日本近代文学の森へ (178) 志賀直哉『暗夜行路』 65 記憶力 「前篇第二 九」 その1
2020.12.13
信行からの返事が届かぬうちに、謙作は尾道を引き上げた。軽い中耳炎にかかり、尾道には耳鼻科がなかったからだが、それ以上に、ここでの日々に起きたことが苦しいことばかりだったからだ.
それにしても、尾道に耳鼻科医院がない、というのも驚きだ。広島か岡山まで行かないと、耳鼻科専門の医者がいなかったという。当時の医療体制というは、そんなものだったのかと、改めて認識した。
さて、謙作は、汽車に乗った。急行は尾道にはとまらないので、普通列車に乗り、姫路で急行に乗り換える予定だった。
客車の中は割りに空いていた。それは春としては少し蒸暑い日だったが、外を吹く強い風が気持よく窓から吹込んで来た。彼は前夜の寝不足から、窓硝子に頭をつけると問もなく、うつらうつらし始めた。やがて騒がしい物音に物憂く眼を開くと、いつか岡山の停車場へ来ていた。彼の前に坐っていた、三人連れの素人か玄人か見当のつかない女たちが降りて行くと、そのあとに二人の子供を連れた若い軍人夫婦が乗って来た。軍人は背の高い若い砲兵の中尉だった。荷の始末をすると、膝掛を二つに折って敷き、細君と六つ位の男の児、それからその下の髪の房々した女の児とを其処へ坐らせた。そして自身は其処から少し離れて、腰かけの端へ行って腰を下ろした。
相変わらずこういう描写が志賀直哉はうまい。昔の客車は、どんな人が相席するのかが楽しみでもあった。そんな時代をぼくも幾度となく経験している。
それにしても、軍人が一目で、「砲兵の中尉」だと分かるのは、胸とかにつけた徽章によるのだろう。学校の制服というものも、こうした軍服の仕様を引き継いだものであることがよく分かる。
「素人だか玄人だか見当のつかない女たち」って、どんな格好をしていたのだろうか。当時は「玄人」は、やっぱりそれらしい格好をしていたのだろうが、今では、そんなことは見た目では分からない。
軍人にしろ、「玄人」にしろ、昔は、その外見でどういう階級か、どういう筋の人かが、一目で分かったということだろう。それがいいのか悪いのか分からないが、それはそれで面白いなあと思う。
姫路につく一時間ほど前から目覚めた謙作は、ずっと軍人親子の様子を見ている。こうした詳しい描写は、あの「網走まで」を思い起こさせるものがある。
前の席にいた男の児(こ)は二つ折の毛布の間に挟まって、寝ころんだ。すると、女の児もそうして寝たがった。若い、しかし何処か落ちついた感じのある母親は窓硝子に当てていた自身の空気枕を娘のために置いてやった。男の児は父親の方を、女の児は母親の方を枕にして寝た。女の児は喜んだ。母親自身は空気枕の代りに小さいタウルを出し、幾重(いくえ)にもたたんでまた窓硝子へ額をつけた。
「お母様、もっと低く」と娘が下からいった。
気を少し出してやった。
「もっと低く」
母親はまた少し出した。
「もっと」
「そう低くしたら枕にならんがな」
女の児は黙った。そして眼をつぶって、眠る真似をした。
軍人は想い出したようにポッケットから小さい手鏡を取り出した。それからまた小さいチューブを出し、指先きにちょっと油をつけて、さも自ら楽しむように手鏡を見つめながら、短く刈って、端だけ細く跳ね上げた赤いその口髭をひねり始めた。
細君は最初、タウルの枕に顳顬(こめかみ)をつけたまま、ぼんやり見るともなく見ていたが、軍人が余り何時までも髭を愛玩しているのに、細君の無表情だった顔には自然に微笑が上って来た。細君は肩を少し揺すりながら声なく笑った。が、軍人は無頓着になお油をつけ、髭の先を丹念に嵯(よ)り上げていた。
眠れない子供たちは眼をつぶったまま、毛布の中で蹴り合いを始めた。もくもくと其処が持上った。女の児の方が一人忍び笑いをした。
軍人は鏡からちょっと眼を移し、二人を叱った。細君は黙って微笑していた。
