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一日一書 1721 寂然法門百首 69

2022-07-22 14:07:27 | 一日一書

 

但念寂滅不念余事

 

いづくにか心を寄せん浮波のあるかなきかに思ひ沈めば

 

半紙

 

【題出典】『摩訶止観』四・下


【題意】 但念寂滅不念余事

但だ(涅槃)寂滅を念じて余事を念ぜず


 
【歌の通釈】
どこに心を寄せようか、漂う波の底に沈むように、有るのか無いのかも分からないくらい思い込んでしまったので。

【参考】ことわりやかつわすられぬ我だにもあるかなきかに思ふ身なれば(和泉式部集・人の久しう音せぬに・二一〇)

 

【考】
我が身が消え入りそうなほど恋の思いに沈潜する心と、ただ安らかな悟りの境地に心を沈めることを重ね合わせた。
悟りの境地にいる心境は、恋に一心に沈む心境に通じていく。「あるかなきか」という句は、『法華経』随喜功徳品の、「世智不牢固、如水沫泡焔」を詠んだ「かげろふのあるかなきかの世の中にわれあるものと誰たのみけむ」(発心和歌集・四二)や、維摩経十喩を詠んだ「夏の日のてらしもはてぬかげろふのあるかなきかの身とはしらずや」(公任集・此身かげろうふのごとし・二九一)のように、世の中や我が身のはかなさを表す句として多く詠まれてきたが、左注のいうように、中道の理に思いを沈めるという、むしろ肯定的な意を持たせているのが新しい発想。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

▼恋人への思いに駆られていると、自分の存在が「あるかなきか」という感じになってしまうというわけですが、このように「自分」というものが、案外はかないもので、恋などするとどこかに消えてしまうような存在として考えられているということは、ヨーロッパ文学や哲学では、普通のことなのだろうかと、ふと思います。
▼西欧の思考では、デカルトの「我思う、故に我あり」といったふうにどこまでいっても「自分」は、疑い得ないそんざいだということを懸命になって証明しようとしてきたのではないでしょうか。「我が身のはかなさ」を、西欧の人は、どう考え、どう表現してきたのだろうと、改めて思います。

 

 


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