猶如秋月十五日夜
おぼろけの人をばいかが名に高き今宵の月のかげにたとへん
半紙
【題出典】『涅槃経』二
【題意】 猶如秋月十五日夜
秋の月が、十五夜に清浄円満で曇りなく、すべての衆生に仰ぎ愛でられるように、(純陀長者、あなたもまた我々に尊敬される。)
【歌の通釈】
いいかげんな人を、どうして名高き今夜の八月十五夜の月の光にたとえるだろうか。純陀長者は凡人ではなく、たとえられるのは当然のことだ。
【語釈】
純陀=仏の最後の供養をした弟子。
【考】
『涅槃経』で、純陀長者は十五夜の月にたとえられる。おぼろ月ではないが、純陀はおぼろげないいいかげんな人ではないから、澄みきった十五夜の月にたとえられるのももっともなことである。「十五夜」は和歌的伝統美であるが、仏典の中に「秋月十五夜」という句を発見し、仏の時代にも極めて美しいものとしてあることを知った。伝統美が仏の世界から続くという感慨があるように思われる。
(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)
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寂然は、仏典を読みながら、そこに「秋月十五夜」という句を発見して喜んだのだろうと、「全釈」は言う。その発見の喜びから、歌が生まれていると。
「釈教歌」というジャンルについては、教師をしているころから知識としては知っていて、新古今和歌集を扱うときなどは、ちょっと触れたことがあったような気がするが、どうせ、仏教の教えを和歌に置き換えただけの、あんまり面白くない歌なのだろうぐらいの考えしかなかった。しかし、こうしてゆっくりと「釈教歌」を読んでいくと、仏教という外来の思想・宗教を、わが身の感性を通して我が物にしようというその真摯な態度に心打たれるものがある。