日本近代文学の森へ (220) 志賀直哉『暗夜行路』 107 「羊羹」と「飛行機」 「後篇第三 十」 その4
2022.7.4
謙作の結婚問題の仲介者となってくれたS氏からの手紙を、S氏自身が持参したのだが、謙作は寝ていて、直接受け取れなかった。謙作はお仙に、ちょっと起こしてくれればよかったのにと文句を言うが、会社の出がけなので、また夕方来ますということだったので、とお仙は言う。けれども、謙作は、S氏が自分で手紙を持ってきてくれたことが嬉しかった。
謙作にとってはS氏がそうして自身で持って来てくれた事も嬉しかった。彼は色々S氏には世話になり、それをありがたく思っていながら、妙に機会がなく、これまで一度もS氏の家を訪ねなかった。この事は気になっていた。気になりながら、やはり彼は訪ねて行けなかった。そして同様S氏の方からも一度も訪ねて来ない事が、時々彼を不安にさえした。自分の礼儀なさをS氏が怒っている、そしてこの話にも、今は冷淡になっている、それで返事がこう遅れるのだ、結局こうしてこの話も有耶無耶になるのではないか、そういう不安だった。しかし今、彼はこういう拘泥した濁った気分までも一掃されると、二重に晴々した気持になっていた。
「拘泥した濁った気分」というのが、ときどき謙作を襲う。世話になっているS氏の家に行くべきだと思っても、なかなか行く気になれない。それが失礼なことだという意識が、ひょっとしたらS氏は怒ってるんじゃないかという不安を生む。そして、この縁談もダメになっていくんじゃないかというふうに、謙作の不安はふくらんでしまう。
それなら、そんな不安を払拭すべく、S氏の家に行けばいいじゃないかと思っても、行けない。それは、やっぱり「結果」を聞くのが怖いからだろう。謙作の不安は、どうしても、この縁談の行方に対する不安になってしまうのである。
「ようお決まりやしたか」
「うむ」
仙は今まで立っていたのを其所(そこ)に坐り、柄になく《しおらしい》様子で、
「おめでとうござります」と祝辞をいった。
「ありがとう」彼もちょっとお辞儀をした。
「そんで、何時(いつ)……?」
「判然(はっきり)しないが、今年中か来年なら節分前だ」
「ほう。たんと間(ま)がおへんな」
「節分というと何日頃だ?」
「二月初めでっしゃろ」
その手紙にN老人の息子の友達で或る私立大学の文科にいる人があって、それから謙作の評判を聴き皆(みんな)も喜んでいると書いてあった。謙作はその人が幸(さいわい)に自分をよくいってくれたからよかったが、と思った。そして、もし同じ事をその人の位置で自分が訊かれた場合、そう素直によくいうかどうかを思い、冷やりとした。
彼は信行と石本とお栄とにほとんど同じ文句の手紙を書いた。その他に久しぶりで巴里の竜岡にも書いた。
手紙の内容を地の文で説明したり、引用したりするのではなく、まずは、お仙との会話で示すというのも、また巧みな手法だ。そしてひとしきりの会話の後に、詳しい内容を説明する。うまいものだ。
お仙の態度がすがすがしい。お祝いの一言を、きちんとそこに座り、「しおらしい様子」で言う。謙作(作者)はそれを「柄になく」と表現するが、この「柄になく」という表現によって、お仙の日常のテキパキとした振る舞いが浮かび上がる。いつもとは違って改まった態度をわざわざとって、「祝辞」を言う、という、何気ない日常の一場面だが、それでも、この当時は、こうしたきちんとした振る舞いの作法が、ごく普通の庶民にも行き渡っていたことを思わせる。
今だったら、どうだろうか。人生の区切りとなるような場面で、常套句を言うような場面は多々あるわけだが、家の中での場合、畳のない部屋では、どうにも恰好がつかないのではなかろうか。もちろん、たったままでも、姿勢を正して、「おめでとうございます」ということはできるが、なんか、違うなと思ってしまう。
謙作が、「節分というと何日頃だ?」と無邪気に訪ねるのも微笑ましい。日常を区切る季節の大事な一日を、ほとんど意識して生活していない。それが今も昔も「知識人」と呼ばれる人なのかもしれない。それに対して、お仙は、「二月初めでっしゃろ」と、あいまいではあるが、はっきりと認識している。「節分」が、生活の中にしっかりと根付いているのだ。
