったのを幸い、床の中に深くもぐって行ったという記憶があった。間もなく彼は眠っていると思った母から烈しく手をつねられた。そして、邪慳に枕まで引き上げられた。しかし母はそれなり全く眠った人のように眼も開かず、口もきかなかった。彼は自分のした事を恥じ、自分のした事の意味が大人と変らずに解った。この憶い出は、彼に不思議な気をさした。恥ずべき記憶でもあったが、不思議な気のする記憶だった。何が彼にそういう事をさせたか、好奇心か、衝動か、好奇心なら何故それほどに恥じたか、衝動とすれば誰にも既にその頃からそれが現われるものか、彼には見当がつかなかった。恥じた所に何かしらそうばかりはいいきれない所もあったが、三つか四つの子供に対し、それを道徳的に批判する気はしなかった。前の人のそういう惰性、そんな気も彼はした。こんな事でも因果が子に報いる、と思うと、彼はちょっと悲惨な気がした。

 

 

 

 

 


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