しかし男の児はなお乱暴に女の児の足を蹴った。毛布がずり落ちて、むき出しの小さい脛(すね)が何本も現われた。二人はとうとう起きてしまった。
二人はそれから二つの窓を開け、その一つずつを占領して外を眺め始めた。外には烈しい風が吹いていた。男の児は殊更(ことさら)窓の外に首を突き出し、大声に唱歌を唄った。女の児は首を出さずにそれに和した。風が強く、声はさらわれた。男の児は風に逆らってなお一生懸命に唄った。それでもよく聴えないと、わざわざ野蛮な銅鑼声(どらごえ)を張上げたりした。風に打克(うちか)とう打克とうと段々熱中して行く、其処に子供ながらに男性を見る気が謙作にはした。彼はそれが何となく愉快だった。
「やかましいな!」と不意に軍人が怒鳴った。女の児は吃驚して、直ぐやめたが、男の児は平気で、やめなかった。細君はただ笑っていた。
この前の、信行の手紙や謙作の返事を読んだあとでは、なんとも清々しい光景で、心が洗われるような気さえする。おそらく謙作もそうした気分を味わったのだろう。
こうした細かく生き生きとした描写を見ると、これは志賀直哉が実際に見た光景なのではないかと疑われる。尾道からの帰途ではなくても、どこかで最近、つまりはこの文章の執筆時に近い時に、車内でこんな光景を見たのではないかと思ってしまう。しかし、志賀直哉は驚くべき記憶力の持ち主だというから、この光景も、尾道からの帰途にほんとうに見たのかもしれない。
若い軍人のどこか子どもっぽい仕草、それを笑って見ている妻。じゃれあう子どもたち。風にむかって銅鑼声を張り上げる男の子に、どこか共感する謙作。いい場面だ。
謙作は、疲れていたし、耳の具合もよくなかったが、姫路で下車する。東京を発つとき、お栄から「明珍の火箸」を買ってきてくれと頼まれたからだ。
「明珍の火箸」なんて、聞いたこともなかったが、調べてみれば、今でもある有名な火箸だ。「もうない」と思っていたものが、「まだある」と分かったということが、この「暗夜行路」読書の過程で何度もあった。これも、読書の功徳のひとつ。
謙作は白鷺城(原作には「はくろじょう」とルビがある)を見物し、車夫に「お菊神社」に連れて行かれる。そこでは「お菊虫」の話を聞いて、それを買い求める。どうやら「播州皿屋敷」がらみの妖怪らしいが、これも調べてみると、ジャコウアゲハのサナギとか、いろいろな説がある。
五時頃姫路へ着いた。急行まではなお四時間ほどあった。彼は停車場前の宿屋に入り、耳の篭法を更え、夕食を済ますと、俥で城を見に行った。老松の上に釜え立った白壁の城は静かな夕靄の中に一層遠く、一層大き<眺められた。車夫は士地自慢に、色々説明して、もう少し側まで行って見る事を勧めたが、彼は広場の入口から引き返さした。それから、彼はお菊神社というのに連れて行かれた。もう夜だった。彼は歩いて暗い境内をただ一卜廻りして、其処を出た。お菊虫という、お菊の怨霊の虫になったものが、毎年秋の末になると境内の木の枝に下るというような話を車夫がした。
明珍の火箸は宿で売ると聞いて、彼はそのまま俥を宿の方へ引き返さした。彼は宿屋で何本かの火箸と、お菊虫とを買った。その虫に就いては口紅をつけたお菊が後手に縛られて、釣下げられた所だと番頭が説明した。
さすがにこういうことになると、尾道からの帰途に志賀が実際に姫路に立ち寄って、「明珍の火箸」だの「お菊虫」だのを買ったことがあるということだろう。やっぱりすごい記憶力だ。それともメモでもしていたのだろうか。
それよりなにより、謙作がお栄の頼みをちゃんと覚えているというのがすごい。(ぼくなら絶対忘れる、って自信をもって言える。)やっぱりお栄への思いが強いということなのだろうか。それとも「明珍の火箸」というものが、それほど貴重なものだったのだろうか。
ぼくが若いころは、外国へ行くという知人がいると、やれ、ジョニグロを買ってきてくれとか、シャネルの香水を買ってきてとか、そんなことを真面目に頼む人たちがいたものだが、まあ、それと同じようなもんだったのだろう。