謙作は、自分の「身辺調査」(というほどの大げさなものではないが)の中で、自分の作品が評判がよかったという話を手紙で読み、ほっとするが、自分だったら、その相手の作品を素直に褒めることができただろうかとふと思って「冷やり」とした。どこまでも、誠実な謙作である。
午後彼は自家(うち)を出て、竜岡へ送るために駿河屋という店に羊羹を買いに行き、其所からS氏の会社へ電話をかけ、都合を訊き、此方(こちら)から訪ねる事にした。四時に来てくれという事だった。四時まではちょっと二時間近くある。彼は時間つぶしに四条高倉の大丸の店へ行った。華やかな女の着物を見る、こういう、私(ひそ)かな要求が何所(どこ)かにあった。それらを見る事から起こって来るイリュージョンが今の場合、欲しかったのだ。しかしまた別に、最近、深草の練兵場で落ちた小さい飛行機を展覧している、それも見たかった。竜岡が、その飛行機──モラン・ソルニエという単葉の──を讃めていた事がある。そして彼は今日竜岡への手紙にその飛行家が、東京までの無着陸飛行をやるために多量のガソリンを搭載し、試験飛行をしている中(うち)に墜落し、死んでしまった事を書いた。半焼けの飛行服とか、焦げた名刺とか、手袋とかその他色々の物が列(なら)べてあった。彼が京都へ来た頃、よくこの隼のような早い飛行機が高い所を小さく飛んでいるのを見た。町の子供たちがそれを見上げ「荻野はんや荻野はんや」と亢奮していた事を憶い出す。子供ばかりでなく「荻野はん」の京都での人気は大したものだった。それが今は死に、その物がこうして大勢の人を集めている──。
いい時間に彼は其所を出て、S氏の家へ向かった。
結納の事、結婚の時期、場所、そんな事が相談されたが、謙作には別に意見がなかった。時期だけはなるべく早い方がいいとも思ったが、節分前と決っていれば、その中でも早くというのは変な気もし、総て、いいように石本と相談し決めてもらいたいと頼んだ。
「暗夜行路」には、話の大筋とは無関係な(あるいは無関係にみえる)細かいことがいろいろと書き込まれている。まあ、「暗夜行路」に限らず、小説というものは、そういうものかもしれないが、とにかく「細部」や「脇道」が面白い。
パリにいる竜岡というのは、最初の方から出てくる謙作の友人で、今は、パリにいて、「発動機」の研究をしている。この理系の友人は、かえって謙作とは気があって、何かと連絡をとっているわけだが、そのパリの竜岡に今回の縁談についての報告の手紙を送り、さらに、「羊羹」を贈る。なんで「羊羹」なのか? って思うけれど、確かに当時のパリには「羊羹」はあるまい。それに、船便でも、「羊羹」なら腐ることもないだろう。しかし、もっと気の利いたものはないのだろか。「駿河屋」の「羊羹」は、そんなにうまいものなのだろうか、とも思う。どうでもいいことだけど。と思いつつ、ネットで調べたら、これはもう、ほとんど「羊羹」の元祖ともいうべき老舗で、スーパーで「羊羹」を買うのとはわけがちがう、ということが判明した。まあ、京都に住んでる人にとっては、何を今更って話だろうけどね。
もうひとつの印象的な「脇道」は、「荻野はん」のことである。なにせ、飛行機嫌いのぼくだから(といっても、乗るのが嫌というだけだけど)モラン・ソルニエという単葉の飛行機のことも、まして京都で大人気だったという「荻野はん」のことも、まったく知らなかった。これはもう「羊羹」どころの騒ぎじゃない、ちゃんと調べなきゃと思って調べたら、この「荻野はん」のモデルは「荻田常三郎(おぎた・つねさぶろう)」であり、ここに書き留められたことは、ほぼ事実ということが判明した。これも、飛行機のことに詳しい人なら「何を今更」ってな話だろうが、ぼくには、新発見だった。
調べている過程で、京都外国語大学の図書館報「GAIDAI BIBLIOTHECA」第233号(2022年4月20日発行)に、図書館長の樋口穣先生が、「『暗夜行路』と近代京都」というエッセイを書かれていることを知った。非常に興味深いエッセイなので、是非お読みいただきたい。(樋口穣先生のエッセイは、最終ページに掲載されている「図書館長のおもちゃ箱」です。)