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一日一書 1671 避邪迎福

2020-12-12 21:04:29 | 一日一書

 

避邪迎福

 

半紙

 

 

「邪を避けて福を迎える」というほどの意味で

おめでたい言葉。

「鬼は外、福は内」と同じですかね。

 

なんとか「邪」には、はやく退散してほしいものです。

 

 


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日本近代文学の森へ (177) 志賀直哉『暗夜行路』 64  信行と謙作の「自我」 「前篇第二  八」 その3

2020-12-12 10:11:33 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (177) 志賀直哉『暗夜行路』 64  信行と謙作の「自我」 「前篇第二  八」 その3

2020.12.12


 

 信行の手紙に「不愉快」を感じ、怒りも感じた謙作だが、その怒りの「正しさ」が信じられない。同時に父の怒りの「正しさ」も信じられない。とにかく腹が立ったのだった。

 信行がこの結婚の問題について義母に話したことも気に入らなかったし、信行が自分に同情しているようにいいながら、結局のところ父の気持ち第一なのが気に入らなかった。

 

 しかし謙作にも信行の気持、同情出来ない事はなかった。同情しなければ、いけないという気持すらあった。が、同時に其処まで同情したら、自分の方はどうするのか? という気がした。それに信行は自分がお栄に申出でをした事だけを話したらしく書いているが、自分に自分の出生を打明けた事を話したか話さないか、まるで書いていない。この事も彼はちょっと不快に感じた。それは勿論話したのだ。ただ自身の軽挙をいくつもいいたくない気持から、それが書けなかったに違いないと彼は思った。其処まで話したとすればなおの事、自分の事は自分だけで処理さすよう徹底的に父を納得させるがいいのだ三千円に執着しているような所も、感心出来なかった。

 

 「もういい加減にしてくれよ!」といった信行の気持ちが謙作には分かる。「同情しなければ、いけないという気持すらあった」のだ。けれども、「同時に其処まで同情したら、自分の方はどうするのか? という気がした。」という。正直な話である。

 ぼくらはいつも、この「同情すべきだ」と「そこまで同情したらオレはどうなる?」の間でのせめぎ合いで生きている。「君の気持ちは分かるよ。分かるんだけど、でもね、それじゃオレはどうなるの?」こんなことの繰り返しで日々が過ぎているのではなかろうか。

 信行に同情すべきだという気持ちはありながら、彼の行動への不満は山とあるわけである。

 謙作は返事を書いた。

 


 お手紙只今拝見、父上のお怒り、僕には不愉快でした。この問題は前の手紙にも書いた通り、父上との関係が本統の所まで、はっきり落ちついていない所から起った事です。それがはっきりしないうちに父上のお耳に入れたのは面白くない事でした。しかし今更それをいった所で始まりません。が、僕としては──僕の行動としては関係がはっきりした後にとるべき行動と、同様のものを今もとるより仕方ありません。いいかえれば僕は僕の考え通りにするより仕方ありません。

 


 単刀直入とはこのことだ。こんな手紙、なかなか書けない。まずは、社交辞令から始まるのが普通なのに、いきなり「不愉快でした」だもの。取り付く島がない。


 結婚の事は勿論僕だけの勝手には行きません。しかしお栄さんと別れる、別れないは、──ある時別れる場合があるとしても、──それは二人の間だけの問題にしたいと思います。しかしただこれだけの事はいえます。僕はこれからお栄さんと正式に結婚すればよし、もしそれが出来ないとすれば、出来ないままに今までと全く同じ関係を続け、決して深入はしまいと決心しているという事を。それなら父上には今までと同じわけです。もっともこれは父上のためにした決心ではなく、僕は僕の運命を知る事で、一層そういう事につつしみ深くならねばならぬという気が強くしているからの事です。
 それから金の事は僕直接の事ではありませんが、お断りします。僕の金も元々父上から頂いたものですが、お栄さんには、それから分けます。
 それから家を引越す事、これもそんな必要ないとも思いますが、お栄さんが気になるなら、引越す事賛成します。何処か郊外へでも行ったらいいでしょう。


 実に筋が通っている。信行は謙作とお栄の結婚を、当事者二人だけの問題として捉えてはいない。お栄との結婚を諦めてくれというのは、「必ずしも父上を本位にしていうのではない。その事は何故かお前の将来を賠いものとして思わせる。」といいながら、謙作の言うとおり、やっぱり、父本位なのだ。あるいは、父と自分との関係が問題なのだ。

 そこを謙作は断固として突っぱねる。信行に同情のかけらすら示さない。これでは間に入った信行が「子どもの使い」になってしまう。それでも、謙作は、そんなの関係ねえ、と突っぱねるのだ。

 この取り付く島もない謙作の言葉の後で、信行が手紙に書いてきた言葉を再びよむと、信行があわれに思えてくる。


そしてなお出来る事なら、この機会に思い切ってお栄さんと別れてくれ。これは後になれば皆にいい事だったという風になると思う。それはお前の意地としては、なかなか承知しにくい事とは思う。が、それをもしお前が承知してくれれば吾々皆が助かる事だ。俺は俺の過失に重ねて、こんな虫のいい事をいえた義理でない事をよく知っている。が、俺の希望を正直に現わせばこういうより他ない。重ね重ね俺はお前に済まぬ気がしている。


 ここまで恥をも厭わず本音をさらけ出して書いた信行があわれである。もちろん、信行は、事なかれ主義で、常に父の顔色を伺って生きているしょうもないヤツだろう。それでも信行の気持ちには切実なものがある。

 しかしまた謙作のお栄に対する気持ちも切実だ。お互いに一歩も譲らないという事態。まあ、これが現実というものだろう。


 父上の怒られたお気持、僕にも解ります。しかし僕には君のように父上のお気持を全然主にしては、自分の事だけに考えられません。君の板ばさみの立場についても同様です。これは僕の我儘かも知れません。しかし君の望まれる通りになる事は僕には性格的に不自然です。どうか悪しからずお思い下さい。


 こう手紙は結ばれる。最後の「性格的に不自然」という言葉が印象的だ。この「不自然」という言葉は、謙作が遊郭で遊んでいたころに、盛んに使われていた言葉だが、「こういう場所(遊郭)に不馴な自分が、それほどの馴染でもない家に電話まで掛けて、一人で出向いて来る事はどうしても不自然で気が咎めた。」というように、遊ぶ場合の態度についてであって、意味はそんなに重くない。けれども「性格的に不自然」というのは、なかなか重い意味を持つ。つまり、それでは「性格的に自然」ってどういうことだ? という疑問を持たせるからだ。

 たとえば、ぼく自身についていえば、自分の性格に照らして、どういうのが「自然」なのかと考えても、ぜんぜん分からない。もちろん、何が「不自然」なのかも分からない。「こういうことは性格的に不自然だ」と言うことができるということは、自分の「性格」に確固たる自信があるということだ。

 「志賀直哉のおける自我の構造」といったような論文が、おそらくいくつもあるような気がするのだが、それはこうした自分の性格に対する自信が作品の随所に見えるからかもしれない。

 ひるがえって信行の性格を考えてみるに、謙作の対極にあることが分かる。つまり、信行の造型は、謙作の自我の強さを印象づけるための「鏡」として設定されたのだろう。

 

 


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