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日本近代文学の森へ (211) 志賀直哉『暗夜行路』 98  「不安」の正体 「後篇第三  七」 その2

2022-02-21 14:26:04 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (211) 志賀直哉『暗夜行路』 98  「不安」の正体 「後篇第三  七」 その2

2022.2.21


 

 謙作が見た夢というのは、こんな夢だった。

 

 何でも  南洋から帰ったTを訪ねた所から始まる。雨中体操場のような雑な大きな建物の中に、丁度曲馬団の楽屋に見る猛獣を入れた檻のようなものが沢山あって、その一つに何十疋という栗鼠くらいの小さな狒々(ひひ)が、目白押しに泊り木にとまっているのが、甚(ひど)く彼には面白かった。
 急に不安な気持に襲われると、そわそわとしてTと別れ、上野の博物館の、あの大きい古風な門 、あすこへ彼は逃がれて来た。遠巻に何人かの刑事が取り捲いている事が姿は見えないが分っているのだ。で、彼自身は反逆人という事になっている。
 彼はそっと扉の陰から外を覗いていると日曜かなんぞのように兵隊が三々伍々、前を通り過ぎる。その一人に「君は脱営する気はないか」こう訊(き)いたらしい。直ぐ承知して二人は扉の陰で、急いで和服と軍服とを取りかえて着た。「これでいい」彼は思った。両方にいい事を考えたものだと思った。そしてその和服の兵隊と別かれ、彼は何食わぬ顔で、兵隊になり済まし、一人淋しい方へ歩いて行った。道幅の狭い両側が堤のようになった所へ来ると、駅長のような制服を着た男が前から来て、いきなり彼を捕えてしまった。忽ちに見破られたのである。見破られるのも道理、彼は自分で気がつくと、軍服の着方が全然いけなかった。襟のホックを一つもかけずに其所がだらしなく展(ひろ)がっている。それからズボンが、ずり下がり、誰れの眼にも借り着という事は直ぐ分かる。ひどい恰好をしているのである。彼は我れながら余りの不手際に苦笑し、同時に、捕えられた事に戦慄した。大体こんな夢だった。


 「暗夜行路」には、これ以前にも「夢」が出てきた。「夢」そのものもあるし、「夢から覚めたような」とか「夢のような」という比喩も多い。リアルな小説ではあるが、案外、「夢」が大事な役割を果たしているのかもしれない。

 この「夢」は、妙にリアルだ。いかにも夢らしく、「栗鼠くらいの小さな狒々が、目白押しに泊り木にとまっている」というなんとも珍妙なイメージもあるが、主要なテーマは「反逆」だろう。その「反逆」を隠そうとするのだが、たちまち見破られて捕まってしまう。それが謙作の「不安」の反映なのだろう。

 謙作は何に対して不安なのか。それは謙作自身にもよく分からない。その不安がはたして謙作だけのものなのか、それとも、謙作が生きる社会全体に広がっているものなのか。「檻」「捉えられた狒々」「刑事」「反逆人」「兵隊」「脱営」といったイメージは、やはり社会的な不安の反映にしか思えないが、それはまた謙作自身が抱える「落ち着かない気分」の反映でもあったわけだ。

 近くお栄と別れなければならないこと、そのお栄とまだ一緒に暮らしていること、そんな状況にいらだっていたのだろうか。朝起きたときの「落ち着かない気持ち」の原因がこの夢にあったのだと謙作は納得して、夢を思い出してよかった。そうでなければ、一日中いやな気分で過ごさねばならなかったと思うのだった

 「落ち着かない気持ち」の原因は夢であることは分かったにしても、その夢の原因が何であるかを謙作は追究しないところがおもしろい。

 謙作は、石本を訪ねた。


 石本は起きたばかりの所らしく、謙作は縁の籐椅子で石本の出て来るのを待っていた。少し秋めいた静かないい朝で、苔のついた日本風の庭に朝日が斜に差していた。軒に下げられた白い文鳥がちょっと濁ったような丸味のある声でしきりと啼き立てた。
「御機嫌よう」石本の六つばかりになる上の娘が長く畳んだ三、四枚の新聞を持って来て彼に手渡した。すると、その下の二つか三つの肥(ふと)った女の児が、一束の手紙を持ってよちよちと歩いて来て、「はい。はい」こういって同じようにそれを彼に手渡した。
「ありがとう」彼はその児の頭をなぜてやった。
上の児が駈けて行くと、下の児もよちよちと後から帰って行った。


 うまいものだ。朝のひとときの様子が、透明感をもって描かれている。

 「軒に下げられた白い文鳥」とあるが、もちろん軒に下げられているのは文鳥を飼う籠で、その中で文鳥が啼いているわけだ。

 漱石にも「文鳥」という小品があるが、昔はよく鳥を飼ったものだ。その趣味は、ぼくが幼いころまでずっと続いていて、ぼくの叔父などは、一時期、小鳥のブリーダーを仕事としていたことがあるくらいだ。主にジュウシマツや、セキセイインコだったが、そのほかの小鳥もたくさんいたように思う。

 小鳥の中でも文鳥は、格別に品がよくて、しかも「手乗り文鳥」としてかわいがられたものだ。その声を志賀直哉は「ちょっと濁ったような丸味のある声」と表現している。絶妙だ。小鳥の声をこんな風に表現できるひとは、そうはいないだろう。

 鳥といえば、ジュウシマツやセキセイインコなどのいわゆる「飼い鳥」だけではなくて、野鳥もずいぶん飼っている人が多かったが、メジロなどは、餌が「すり餌」で、なかなか大変だということもよく耳にした。叔父も飼っていたような気がするが、よく覚えていない。

 ヒバリを飼っている人も、近くにいた。このヒバリの籠というのは、ちょっと特殊で、ずいぶん背の高い籠だった。ヒバリは、まっすぐ空へ向かって上昇しながらさえずるので、そんな籠を使ったのだろうか。それとも、そんなのは、ぼくの記憶違いなのだろうか。

 もちろん、現在は、すべての野鳥の飼育は法律で禁じられている。

 今では、野鳥はもちろんのこと、鳥を飼っている人は少なくなった。その代わりに犬を飼う人が激増した。しかも家犬だ。ぼくが幼い頃には、犬を家に入れて飼っている人なんてまずいなかった。みんな家の外で飼っていて、番犬としていた。

 さて、元にもどって。子どもの描写も相変わらずうまい。上の児と同じように行動する下の児。よく観察している。


 彼は新聞を膝の上に置き、手を延べて、そのまだ開封してない石本への手紙を前のテーブルヘのせた。一番上になっている子爵石本道隆様としてある厚味のあるのが、S氏からのらしく、何となく彼にはそんな気がした。


 S氏からの手紙には、謙作の運命に関わることが書かれているはずだ。謙作の出生の事情まで先方に話したことを、先方はどう受け取るだろうか。それこそが謙作がずっと抱えてきた「不安」の正体だったのだと、ここで改めて気づかされるのだ。

 

 

 


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